「もう大丈夫だろ」

 ずっと頬杖をついたまま傍観に徹していた兄の言に、七海は首を捻りながらそちらに目をやった。昌也は七海でも美弥子でもなく、誰もいないはずのキッチンを見ている。

「や、隠れてるつもりかもしれないけど、俺の位置からだと丸見えだから」

 ぽいと無造作にテーブルの上に置いてあった携帯電話を放り投げた。

「いっ」

 誰かにぶつかって不自然な方向へと跳ねてから床に落ちる。幾つもつけられたストラップのうちのどれか、鈴が震える音が響く。
 ぼんやり眺めていた七海だったが、はっと気付いて立ち上がった。

「ちょっとそれ私の携帯ー!」
「そうだけど?」

 しれっと言ってのけた昌也を睨みつけ、小走りで携帯電話を取りに行った。

「衝撃でこの子がアホになったらどうしてくれんのよ」
「最近のは性能がいいから」

 だったら自分の投げろ。確認のためにフラップを開きながら何となく走らせた視線の先に、頭を押さえている人物がいるのに漸く気付いた。

「アホの子いたーっ!!」

 指を差して叫んだその内容が相当酷いという自覚はない。口をついて出た文章は、紛れも無く七海の本心そのものだ。
 アホの子こと勇人は突き出された七海の腕を掴んで引き寄せた。

「随分な言い種だな、名誉毀損で訴えるぞ」

 両者の間が僅か数センチという至近距離で凄まれ、怯まなかったわけじゃない。男性というにはまだ未完成な身体つきをしているとはいえ、勇人の手を振り解けないくらいには力の差がある。また、顔が整っているだけに妙な威圧感があるのも否めない。

 だがここは負けず嫌いである性格故に、正直に黙り込む事を良しとしない。

「その前にこっちが暴行で警察に突き出す」
「こっちは金属で殴られた」
「あんた私の首絞めたでしょうが!! 金属って紛らわしい言い方しやがって。しかも携帯投げたの私じゃないし!」

 ああ言えばこう言う。二人の応酬は放っておけば何時までも続きそうな勢いだ。
 初めは物珍しそうにしていた昌也だったが、段々と耳障りになってきた。すっと手を上げる。

「母さん、俺寝る」
「そう? ご飯冷蔵庫に入れておくから起きたら食べなさいね」
「ん」
「放置すんなぁー!」

 兄が何となく仲裁に入ってくれるのかと思いきや、驚くほど無視を決められてショックを隠しきれない。

「それ以前に二人とももっと驚くとかリアクション起こそうよ!? コイツどっからともなく入ってきてたんだよ!」

 どうして冷静に、というよりも関心が無さそうに振舞えるのだろう。

「なんつーか今更? 七海が話してる最中からいたし」
「そろーっとドア開いてこそこそーっとね」
「関さんに教えたげようよ!」

 『勇人様は?』と彼が会いたがっていたのを、この二人だって聞いていたはずなのに。協調性の無さに涙が出そうだ。

「あの人にそこまでしてあげる義理がないっていうか」
「貰った金握り締めながら言えた事!?」

 などと言っている間に昌也は二階に上がってしまった。がくりと肩を落とし、疲れきった表情で勇人を見る。ぼんやりしていた勇人は身体を揺らして驚き、すぐに平静を取り戻して七海を見返した。

「お腹空いたんじゃないの」

 勇人は昨日晩ご飯を食べて直ぐベッドに潜り込み、夕方に差しかかろうとしている今まで熟睡していたのだから、多分お腹が空いて目が覚めたのではないだろうか。

「駄目よ、もうすぐご飯出来るから待ってて」

 チッと舌打ちする。勇人にかこつけて七海もお菓子を食べようと思っていたのだ。

「しゃーない、ケチなお母さんがああ言ってるから夕食まで飲料で凌ごう」

 勇人に並々と麦茶を注いで渡した。もう冷めたコーヒーをカップごとゆらゆらと揺らす。
 勇人は少しずつ麦茶を喉に通していっている。彼といてこんなにゆったりと落ち着いていられるのは初めてではないだろうか。


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