- ナノ -


(後編)



 翌日。数年ぶりに熱を出した。
 学校にも行かないと言ったが、まさか本当になるなんて思わなかった。

「言霊ってあるんだなぁ……」

 静かな部屋に自分の声が木霊する。

 昔は研磨がよく熱を出して、私はいつも研磨の部屋に看病しに行っていた。といっても、タオルを変えたり飲み物を注いだりするくらいで、私が居なくてもきっと病状は変わらなかったと思う。それでも研磨のことが心配で心配で、治るまで毎日通った。
 高校でバレーを本格的にやるようになって、最近は研磨も体力がついて、ほとんど熱を出すことは無くなった。もちろん嬉しいことだけど、ほんの少し寂しくもあった。

 もう研磨には私なんか必要ないのかもしれない。友達付き合いが下手で、人見知りで、ご飯もあんま食べなくて、放っておくと夜通しゲームやってて、すぐ熱を出して。私が世話をやいてあげなきゃ研磨は生きていけないんじゃないかって、ずっと思ってた。
 でもきっと、そんな研磨はもう居ないんだ。じゃあ私は何のために生きていけばいいんだろう。研磨がいないと生きていけないのは、私の方なのに。

 「研磨……」

 急に寂しさが込み上げてきて、ボロボロと涙が溢れた。研磨に会いたい。熱で身体がしんどいとか、頭が痛いとか、そんなことよりも、これから先の研磨のいない生活をどうやって乗り越えていけばいいのかを考える方が辛かった。
 無理。寂しくて死んじゃう。

 コンコン。

 不意に扉が控えめにノックされ、慌てて涙を拭った。お母さんに見られたら心配される。鼻をすすって、出来るだけ何でもないような声で答えた。

「はい。何?」
「……俺だけど、入るよ?」
「け、研磨!?」

 聞き間違えるはずのない声が聞こえ、思わずベッドから半身を起こす。

「ナマエ? 入っていい?」
「ちょ、ちょっと待って!」

 ど、どうしよう。髪はボサボサだし、まだ顔も洗ってない。泣いて鼻も垂れてるし。こんな格好で会うなんてありえない。とりあえず鼻をかんで、手櫛で髪を整える。
 熱に浮かされ働かない頭で必死に言い訳を考えていると、扉のノブがゆっくりと動いた。

 マズイ!

 咄嗟に布団を被って隠れると、ゆっくりと扉が開いた。

「……ナマエ? 大丈夫?」
「だ、大丈夫」

 ゆっくりと足音が近づいてくる。研磨は私のベッドの傍に腰を下ろすと、様子を伺うように声をかけた。

「具合どう? 熱は下がったの?」
「うん! もう大丈夫。心配しないで」

 布団を被ったままそう答えると、研磨のため息が聞こえた。

「……顔も見せてくれないわけ?」

 心なしか寂しげな口調で言われ、私は渋々布団から目元だけを覗かせた。それを見るなり、研磨は眉間にグッとシワを寄せた。研磨の指先がそっと額に触れる。

「まだ熱あるじゃん」

 呆れたようにため息をついて、研磨は私の髪をゆっくりと撫でた。研磨の手に触れるのはいつぶりだろう。研磨の手は、私が知っているよりも少しだけ大きくなっていて、それがなんだか寂しかった。
 私の頭を撫でる手つきは昔と変わらず優しいのに、なぜか研磨がすごく遠く感じる。

「クロは……?」
「自主練」

 なるほど。自主練に切り替わって研磨だけ帰ってきたのか。練習嫌いの研磨らしい。

 「何か食べたいものはある?」
 「……桃の缶詰が食べたい」

 素直にそう言うと、研磨は、ふっと笑った。

 「言うと思って買ってきた。開けてくる。食器勝手に使うよ」
「お母さんは? 下に居ないの?」
「買い物だって。ちょうど来た時入れ違った。ちょっと待ってて」

 そう言うなり立ち上がり、研磨は部屋を出ていった。



 しばらくして研磨が戻ってくる。手にはちゃんと器に入った桃を持っていた。身体を起こそうと上半身を腕で支えるようにすると、熱のせいかうまく力が入らない。
 起き上がるのに苦労していると、いつの間にか傍に居た研磨が私の身体とベッドの間にそっと腕を差し入れた。軽々と抱き起こされ、思わず研磨の横顔をマジマジと見る。
 あんなにヒョロヒョロとしていたはずの腕は、いつの間にかうっすらと筋肉がついていて、ガッシリとまではいかないけれどちゃんと『男の子の腕』だった。再び寂しさが胸にこみ上げる。
 視線を感じたのか、研磨の猫のような瞳がハッとしたようにキョロキョロと動いた。

 「あ、ごめん。勝手に……」

 慌てた様子で私から離れると、少し気まずそうに目を泳がせた。なんだか気恥ずかしくて、私は小さく首を振る。

「……桃、食べれそう?」
 「うん」

 研磨は「はい」と、器とフォークを差し出したが、私は受け取らずにじっと研磨を見つめた。

 「食べないの?」
 「食べさせて」

 あーん、と口を開けて待っていると、研磨が口を尖らせて眉間に皺をググッと寄せた。
 嫌なことがあるといつも研磨はこの顔をする。それを見て、ほんの少しだけ安心した。昔と変わらない所を確認したかった。

 「うそ。自分で食べるよ」

 クスクス笑いながら研磨からフォークを受け取ろうと手を伸ばすと、研磨はひょいと遠ざけた。

 「いいよ。食べさせてあげる」
 「え、冗談だよ。自分で……」
 「いいから」

 小さく切った桃を一つずつ私の口に運ぶ。自分で言い出したことなのに恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じる。きっと熱のせいだ。

 食べさせてもらいながら、幼少時代を思い出した。滅多に風邪を引かない私だったけど、数年に一度熱を出すと、こうして研磨が来てくれた。
 きっとそれも、もうすぐなくなるんだ。

「何?」

 昔を思い出しながらぼんやりと研磨を見つめていると、研磨は怪訝そうな顔を向けた。

「昔のこと思い出してた。小さい頃も、研磨がこうして食べさせてくれたよね。でも昔は研磨の方がよく熱を出して、私はいつも研磨のそばにいた。
 研磨には私が付いててあげないと、ってずっと思ってた。私が守ってあげなきゃって。でも、そんなことなかったんだよね。私がただ、そう思いたかっただけ。私がいなくても研磨は生きていけるし、私の助けは必要ない」
 「そんなこと……」
 「昨日、研磨に言われたこと、考えた。『子供じゃないんだし』って。……そうだよね。大人になるにつれて、きっと一緒に居られなくなるんだよね。それが……普通で、当たり前なんだよね……」

 言いながら、視界がじんわりと滲む。あーだめだ泣きそう。研磨が焦ったような様子でこちらを見ているけれど、私は気にせずに続けた。

「でもやっぱりそれが少し寂しくて。昨日は嫌な態度取ってごめんね。研磨に、拒絶されたみたいで寂しかったの」

 熱でボーッとする頭では、自分が何を言っているか分からなかったけど、勢いのまま、素直な気持ちを吐き出した。

 「……でもね、私はずっとずっと……研磨やクロと一緒にいたい。居られないなら……大人になんかなりたくない。研磨が居なくなったら……寂しくて死んじゃう……」

 嗚咽が込み上げ、しゃくり上げながらもなんとか言葉を紡ぐと、視界が大きな影に包まれる。目の前が真っ暗になって、研磨の部屋の匂いがする。研磨に抱きしめられているのだと、数秒遅れでようやく気づいた。

 「居なくならないし、勝手に決めないで」
 「だって……研磨が部屋に来るなって言った……。最近だって私のこと避けてたじゃん。だから――」
 「そうじゃないよ。そうじゃなくて……」

 少しイラついたような声でそう言うと、研磨は深く息を吐き出した。

 「心配だからだよ。ナマエがいっつも無防備に俺の部屋に来るから。時々……部屋着で来る時もあるし……」
 「……研磨の部屋なんか何回も行ってるじゃん……」
 「俺の部屋ならいいけど、他の人の部屋も同じような感じで行ってたら困るから。クロの部屋とか、そのほかとか」
 「どうして……?」
 「……好きな子が他の男の部屋行ってたらって思ったら、心配するのは当たり前でしょ」

 聞こえてきた言葉が右耳から入って左耳へと抜けてゆく。ゆっくりと顔を上げると、ほんのりと頬を赤く染めた研磨の姿が目に入る。

「すきな……こ……?」

 聞こえたけれど、理解ができない。研磨はなんて言った? ぽかんとした顔で研磨を見つめていると、研磨の目が不機嫌そうに歪んだ。

 「……なんとか言ってよ」

 気まずそうに目を泳がせながら、研磨がポツリと呟いた。

 「……研磨、好きな子いるの……?」
 「……話聞いてた?」
 「聞いてたけど、頭に入ってこないっていうか……。情報量が多くて処理できないっていうか……」

 ごにょごにょと言い訳をすると、研磨は苦虫を噛み潰したような顔で、諦めたように息を深く深く吐き出した。
 ため息をつきたいのは私の方だ。そもそもいきなりそんなこと言われてビックリしない人間がいる? こっちはついさっきまで、もう研磨と一緒に居られないかもとか、嫌われたかもとか、そんなことを考えていたっていうのに。それがいきなり好きとか言われても、とてもじゃないけど頭がついていかない。

「ナマエは俺のこと男として見てないかもしれないけど、俺はずっとナマエのこと好きだったよ」

 再び耳を疑うようなセリフが研磨の口から出てきた。

「ずっとって……いつから……?」
「分かんないけど、小学校くらいからかな」
「えっ! そんな前から!? ……全然知らなかった……」
「だと思った……」

 私が研磨を好きだと自覚するよりも遥か前から好きだったと告げられ、今までの思い出が走馬灯のように蘇る。
 言われてみれば、いつだって研磨と私はワンセットだった。自然な流れでそうなっているのだと思っていたが、ひょっとしたら研磨がそうなるように誘導していたのかもしれない。

「ナマエはどう思ってるの、俺のこと」
「えっと……私も研磨が好き」
「クロのことは?」
「クロ? クロのことも好きだけど、クロは友達だし……」
「じゃあ俺は? 俺もただの友達?」
「研磨は……違うよ。研磨が言ってるのと同じ好き。……っていうか研磨がこんなにグイグイ来るの……珍しいね……」
「こういう時じゃないとちゃんと答えないから。ナマエ、今熱で弱ってるから。つけ込むチャンス」

 研磨の猫のような目が、真っ直ぐに私を見つめている。まるで目の前の獲物を追い詰め、狙いを定め、飛びかかるタイミングを見計らっているようだった。普段は自分から動かないくせに、こういう時の研磨は本当に生き生きしている。背筋がゾクゾクと震えた。

「……本当に、ちゃんと好き。幼馴染とか友達じゃなくて、男の子として好き。……そういう『好き』」

 チラチラと研磨を見つめながら、なんとか言葉を繋ぐと、研磨の瞳がほんの少しだけ弓なりに細くなった。口元にもうっすらと笑みが浮かんでいる。どうやら満足したらしい。

「あれ? じゃあどうして最近避けてたの?」
「避けたりは……してないけど……」
「うそ! 避けてたよ! 二人っきりになりそうになったら避けてたじゃん」

 気のせいだなんて言わせない。私がどれだけ寂しかったか。きちんとした理由を聞かなければ納得できない。

「それは…………ナマエが無防備だから。……時々見えてるし。目のやり場に困る」

 言われてカァッと顔が熱くなる。何がと聞かなくても何が見えていたのかはなんとなく分かる。
 果たして見えていたのはどっちだろう。上? 下? それとも両方?

「……それは……ごめんなさい」
「あんま短いのは履いてこないで」
「下か……気をつけます……」
「上も、時々透けてる」
「えぇ……両方……」

 あまりの羞恥にいたたまれなくなり、思わず両手で顔を覆う。消えてなくなりたい。

「これから気をつけて」
「…………はい」



 コンコンと、不意に扉がノックされる。返事をすると部活終わりのクロが顔を覗かせた。
 クロは私と研磨の顔を交互に見ると、ニヤリと口元を上げた。

「……仲直りした?」
「まぁね」
「……おかげさまで。お騒がせしました……」

 研磨はいつもと変わらない様子で呟くが、私は何となく気恥ずかしくて、小さな声で呟いた。

「で? 俺は明日から朝は別で行ったほうがいい? 二人で行く?」

 クロがニヤニヤと笑いながら言った。どうして分かったんだろう。クロのこういうところは本当にすごいと思う。クロに隠し事をできた試しがない。
 そんなクロを研磨はジロリと睨みつける。私は研磨の様子を伺いながら、先に口を開いた。

「別にいつもと変わんないよ。朝はいつも通り三人で行く。ね? 研磨?」
「……俺はどっちでもいいけど」
「といいつつ、研磨君は随分残念そうじゃない?」
「そんなことない。クロ、そういうのやめて。ウザい」

 はぁ、と大きくため息をつきながら研磨がクロを睨む。

「おい、研磨がこえーんだけど。ナマエ、何とかしてよ」
「クロがウザ絡みするからじゃん」
「お前ら揃いも揃って人をウザい呼ばわりすんなよ。傷つくんですけどー」
「ちょっと! 近い! 顔近いから!」

 口を尖らせながら迫って来るクロの顔を両手で阻みながら非難の声を上げると、研磨がクロとの間に割り込んだ。

「クロ、これからはそういうのやめて。ナマエは俺のだから」

 ものに執着しない研磨にしては珍しい自己主張に、私とクロは目を見合わせた。

「研磨もヤキモチ焼くんだね……」
「……だな」
「二人とも俺を何だと思ってるの」
「……草食動物」
「……むしろ絶食動物」

 研磨の眉間に再びシワが寄り、『あの顔』になった。それを見て、私とクロが笑い声を上げる。研磨と私の関係が変わっても、変わらず三人で居られることが嬉しい。



 そっと研磨の手を握ると、研磨がチラリと視線を向けた。

「たまには二人っきりで一緒にいようね」

 小さな声でそう言うと、研磨は再びあの獲物を見つけた猫のような目をして笑った。研磨に本当の意味で狩られる日も、きっとそう遠くない。
 

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