- ナノ -


(2話)



 翌朝、ナマエはいつもよりも30分も早く家を出た。東峰に会わないためだ。

 東峰が部活に出ていた頃は朝練があったので登校時間は合わなかったが、今は違う。いつもの時間に出ると、登校途中に東峰に会ってしまう。普段ならそれが嬉しかったし、あえてその時間に出るようにしていた。
 だが、昨日の今日でいきなり会う勇気が持てず、結局逃げてしまった。


 普段と違う時間に登校すると、景色が全然違うことに気づく。同じ通学路のはずなのに、30分早いと人の通りが少なく、普段聞こえない鳥の鳴き声が聞こえる。

 普段は見れない朝の景色を楽しみながら、ナマエは空を見上げた。


 告白の後、東峰は最後まで固まったまま動かなかった。きっと今頃混乱しているだろう。教室を出るときの東峰はどんな顔をしていたのだろう。部活のことが落ち着くまで告白しないつもりだったのに、勢いだけで告白してしまった。少々無計画だったかもしれない。

 でも、言ってしまったんだから仕方ない。もう後戻りはできないんだから。

 ……告白の後も、東峰はいつも通り普通に接してくれるだろうか。東峰は優しいから、きっと無視したりはしないはず。自分から話しかければ、きっといつも通り話せるだろう。
 でももし無視されたらどうしよう。気まずい空気になったらどうしよう。目を合わせてくれなかったら……。 そんなことになったらきっと耐えられない。

 言わなければよかったかもしれない。今更ながら後悔が押し寄せる。

 言ってよかったんだと思う自分と、言わなければよかったと思う自分が戦っている。まるでシーソーのようだ。

 ナマエは大きく息を吐き出し、重い足取りで学校へと向かった。





 登校すると、教室にはまだ誰もいなかった。一番乗りだ。

 自分の席に座って、斜め前の東峰の席を眺める。ここから彼の後ろ姿を眺めるのが好きだった。
 普段から少し猫背気味の彼は、よく澤村に怒られていた。でもそれは、後ろの人が黒板を見る時に見辛くないように、いつも背中を丸めていたからだと、ナマエは知っている。

 それだけじゃない。先生から大量の荷物を持たされた日直のことを助けているのも見たことがあるし、私たち背の低い女子が高い位置の板書を消すのに手こずっていると、必ず助けてくれる。

 優しい東峰の行動には、常に思いやりが溢れている。


 好きだよ。旭……。

 視界がじんわりと滲む。東峰のいない世界なんて、考えられない。





***





 気がつくと、周りがガヤガヤとうるさい。

 机に突っ伏して、出会ってから今までの事を思い返しているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。

 ふと人の気配を感じ、ゆっくりと目を開ける。すると東峰が心配そうな顔で覗き込んでいた。

「あ、起きた。大丈夫か? 具合でも悪い?」

 問いかけにとっさに言葉が出て来ず、ナマエは口をパクパクと動かした。ビックリしすぎて自分の目がいつもより大きくなっていることが分かる。

「……平気?」

 再び問いかけられ、ナマエは慌てて無言でコクコクと頷いた。

 しまった。寝るつもりなんて無かったのに、失敗した。昨夜あまり寝れなかったせいだろうか。顔を伏せたまま、慌てて口元へと手を当てる。幸いよだれは垂れていなかった。
 ホッとしていると、東峰が小さく笑うのを感じ、ナマエは再び顔を上げた。

「跡、ついてる」

 そう言いながら東峰は自分の頬を指さした。
 鏡を取り出して見ると、ほっぺたにくっきりと袖口のボタンの跡がついていた。

「わ、ホントだ……」
「すぐに消えるよ」
「そうかな。……恥ずかしい。ガッツリ寝てましたって感じ」

 笑いながらそう言うと、東峰も笑う。笑った顔が可愛かった。

 思ったよりも普通に話せたことに、ナマエはホッと息を吐き出すと、頬についた丸いへこみを指でそっと撫でた。





 昼休みになり、昨日の二人組が教室までやってきた。
 扉からひょっこりと先日のオレンジ色の髪が覗いている。ふと目が合うと、彼は慌てた様子でペコリと頭を下げた。

「あれ、昨日の子らじゃん。旭に用事?」

 駆け寄って問いかけると、オレンジ髪の方が緊張した面持ちで答える。

「は、はい!」

 大きな声にナマエの肩がビクリと震える。すかさず黒髪の少年に「声がでけーんだよ!」と諌められていた。やりとりから、なんとなく仲の良さが伺える。ナマエはクスリと笑った。

「ちょっと待っててね。旭ー、お客さん! 昨日の一年――」

 振り返って東峰の方を見ると、こちらを見ていた東峰がパッと目を逸らす。露骨な拒絶の態度に、ナマエの心臓がドクンと音を立てる。
 朝普通に話せたことで安心しきっていたためか、まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。

 あまりのことに何も考えられず、呆然と立ち尽くしていると、東峰がゆっくりと立ち上がり、ナマエの元へとやってきた。

「サ、サンキューな」

 ほんのりと赤い顔で、申し訳なさそうに眉を下げる。一言声をかけて東峰は教室から出ていった。

 後ろ姿をぼんやりと見つめてから、固まったように動かない足をなんとか動かし、自分の席まで戻る。席に着いて、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりそれを吐き出した。

 そうか。フラれたらこうなるんだ。

 気まずくなったらどうしよう、などと漠然と思っていたが、そんなレベルじゃない。友達ですら居られなくなるのかもしれない。実際にこういう態度を目の当たりにすると、急に実感がわいてくる。


 私は振られるんだ。


 こうして段々と目が合わなくなって、気まずくなり、やがて他人のようになる。よくある話だ。
 東峰を手に入れるどころか、このままでは失ってしまう。欲を出さずに、あのまま友達で居た方が良かった。今更そんなことを考えても仕方ないと分かっているが、考えずにはいられない。

 告白したのは失敗だった。結局、自分は東峰を手放す覚悟など少しもできていなかったのだと、今更ながら痛感した。


 ふと見ると、話が終わったのか、教室に戻ってきた東峰が、何か言いたげにこちらを見ている。話を聞いて欲しいのだろうか。

 それとも、まさかもう昨日の答えを出したのか……。

 心臓がバクバクと鳴り、掌に汗がにじむ。怖い。聞くのが怖い。


「ねぇナマエー、数学予習した? 問八が分かんないんだけどー」

 タイミングよく話しかけてくれたクラスメイトの方へ勢いよく向き直ると、ナマエは彼女の席へと駆け寄った。

 その後授業が始まるまで、ナマエは東峰の方を見ることができなかった。




***




 翌日は少しだけ寝坊して、昨日よりも少しだけ遅く家を出た。だが、それでもいつもの時間よりは早く着くはずだ。

 案の定、東峰と鉢合わせることは無かった。


 教室に着くと、疎らだが生徒が登校してきているようだった。

 ふと、違和感を覚える。いつもより早い時間に東峰が席についていたからだ。

「あれ……なんかいつもより早いね?」
「ああ……」

 東峰は言いづらそうに頬を掻いた。

「その……朝練、あったから……」

 あされん……。おうむ返しのように呟くと、ようやく頭の中で繋がった。

「部活……戻ったの?」
「あぁ。……心配かけてゴメンな」

 照れたような気まずいような表情でそう言った東峰に、ナマエは首を振る。

「ううん。そっか、戻ったんだ……。よかった」

 東峰がずっと悩んでいたのを見ていただけに、まるで自分のことのように嬉しい。

「有難いよな。逃げ出したのに、大地もスガも部活に戻ることを許してくれた。皆の期待に応えるためにも、頑張るよ」

 そう言った東峰の顔は清々しい。改めて、ナマエはこの男の事が好きだと思った。
 本当に自分では駄目なんだろうか。彼の特別にはなり得ないんだろうか。そんなことを考えていたら、段々と鼻の奥がツンとしてきた。

「ナマエ?」
「……なんでもない。部活、戻れてよかったね。応援してる」

 早口でそう言うと、ナマエは慌てて東峰に背を向けた。



 告白後、東峰に目を逸らされたのはあの一回きりで、それ以降は今までと特に態度が変わることはなかった。安心した一方で、いつ話を切り出されるのか、ナマエは内心ビクビクしながら毎日を過ごした。
 時折何か言いたげに東峰の視線が泳ぐ度に、ナマエはその場を離れたり、話題を逸らしたりして誤魔化した。こんなのはただの逃げだ。今まで東峰が自分にしてきたのと同じことをしているのは分かっていた。
 それでもまだ、東峰を手放す勇気は持てなかった。



***



 それから数日経った昼休み、ナマエは重い足取りで三年四組の教室へ向かっていた。
 バレー部に復帰してからというもの、東峰は澤村達の居る四組で昼食を摂るようになったからだ。答えを出されるのが怖くて逃げ回っているうちに、東峰と会うのが怖くなってしまった。それでも、今日はどうしても行かなければならない用があった。

「大地、ちょっといい?」

 声をかけると、澤村は笑顔で迎えてくれた。

「おう、どうした?」
「あのさ、来週の同窓会の連絡来たでしょ? 大地は行くのかなって思って……」
「あー、悪い。連休中はバレー部で合宿なんだ。ちょうどその日も。だから俺は行けないかな」
「……そっか」
「ミョウジは行くのか?」
「私は迷ってて……。その……多分、来るから」

 一瞬、嫌な思い出が頭をよぎる。反射的に自分の身体がすくむのが分かった。詳細はぼかしたはずなのに、澤村には伝わったらしい。

「ああ……そうか」
「大地が行くならって思ったんだけど、合宿なら仕方ないよね。ちょっと考える」

 
「……なんかワケアリ?」

 澤村の隣で話を聞いていた菅原が、心配そうな顔で問いかけた。

「えっと……できれば、ちょっと会いたくない人が居て……」
「へー、ミョウジがそう言うのって珍しいのな」

 ……しまった。これではまるで悪口を言いに来たみたいではないか。東峰に嫌な子だって思われたかもしれない。失敗した。東峰が今どんな顔をしているのか、怖くて見ることができない。

「スガ、あんまり詮索するなよ。池尻は行くみたいだから、俺から気にしておくように言っておこうか?」
「ううん、大丈夫。来るメンバー聞いて考えるよ。合宿頑張ってね。ごめんね、ご飯中に」

 パタパタと手を振って教室をあとにすると、小さく息を吐く。
 東峰の顔は、最後まで見れなかった。

 数日前、中学の友人から同窓会の連絡が来た。それと同時にあの男からも連絡が来た。当然連絡など返していない。でも、関係無しに何度も連絡が来ている。
 友人たちに会いたい気持ちはあったが、それ以上にあの男に会うのが怖かった。澤村が行くならとも思ったが、合宿では仕方ない。

 東峰もようやく部活に戻ったし、この前の一年生達もとても優秀な選手だと言っていた。バレー部にとって、この連休中の合宿はきっと実りあるものになるだろう。
 東峰もきっと、部活のことで手一杯だ。告白の答えなんて考えていないかもしれない。でも、それならそれでいい。このままずっと、何事もなく過ごしていけるなら、その方がいいのかもしれない。
 
 相変わらずそんなことばかり考えてしまう。

 そうして一週間ほど経ち、世間はゴールデンウィークに突入した。

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