- ナノ -


(21話)



 なんとなく、その日は朝から足が痛かった。

 きっと、連日の日向とのレシーブ練習がいけなかったのだと分かっている。かといって、今更放り出して「やっぱり出来ません」なんて言えない。

 とりあえず、今日は金曜日だし、今日が終われば二日間休みだ。二日もゆっくり休めばきっと良くなるはず。

 そんな淡い期待を抱きながら、体育館へと足を踏み入れた。




 自主練でのレシーブ練習は昼休みのようにずっとレシーブ練習だけをやるのではなく、日向のスパイク練習の合間に挟むような形にした。それでも、膝に体重がかかる度に鋭い痛みが走る。これは少しマズイかもしれない。いや、でもあと少しだし。そんなことを考えていたら、日向の返したボールが思いの外短いことに気づかなかった。

 いつもなら、足のことを考えて見送るはずのボールだった。でも考え事をしていたから、意識が違うところにあったから、反射的にボールに飛びついてしまった。

 咄嗟に手を伸ばし、地面に落ちる前のボールに手が届く。それと同時に体育館の硬い床に膝をしたたか打ち付けた。しまったと思うよりも先にビリっとした痛みが足全体に走る。

「いっ……!」

 ああ、マズイ。やってしまった。なんで飛びついちゃったんだろう。
 このまま立てるのか分からずに、思わず四つん這いの格好で固まる。

「ナマエ?」

 日向が心配そうな顔をしながら声をかけてくる。

「ごめんごめん、ちょっと転んじゃっただけ」

 慌てて立ち上がり体制を立て直すと、そう言って笑った。

 うん。思ったよりも痛みは無い。大丈夫。少しつまずいただけだし。きっと大丈夫。なんでもない。そう自分に言い聞かせていると、日向との間に影が出来た。

 圧迫感に顔を上げると、制服に着替えた月島君が真顔で見下ろしていた。

「月島……君……?」

 え、顔怖い。すっごい睨んでる。なんで? おまけに体育館の端に置いておいた私の鞄を手に持ってる。

「あ……あの……?」
「痛いよね、足」

 鋭い声に思わずギクリと肩を震わせる。

「え……っと……」
「帰るよ。今日は終わり」

 ため息混じりにそう言うと、月島君は私の腕をグッと掴んだ。

「ちょ、ちょっと!」
「おい、月島!」
「君は王様とスパイク練でもしなよ。レシーブ練習は今日どうしてもやらなきゃいけないことじゃないデショ。ほら、行くよ」
「ちょっと待っ……! 日向、ごめんね!」

 慌ててそう言うも、日向の返事を聞くことは出来なかった。そのまま無言で私の手を引く月島君に半ば引きずられるようにしながら体育館を出た。





 体育館を出ると、月島君はすぐ近くの縁石に私を座らせた。

「足、見せて」
「……はい」

 痛めた方の足をスッと出すと、月島君はそっと触れ、眉を寄せた。

「……腫れてる。テーピングは?」
「持ってるけど……」
「なら早くして」
「え、今……?」
「当たり前でしょ。バカなの?」

 サラリと暴言を吐かれ、ウッと息を呑む。なんで私は怒られているんだろう。久々の月島節に自尊心が少しだけ揺らぐ。

「早くしてよ。帰りたいんだから」
「……なら先帰ったらいいじゃん……」

 わざわざテーピングしてる所なんか見てなくたっていいはずだ。そう思って言ったのだが、その瞬間、月島君の眉間のシワがより一層深くなった。

「はぁ?」
「だ、だって! 別にテーピングくらい……一人で……」
「じゃあなに、君は歩いて帰る気なワケ? その足で?」

 心の底から呆れたような声でそう言われ、ようやく彼の意図していることを理解した。

「えっ……と……月島君が、送ってくれるの……?」

 月島君が長い長いため息を吐く。

「だから早くしろって言ってるんだけど」

 ああ、そういうことか。アワアワしながら手早くテーピングを巻き直し、サポーターを装着すると、ほんの少しだけ痛みが和らいだ気がした。

「ごめんなさい、お待たせしました」

 月島君は小さくため息を再び一つ吐くと、スッと地面にしゃがんだ。

「えっ……! い、いいよ、肩とか貸してくれるくらいで……」
「身長差考えなよ。これで肩貸すとか、ありえないデショ」
「だって……」
「だって、何」
「……月島君、いつも重いって……」
「重くないから。早くしてくんない?」

 月島君の口調が若干苛つきを増してきているような気がして、私は覚悟を決めて一歩前へ出た。

「……ごめんね、うち、ほんとすぐ近くだから。近くなったらちゃんと自分で歩くからね?」
「いいってば。しつこいな」

 月島君はそう言うと、ヒョイと立ち上がった。


 月島君の背中で揺れながら、辺りを見渡す。

「わぁ……」

 思わず声が漏れる。見慣れたはずの景色が、全く違うもののように見えた。目線の先に、月島君の柔らかそうな髪とつむじがある。背の高い月島君よりも、今は私の方が少しだけ高い位置に居るなんて、なんだか不思議だった。

「……何?」
「あ、ごめん。前も思ったんだけど、改めて高いなぁって思って。景色が全然違うんだもん」
「そう? 別にいつも通りだけど」
「そりゃ月島君にとってはね。私にとっては全然違うの!」

 羨ましい。これだけの身長があれば、きっとバレーしてても楽しいだろうな。

「私もあと少しだけ身長欲しかったなぁ……。そうしたらスパイクとか打てたのに。あのね、うちの親二人とも小さいんだ。だから中学くらいで止まっちゃったの。月島君はまだ伸びてる? 身長いくつ?」
「……188」
「じゃあもうすぐ190だね! いいなぁ。私は151センチ」
「150しか無かったんだ。もう少しあるかと思った」
「151! 私にとっては大事な1センチなんだからね! 端折らないでくれます?」
「あーハイハイ。スミマセンデシタ」

 そう言いながら、月島君が小さく笑った。

「……小学校の四年生くらいまでは、私の方が飛雄よりも大きかったんだよ」
「…………へえ」
「バレーも最初は私の方が上手かったの。……あっという間に抜かされちゃったけど」

 ある日現れた天才は、それこそあっという間に私を追い抜かしていった。置いていかれる恐怖感も、自分の実力の底が見えてしまった時の絶望感も、そう簡単には忘れられるものじゃない。

「『ギフト』って言うんだよね、ああいうの」
「ギフト?」
「あれ、言わない? ほら、えっと……なんだっけ、『天賦の才能』とか、そういうの。……そういうの持ってる人たちに追いつくにはさ、努力だけじゃ足りないんだよね。もちろん、あの人たちだって人一倍努力してるって分かってるんだけどさ。……それでも、やっぱり悔しいなって、ずっと思ってた。あ、今は思ってないけどね」
「なんで?」
「だってあの人絶対将来日本代表になるでしょう? 知り合いが日本代表選手とか、凄くない? 私、絶対一番最初にサイン貰うんだ」
「…………あっそ」
「でね、飛雄が世界的に有名になったら、そのサインをなんでも鑑定団に出すの」
「売るんじゃん」
「月島君も貰う? あ、私が代わりに言ってあげよっか?」
「いらない」
「あっそう。……ねぇ、私ばっかり話してるよ。じゃあ次は月島君の番ね。ほら、月島君なんか喋って」

 月島君は「はぁ?」と嫌そうな顔をチラリと向けてから、ため息を一つ吐いた。

「……なんでムキになってたの」
「サインの話? だって日本代表ってすごくない?」
「違くて。レシーブ練習。足痛めてまでやることじゃないデショ」
「ああ、そっちか。んー……なんでかな」

 あの時感じた事を、一つずつなぞるように思い出す。試合を見ながら色んなことを考えた。でもその中で一番といったらなんだろう。

「……多分、悔しかったから。かな」
「悔しい?」
「うん。……青城との試合を見て、みんながすごくカッコよくて。楽しそうで。ただ見てることしかできない自分が、なんか寂しくて。悔しかったんだよね。だから、一緒に何かをしてる実感が欲しかったんだと思う。役に立ってるっていう実感が」

 たとえ真似事でしかなかったとしても、仲間に入りたかった。

「前にね、菅原さんに一度だけ誘われたことがあるの。『マネージャーやらない?』って。でも私、考えさせてくださいって答えを先延ばしにしちゃって。……タイミングを逃しちゃったんだよね。なんとなく今更言い出せなくて」

 あの時ほんの少しだけでも勇気を出していれば。そうすれば、あの時みんなと一緒に泣けたんだろうか。

「日向にレシーブ教えることで、仲間になった気になりたかったんだと思う。……私にはレシーブくらいしか出来ないから」

 我ながら自分勝手な考えだと思った。面倒事や怖い事からは逃げて、ちゃっかり美味しい所だけを取ろうとするなんて。

「……そんなこと無いんじゃないの」
「ん?」
「レシーブくらいしかできないとか、今更とか。少なくともあのお馬鹿さんとか先輩たちは、君が観に来ると嬉しそうだけどね」

 月島君は少しだけ素っ気なくそう言った。きっと、彼なりのフォローなのだろう。こういうさり気ない優しさが、月島君らしい。

「月島君は……?」
「……は?」
「月島君、いつも迷惑そうな顔するから。『また来たの?』って言うじゃない、いつも。迷惑そうに……」

 最近はあからさまに嫌そうな顔はされなくなったけど、それでも歓迎はされてなさそうなのが月島君からは伝わってくる。そう思って言ったのだが、月島君は意外な言葉を口にした。

「……迷惑だって思ってたら、今日だって送ったりしてない」

 月島君が小さな声で呟く。月島君の耳がほんの少しだけ紅く染まっているような気がした。でも、なんとなく触れてはいけない気がして、そっと目を逸らした。

「……そっか」
「……そうだよ」

 なんだか、急に辺りがカァっと暑くなった気がした。きっと、もうすぐ夏だからだろう。

 

 程なくして、自宅マンションに到着した。

「あ、ここのマンションなの」
「ホントに近いね」

 月島君は感心したようにそう言うと、エントランスの所で私を降ろしてくれた。

「送ってくれてありがとう。重かったでしょ」
「……『重くないよ』」
「そう?」
「……嘘だけど」
「嘘かい」

 思わず吹き出すと、月島君も少しだけ笑った。

「じゃあ。足、お大事に」
「うん。ありがとう」

 そう言って去っていく月島君の背中を見守る。


「あ、ねえ」

 とっさに呼び止めると、月島君は顔だけで振り返った。

「何?」
「えっと……月島君の身長も、『ギフト』だって、思う」

 聞くなり、月島君は少しだけキョトンとしたように目を見開いた。

「……バレーしてる人なら、みんな欲しいって思うでしょう? 月島君くらいの身長。だから、月島君も『特別』だなって……そう思ったの。……それだけ」
「…………そう」

 月島君はそう言ったきり黙り込んでしまった。

 しまった。わざわざ呼び止めるほどの話題じゃなかった。急に恥ずかしさがこみ上げてくる。

「ご、ごめんね、呼び止めて。おやすみなさい。明日も部活頑張ってね」

 小さく手を振ると、月島君は小さな声で「おやすみ」と言った。


『君を助けたの、別に深い意味はないから。勘違いしないでね』

 いつだったか、月島君に言われた台詞が頭の中で再生された。

 ……しないよ。勘違いなんか、しない。そもそも、そういうんじゃないし。


 やっぱり暑い。この土日は衣替えをしようと心に決めた。

 もうすぐ夏がやってくる。きっと、今年の夏はもっと暑くなるだろう。
prev next

Back  Novel  Top