闇を裂く月白 | ナノ


▼ その執事、万能

ドアを押し開けるとからん、とドアに下げられているベルが鳴る。
隻眼の少年と銀髪の青年、そして執事は杖職人のもとを訪れていた。

「いらっしゃいボク、お父さんのお使いかい?」

カウンターに立っていた男は顔を上げ、店に入ってきた三人の客人、その先頭を歩くシエルを見るとにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべてそう言う。
その男の明らかに子供扱いしているその発言に、シエルの眉がピクリと動く。ふ、と思わず漏れそうになる笑いを慌てて咳払いで誤魔化すレオンを睨んだ。

「失礼、主人の杖を受け取りに参りました」

それを見兼ねたセバスチャンがシエルは主人だと庇う後ろで、レオンは必死に笑いを耐えていた。

「ああ、この杖の人か。こんな短い杖、一体どんな人が使うのかと思ったら、まさかこんな子供───」

続けられるはずだった言葉は、セバスチャンが職人の眼前にその杖を突きつけたことで飲み込まれる。その迫力は職人の喉がゆっくりと上下し、冷や汗が頬を伝うほどだ。

「歪みもなく、素晴らしい杖ですね」

にっこりと、わざとらしいほどに完璧な笑みを浮かべたセバスチャンがぱくぱくと金魚のように口を開け閉めしている職人の前に金貨が入った袋を置く音を聞きながら、シエルとレオンはさっさと外へ出てしまった。

「ったく……フィニの馬鹿力にも困ったものだな、おかげで杖を新調するハメになった」
「そうですね、身長が伸びた訳でもないのにお手間をとらせました」
「ぶふっ」

すぐに追いついたセバスチャンが申し訳ございませんと恭しく謝ったことでとうとう耐えきれなくなったレオンは、ついに思い切り噴き出してしまった。
それをもちろんシエルが見逃すはずもなく。

「おい!」
「っく、ごめ、」

顔を真っ赤にさせたシエルに怒鳴られ必死に笑いを収めようとするも、積もり積もったものは中々収まらず。
やっとレオンが瞳に浮かべた涙を拭き取る頃にはシエルの機嫌が急降下していた。

ごめんって、うるさい、などと言い合いをしている二人を呆れたように見ていたセバスチャンの耳に、ふと子供の無邪気な声が入る。

「見てママ!『ファントム』のビターラビット!」
「もう……さっきお菓子買ってあげたばかりでしょ?」

そう歓声をあげる子供が張り付いているショーウィンドウの向こうには、新作と書かれたポップの下に大きなうさぎのぬいぐるみが置かれていた。

────『ファントム社』

資産家や成金貴族からの強力な援助と強気の事業展開、他に類を見ない斬新な商品アイデアで3年弱で急成長を遂げた英国の製菓・玩具メーカーだ。

今この街でその名を見ない日はない。
────だが、誰一人として気づきはしないだろう。玩具の虜となる子供達に紛れ彼の支配者がそこにいるなど────。

「さあ坊ちゃん方、早く屋敷に戻りましょう」

馬車に乗り込む時にはシエルの機嫌も戻り。
しかし逆にレオンはこの後の惨劇に憂鬱そうな表情を隠しきれなかった。


***


「あーーーーーーっまたやっちゃった!!!!」

昨日も杖を折って怒られたばかりなのに、暴れん坊伯爵〜〜〜っ!と大声で泣き叫ぶフィニ。
その背後に、あやしい影が迫る。その影の主はフィニの首元を鷲掴むとそのままどこかへと連れ去ってしまった。その間僅か5秒。
まさに早業、一瞬の出来事に気づく者はなく、そして後にこの屋敷の主人達を驚かせる事件を引き起こすことになる。

***

「お疲れ様でした坊ちゃん、若様。すぐにお茶の用意を致しましょう」

屋敷に到着し、そうにこやかに扉を開けたセバスチャンは、扉の向こうを指を差しながらぱくぱくと口を動かすシエルと顔を青くさせげんなりとした表情を浮かべるレオンを見て不審げに問いかけた。

「?どうされまし………っ!!?」

シエルの指先を追い、その中を目にしたセバスチャンは、2人と同じようにビシリと固まってしまった。
それもそのはず。あの厳かな屋敷が、全く似合わないファンシーな装飾品で埋め尽くされていたからだった。

これは一体、と呆然と中を見回していると突然どこからかダッシュしてきた使用人トリオがセバスチャンに抱きついてきた。

「二人とも何ですその格好は?」
「あの女に聞いてくれ!」

コスプレのようなものをしているバルドとフィニに思わずといった風にセバスチャンが問うと、バルドはイラつきを隠さずクレイジーガール、と親指で向こうの扉を差した。

恐る恐る三人が扉を微かに開き、様子を伺ってみると中からキャッキャと楽しげな声が聞こえてくる。

「でもやっぱりアナタにはそれねっすっごくかわいーっ」

語尾にハートでも着きそうなその声の主はタナカにこれまた似合わないマリー・アントワネットのような縦ロールのカツラを被せているところだった。

そんなタナカを見て思わずセバスチャンでも笑ってしまったのに、やっと笑いが引っ込んだレオンが笑わないはずもなく。

「ぶふぅっ」
「!?」

慌てて後ろから口を塞がれるもやはり声の主には聞こえていたようで。
くるりとスカートを翻し、猪のような勢いでピンク色がこちらに突っ込んで来た。

「シーエールーッ!レオンッ」
「ぐえっ」
「うぐ、」

2人の首に手を回しそのまま抱きつく少女を抱きとめるようにして支えるレオンに対しシエルはされるがまま、気絶しそうになっていた。

「エリザベス、シエルが………」
「やだぁ〜っリジーって呼んでっていつも言ってるじゃない!」

抱きしめる力を緩めることなく、それどころか力を強めるピンク色の少女、もといエリザベスによっていよいよシエルが昇天しかけていた。

「……リジー、シエルが死にそうだから離してやってくれないかな」
「え!あらやだ、わたしったら」

エリザベスから解放された2人は途端に息を整えるべく深呼吸を繰り返す。
その様子を尻目に、セバスチャンはエリザベスへ恭しく頭を下げた。

「セバスチャンごきげんよう!」
「お久しぶりにお目にかかります」
「あなたにもおみやげがあるのよ!」
「え、」

まさかの一言に思わず固まるセバスチャン。その隙をエリザベスが見逃すはずもなく、どこからか取り出したピンク色のヘッドドレスを目にも留まらぬ速さでつけられてしまった。

「かわいー!いつも黒ばかりだからこういう色もいいと思ってたの!」

くるりとカールされた金髪を揺らし、キラキラとした瞳で見つめるエリザベスの後ろでは、笑いすぎによって死にそうになっている者が総勢五人。

彼らが立ち直るよりも前に、目にも留まらぬ早業でセバスチャンはバカトリオを一掃した。

「私の様な者にまでこの様なお心遣い…大変光栄に存じます」
「いいのよ」
「それよりリジー、何故ここに?叔母様はどうした?」

ようやく笑いが収まったシエルが咳払いを一つ、エリザベスに問う。するとシエルに再度抱きついたエリザベスはすりすりと頬をすり合わせ、笑みを浮かべた。

「シエルに会いたくて、内緒で飛び出して来ちゃった」
「内緒で?」
「リジーは本当に行動力あるね」

呆れたように言う二人とエリザベスは何やら楽しげに言葉をかわす。その様子を見ていたバルドが我慢できずにセバスチャンへ尋ねた。

「セバスチャンよぉ、あの女一体何者だ?」
「ああ」

ピンク色のヘッドドレスを未だにつけているセバスチャンは表情が死んでいる。その様子が気になるものの、バルドは言葉の先を促した。

「エリザベス様は坊ちゃんの許嫁です」

そうさらりと言い放ったセバスチャンの言葉に、使用人たちはそろって素っ頓狂な叫び声をあげた。


────生まれながらに許嫁を持つことが多い英国貴族。
例外でなくファントムハイヴ伯爵こと坊ちゃんのにも許嫁が存在するのでありました。
貴族の妻は貴族でなくてはならない。エリザベス嬢もれっきとした侯爵令嬢なのでございます。

「何も言わずに出てきたのなら叔母様も心配しているだろうね」
「そうだな、セバスチャン連絡を──っ!?」
「シエルーっ!見て見て!広間もかわいくなったでしょ」

変わり果てた広間の姿を見て、シエルはげっそりとした表情で僕の屋敷が、と力なく呟いた。エリザベスの行動力とセンスに半ば呆れながらレオンはシエルの肩を励ますように叩く。残念ながら気休めにもならないが。

「あっそうだ!ねえシエルせっかくこんなステキな広間になったんだから、今日はダンスパーティーをしましょうよ!」
「!?」
「パーティー?」
「婚約者のエスコートでダンスをするの!」
「な………っ」
「ダンス………ですか」
「ダンス………ねえ」

エリザベスの突然の提案に固まったシエルを見つめるレオンとセバスチャン。
その意味ありげな視線にハッと気付いたシエルはぎろりと二人を睨みつけた。

「あたしの選んだ服を着てね二人ともっ!絶対かわいいと思うの!」
「おい誰がいいと………」
「あたしの選んだ服を着たシエルと踊れるなんて夢みたいっ!あたしもめいっぱいおしゃれしなくちゃ!」
「人の話を…………おい!?」

すでに自分の世界に入ってしまっているエリザベスに、シエルの声が届くことはなく。広間にはシエルの絶叫が虚しく響いた。

***

「諦めなよ、シエル」

ぐったりとした様子で机に突っ伏すシエルを見て、愉快そうにレオンは笑みをこぼした。
ソファの上で横になり手に持つ書物のページをめくると、はしたないだのなんだのというセバスチャンの小言が降ってくる。が、それをいつものように華麗にあしらうレオンに眉を寄せたセバスチャンだったが気を取り直したようにシエルに向き直った。

「エリザベス様は前当主の妹君であるフランシス様が嫁がれたミッドフォード侯爵家のご令嬢………。
婚約者を無下に追い返すこともできませんし仕方ありませんね」
「別になりたくてなった訳じゃない。されたんだ」

ため息を吐くシエルに再度くすりと笑いが漏れた。そんなレオンに、セバスチャンは呆れたような目線を向ける。
シエルとレオンの前に淹れたての紅茶のカップを置くと、辺りに芳しい香りが漂った。

「ですが、今日の処は大人しく彼女に従ってお引き取り願った方が得策でしょう」
「まだこの間のゲームも終わっていないしね」
「まったくだ、さっさと夕食でもなんでも口に詰めて追い返せ。少女趣味に付き合ってる暇はない」

書類を手に、カップに口をつけ熱い紅茶を啜るシエル。そんな様子のシエルにレオンは悪戯気に笑うと、口を開いた。

「リジーはダンスをご所望の様だよ、シエル」

耳飾りをいじりながら放ったその言葉に、シエルはぴくりと一瞬カップを傾ける手が固まる。その一瞬をセバスチャンが見逃すはずもなく、不自然に受け流そうとしているシエルに訝し気な目線をやった。

「私は拝見した事はございませんが……ダンスの教養はおありで?」
「……………」

セバスチャンの目線に耐えきれなくなったのか、無言で椅子ごと背中を向けたシエルに、セバスチャンは盛大にため息を吐く。その様子にレオンはくすくすと笑っていた。

「どうりで、パーティーにお呼ばれしても壁の華を決め込む訳ですね」
「僕は仕事が忙しい。そんなお遊戯にかまけている暇など……」

言い訳を連ねようしたシエルだったが、お言葉ですが、と椅子を回し正面に向けたセバスチャンによって遮られる。

「"社交"ダンスとはよく言ったものでして、夜会は晩餐会等では当然必要になってくる嗜みでございます」

ずいっとセバスチャンがシエルの眼前にケーキが一切れ乗った皿を突き出す。オーチャード・フルーツケーキだ。

「上流階級の紳士ともなればダンスは出来て当然の事。もし取引先のご令嬢のダンスの誘いを断りでもすれば社交界での坊ちゃんの株はガタ落ちに………」
「────わかった!やればいいんだろう、誰か家庭教師を呼べ!」

セバスチャンの威圧に耐えきれなくなり根を上げたシエルは手に持つ書類を机に置く。
ソファから身を起こしたレオンはセバスチャンの持つ、ケーキの乗った皿を受け取った。

「今から家庭教師をお呼びする時間はありません。今日の処は付け焼き刃で結構ですから一曲だけ基礎と言われるワルツをマスター致しましょう」
「じゃあ僕は誰に教わるんだ?この家の連中はどう見ても……」

そう言いながらシエルはレオンをちらりと見やる。視線を受けたレオンは肩をすくめ、我関せずという風にフォークを咥えた。

「ご安心下さい、僭越ながら私めがダンスのご指導を」

そう言ってにっこりと微笑むセバスチャンに、素っ頓狂な声を上げたシエルは鳥肌を立てながら馬鹿を言うなと反論し始めた。

「お前みたいなデカイ男相手に踊れるか!」
「失礼ですね。……若様はあの時みっちりと教え込みましたし、大丈夫ですね?」
「大丈夫、俺は普通に踊れる」
「ならレオンが僕に教えればいいだろう」
「シエルに踏まれたり蹴られたりしたくないからパスで」
「お前なぁ………!」

ひらひらと手を振るレオンに苛立ちが芽生えたシエルが語尾を強くすると、セバスチャンが呆れたように肩をすくめた。
その様子にシエルは声を荒げ、反論を試みる。

「大体お前がワルツなど踊れるわけ、」
「ウインナワルツならおまかせ下さい、シェーンブルン宮殿にはよくお邪魔しておりました」

ぴっとシエルの眼前に指を突きつけ反論を止めさせたセバスチャンは、次いで左手を優雅に差し出す。

「一曲お相手願えますか?ご主人様」

***

ダンスの練習をし始めた二人だったが、ただ見ているのも暇だと考えたレオンはエリザベスのところへ向かう。
彼女はたくさんの衣装に囲まれてうんうん唸りながら考え込んでいる様だった。

「エリザベス」
「あっ、レオン!」

レオンの声にくるりと振り返ったエリザベスはぱあっと表情を明るくしてにっこりと笑った。

「どうかした?随分悩んでいた様だけど」
「それが、どちらのドレスを着ようか迷ってしまって」

エリザベスがそう言って指差す先には、二着のドレス。
片方は薔薇のモチーフを所々にあしらった黒を基調としたゴシックなドレス、そしてもう片方はフリルやレースがたっぷりとついた、赤やピンクを基調とした可愛らしいドレスだ。

「………これがシエルの服?」
「そうよ、かわいいでしょう?」

横に掛けてあった服。レースやフリルが袖や襟元に付いているがれっきとした男物だ。青と黒を基調としたもので、薔薇のアクセントがついている。
ふむ、と考えたレオンは二着のドレスのうち、ゴシック調のドレス取るとシエルの服の隣に置いてみた。

「こっちにしたらどう?ほら、シエルとお揃いみたいで可愛いよ」
「本当?じゃあそうするわ!」

お揃い、という言葉が気に入ったのか、エリザベスはレオンが勧めたドレスとシエルの服を交互に眺めにこにこと上機嫌に笑う。あっ、と声を上げたエリザベスは何やらごそごそと衣装の山を探ると一着の服を取り出した。

「レオン、貴方はこれね!」
「ん?ああ、ありがとう」

渡された服は上質な銀の生地がベースとなったもので、ところどころに緑色のアクセントがついている。シエルのものとまではいかないが、袖口や襟元にレースが付いていた。

「それと、これをつければ私たちとお揃いよ」

そう言ってエリザベスが差し出したのは銀細工でできた薔薇のブローチとピアス。どちらもエメラルドだろうか、緑色の宝石が嵌め込まれていた。

「指輪もあるからちゃんと全部つけてね!」
「…………わかった、ありがとう」

微笑んだレオンはエリザベスの頭の上にそっと手を乗せ、するりと撫でる。
すると一瞬驚いたように瞳を見開いたエリザベスは恥ずかしそうに破顔し、ぎゅっとレオンに抱きついてきた。

「レオンは、本物の王子様みたいね」
「王子様?」
「そう、シエルもかわいいけど……レオンは物語に出てくる王子様みたいだわ」

お兄様とは大違い!と言われたレオンは苦笑し、撫でていた手を離す。ふと時計を見たエリザベスは大変!と飛び上がり、レオンに女中を呼ぶように頼んだ。

「わかった、じゃあまた後で」

自分とシエルの服を受け取ったレオンは廊下に出ると扉を閉め、シエルたちがいるであろうレッスン室へと足を向ける。その途中でよたよたと洗濯物を運んでいたメイリンを呼び止め、エリザベスの手伝いをするよう命じる。ついでに足元をよく見るようにと言うと再びシエルたちの元へと向かった。

「首尾はどう?」

扉を開けると部屋にはクラシックが流れ、中央ではへとへとになりながらもセバスチャンと踊っているシエルの姿があった。

「まあ何とか形にはなってきましたね」
「それはよかった」
「よくない………!」

息を乱すシエルににっこりと笑ったレオンは、腕に抱えていたシエルの衣装や装飾品を渡した。

「はいこれ、エリザベスから」
「ああ」

何とか呼吸を整えたシエルはレオンから衣装を受け取る。
懐から懐中時計を取り出したセバスチャンは時刻を確認するとすぐに仕舞った。

「若様、坊ちゃん、そろそろお時間ですのでお召し替えを」
「ん」
「………はあ」
「エリザベスのために、頑張りなよ」
「他人事だと思って………!」

睨んでくるシエルをあしらうと二人は自室へと移動し、着替え始めた。

***

「………お腹がすいてきた」
「お前は一体何を言い出すんだ」
「ダンスが終わりましたら、夕食と致しましょう」
「────ね、まずメガネを外しましょうよ!」

支度を終えた二人はセバスチャンを連れ、広間へと向かっていた。ドアを開けると、何やらエリザベスがメイリンのメガネを外そうとしていた。
その様子を目の当たりにしたシエルは何をやっているんだと言いたげに盛大なため息を吐く。

「それくらいにしてやれ」
「シエルッ、レオン!」

エリザベスはそう声をかけたシエルに振り向くと、ぱあっと顔を輝かせ突進してきた。かわいいかわいいと興奮気味にシエルの腕を掴みぐるぐると回す。

「見て見て!みんなもかわいくなったでしょっ!みんなもパーティーに出席してもらうの」
「ぶっ」

そうエリザベスが手で指し示したところには、わけのわからない女物の衣装を着たバルド、フィニ、タナカがいた。
だめだ、面白すぎる。そう込み上げてくる笑いを耐えていると、シエルの手を取ったエリザベスが何やらシエルに詰め寄っていた。

「シエル!あたしが用意した指輪は!?お洋服に合わせたかわいーのがあったでしょ?」
「指輪はコレでいいんだ」

ぱっとエリザベスの手を払うシエルの親指には、一つの指輪が嵌めてあった。
確かにその衣装には似合わないが、シエルがそれを頑なに付ける理由をレオンは知っている。が、シエル本人が口にしない以上、わざわざ言う必要もないだろう。

「イヤよ!せっかく全部かわいくしたのに!指輪だけ全然かわいくないっ!」

ひどい、と泣き声をあげるエリザベスにひっそりと苦笑しながら、レオンは自身の耳元を髪で隠し、手を後ろで組んだ。
シエルのように、用意された耳飾りと指輪を嵌めていないのがバレたら面倒なことになりそうだ、なんて想像しなくてもわかる。

「とーった!」
「リ……ッ」

シエルがエリザベスに指輪のことを説明しようとした時、その隙を見逃さずエリザベスは指輪を強引に奪い取った。
レオンはああ、と微かに声をあげこれから起こるであろうことに顔をしかめる。

「やっぱり指輪すごくブカブカじゃない!あたしが選んだのはサイズもピッタリ……」
「────返せッ」

突然の怒鳴り声に、その場にいた者がビクリと肩を震わす。シエルは顔を歪め、苛々とした雰囲気を隠さずエリザベスを睨んでいた。
レオンはそれを我関さずという風に一瞥し、次いで自身の中指に嵌めている指輪に目を落とす。

「それを返せ……エリザベス!」
「なっ……なんでそんな怒るの?あたし……せっかく、」

涙を浮かばせるエリザベスだったが、それでも尚、シエルは彼女を睨みつけていた。
シエルの視線の厳しさに、エリザベスの瞳には徐々に涙が溜まっていく。

「……っなによ……あたしかわいくしてあげようとしただけじゃない!なのになんでそんなに怒るの!?」

こんな指輪なんかっ、とエリザベスは指輪を持つ手を振り上げる。
レオンはそれを確認すると静かにエリザベスの方へと向かう。これも後々の為だ。

「キライ!」

エリザベスが振り上げた手を下に振り下ろすと、手から放たれた指輪は床に叩きつけられ、見事に砕け散った。それを見たシエルは瞳を見開き、衝動的にエリザベスへと手を振り上げる。
指輪の残骸を見てつい眉をひそめたレオンはエリザベスの真後ろへと立ち、彼女の肩に腕を回すと一歩後ろへ退かせた。

「────坊ちゃん」

振り上げた手が、エリザベスの頬へ当たりそうになった時。セバスチャンがシエルの腕を掴み、やめさせた。

「せっかく新調した杖をお忘れですよ」

ぎゅ、とその振り上げた手に杖を掴ませると、我に返ったシエルは自身を落ち着かせるように浅い呼吸を繰り返す。
セバスチャンは顔を上げるとレオンの腕の中でしゃくり上げるエリザベスに頭を下げた。

「申し訳ありません、ミス・エリザベス。あの指輪は我が主にとってとても大切なもの。
ファントムハイヴ家当主が代々受け継いでいる世界でたった一つの指輪だったのです。主人の無礼をお許し下さい」
「え……!?」

愕然とした様子のエリザベスは、身体の震えをより一層強くさせる。そんな彼女の様子を一瞥したシエルはふと床に散らばった指輪の残骸を拾い上げた。

「そんな……大事な指輪………シエル、あたし………っ」

エリザベスが震える声で謝罪をしようとすると、シエルは拾い上げた指輪の残骸を突然窓の外へと投げ捨てた。
悲鳴にも似た声をあげたエリザベスは投げ捨てられた残骸を追うように慌てて窓から身を乗り出すと、青ざめた表情を浮かべる。

「シエル!?なんてこと、」
「構わん。あんなもの、……ただの古い指輪だ」

何でもないというような表情で話すシエルに、思わずレオンはため息をついた。

………意地っ張りだな、本当に。

「指輪がなくとも、ファントムハイヴ家当主は"シエル・ファントムハイヴ"だ」

その力強い声に、レオンは一瞬瞼を閉じる。中指に嵌めた指輪の存在感を、何故か強く感じる。嗚呼、なんて、冷たくて重い。

「なんだその顔は?」
「だっ………だっでぇ………」

落ちた帽子を拾い上げたシエルは、呆れたようにエリザベスを見る。涙と鼻水でエリザベスの顔はぐちゃぐちゃになってしまっていた。

「酷い顔だ。レディが聞いて呆れるな」

そう言って胸元からハンカチを取り出したシエルは顔を拭ってやる。レオンは苦笑しながら髪が乱れないくらいの力でエリザベスの頭を撫でた。

「そんな顔の女をダンスに誘いたくはないんだが?」

悪戯っぽく笑うシエルに、エリザベスはしゃくり上げていたのを止めた。レオンの呆れたような視線を無視しながら、シエルはエリザベスに手を差し出す。

「嫌なことを忘れ、踊り明かすのが夜会の礼儀だろう。レディ?」
「……はい」

破顔したエリザベスが、シエルの差し出した手に自身のを重ねる。
セバスチャンがバイオリンで参加している生演奏に合わせて踊る二人の微笑ましい姿を横目に、レオンはそっと広間を抜け出した。

「────あ、これだ」

外に出たレオンはガサガサと暗闇の中しゃがみ込んで足元を探っていた。
真上にある窓からは音楽と楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
あそこからシエルが指輪を投げ捨てたのだとすれば、この辺に散らばっているはずだ。
月明かりに反射するものを一つ一つ手に取るものの、細かくなってしまった残骸を全て集めることは無理に等しい。

「………何してるんだろ、俺」
「全くですね」
「!?」

指先の残骸を手にふとため息をついた時、真後ろから声がかけられる。反射的に振り向くと、そこには呆れたような表情を浮かべたセバスチャンが立っていた。

「お前………」
「ああほら、そんなことをしているとお召し物が汚れてしまいますよ」

レオンを強引に立たせるとセバスチャンは汚れの確認をするようにレオンの膝あたりに視線を向ける。

「こんなところで何をしていたのです?」
「指輪、拾い集めてた」
「…………」

その返答に対し、心底呆れた、というように眉を寄せたセバスチャンに、レオンはわかってるよと些かムッとしながら答える。

「そういうことは、最初から私に命じれば済む話では?」
「まあ確かに、そうだけど」

その場でしゃがみ込み、セバスチャンは先ほどのレオンのように欠片を拾い集め始めた。やはり悪魔は人間と視力も違うのだろう。レオンは次々と小さな欠片を拾うセバスチャンを壁にもたれながら眺めていた。

「………あの子、馬鹿みたいに意地っ張りだからさ。肌身離さず着けているほど大切なものなのに、自分では気付かないものなのかな」
「………その言葉、そっくりそのままお返ししたいものです」
「は?」
「いえ。………若様、そろそろ中へお戻り下さい。お身体に障りますし、坊ちゃん方に気づかれますよ」
「はいはい。………それ、元通りに直しておくこと。いいね?」
「かしこまりました」

丁寧に頭を下げたセバスチャンを一瞥すると、レオンは中へ戻る。楽しげな声や音楽が微かに漏れる広間の扉を開けると、もうすっかり笑顔を取り戻したエリザベスに抱きつかれ、穏やかな表情を浮かべるシエルの元まで手を引かれた。

***

それから踊り明かし、美味しい夕食を平らげたエリザベスはすぐに就寝してしまった。何とも健康なものだと思いながら、レオンもベッドに潜り込む。

………シエルはセバスチャンから指輪を受け取っただろうか。
本当に元通りに直ったのか。心配になるものの、アレは悪魔だ、きっと完璧だろう。

ふと物憂げな表情を浮かべたレオンは右手を持ち上げ、自身の中指に嵌められた指輪をじっと見つめる。

大きなエメラルドが鎮座するそれは、シエルの指輪と同じようにナイトレイ家当主が代々受け継いでいる指輪だ。父親の瞳、そして今の自分の瞳と同じ色を輝かせる。…………あの月白を見ることは、もう二度とないのだろう。

そっと指輪に口付けたレオンは身体を包み込む微睡みに従って瞼を閉じ、目の前の闇に身を任せる。
完全に意識を手放す瞬間、、どこからかくすり、という聞き覚えのある笑い声が聞こえた、気がした。




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