(1話)
私には、好きな人がいる。
その人を見ると、胸がドキドキして、息が上がり、頭がクラクラする。
どうやったらあの人の視界に入ることができるんだろう。
***
「烏養さんっ!」
「うおっ!」
レジ台でタバコを吸いながら少年誌を読む烏養さんにそっと近づき、両手を広げて脅かすように声をかけると、彼は案の定驚いたような声を出しながら椅子からずり落ちた。
「あっぶねーだろーが。タバコ火ぃ付いてんだぞ」
「ゴメンゴメン。っていうか、店番中くらいタバコ我慢しなよ。接客をなんだと思ってるわけ?」
はい、と灰皿を差し出せば、烏養さんは渋々といった顔で受け取り、タバコの火を揉み消した。
「よろしい。成長期の学生が利用するんですからね。タバコは控えていただかないと。知ってます? 日本の研究ではね、がんになった人のうち、男性で約24%、女性で約4%はたばこが原因だと考えられてるんですって。それに、フィルターを通さない分、先から出る副流煙の方がニコチンの量――」
「あーわかったわかった。いちいちうるせぇなぁ。お前は俺の母ちゃんかよ……」
烏養さんは私の話を遮って、至極面倒臭そうな顔をした。
胸がズキっと傷むのと同時に腹が立った。せっかく心配してるのに。人をなんだと思っているのか。
「……あっそう。うるさくて悪ぅございました。はい、コレ。今日のスコアでーす。コレ置いてさっさと帰りまーす」
レジ台へ今日の分のスコアをやや乱暴に置くと、烏養さんは吹き出して笑った。
「拗ねんなよ。ったく、ホント大人なのかガキなのか分かんねーな」
呆れたように笑いながら、烏養さんは「ほれ」と小さなパッケージを差し出した。可愛らしいキリンの絵が書いてある。
「なにこれ? 『ぐんぐんカルシウムバー』?」
「やる。それ食って機嫌直せ」
「えっ、くれるの!? いいの!?」
やや食い気味に問いかけると、烏養さんは困ったような呆れたような顔で笑った。
嬉しい。烏養さんから貰っちゃった。宝物にしよう。思わずギュッと握りしめると烏養さんは「そんなに握ると折れるぞ」と言ってまた笑った。
「ほら、そろそろ暗くなるから気をつけて帰れよ」
「はーい。じゃあね、烏養さん。また明日も来るからねぇー」
パタパタと手を振ると、彼はしっしと手で追い払うように返した。
そんな何気ないやり取りも、あの人となら全部が全部、宝物のようだった。
***
「でね、コレ貰ったの!」
ふふふ、と笑いながら、クラスメイトの澤村大地に昨日烏養さんから貰ったなんとかバーを見せる。大地はまるで子供を見るような目で私を見てから、「よかったなぁ」と笑った。
「宝物にするんだぁ」
ギュッと抱きしめながらそう言うと、同じくクラスメイトの菅原孝支が呆れたように笑った。
「いやいやいや、それは食えよ」
「えー、やだよ。もったいないじゃん。せっかく烏養さんから貰ったのに!」
「食わねーほうが勿体ねーべ! ナマエが食わねーなら俺が食うから頂戴!」
「だめぇ! ちょっと、触んないで! 折れちゃうでしょ!!!」
伸びてきた手から隠すように抱き込むと、スガは悪戯っ子のような顔をして私の手から奪おうと手を伸ばした。ぎゃあぎゃあ言いながら攻防を繰り返していると、大地が大きく咳払いをした。
「うるさい」
静かだが重みのある一言に、私とスガはハッと息を飲むと顔を見合わせて口を噤んだ。
***
私が烏養さんに初めて会ったのは、二年前の春のことだった。
私はその日、とても急いでいた。何に急いでいたのかは忘れてしまった。でも、とにかく急いでいた。
急ぎながら坂を駆け下りた時、何かに躓き盛大に転んだ。何に躓いたのかも、もう覚えていない。ただ、ものすごく痛かったことだけは今でも覚えている。
とりあえず絆創膏でも買おうと、目の前の坂ノ下商店に入った。すると、ガラの悪い金髪にタバコをくわえた兄ちゃんがレジ台に座って漫画を読んでいた。
失敗したと思った。
やっぱりここじゃなくて他の店へ行こうと踵を返した瞬間、私に気づいた烏養さんが話しかけてきた。
『いらっしゃい』
たった一言だったけど、なんとなく優しい声に聞こえた。気が変わって、やっぱりここで絆創膏を買おうと思った。
『あの……絆創膏って置いてますか?』
そう問いかけると、烏養さんは少し困ったように頭をガシガシと掻いた。
『絆創膏は置いてねぇな……どうした、怪我か?』
烏養さんはそう言うと椅子から立ち上がり、私の方へと歩み寄った。
『ちょっと転んで。でも大丈夫です』
相変わらず転んで擦りむいたところはジクジクと痛んでいた。でも道で転ぶなんてあまりにも恥ずかしくて、私は何でもない顔をして言った。
『あー……結構酷えな。ちょっと待ってろ』
そう言うと烏養さんは店の奥へと引っ込んだ。
しばらくして、液体の入ったボトルとバケツ、それから薬箱を持って烏養さんが戻ってきた。私の前まで来ると、スッと椅子を差し出された。
『あ……あの……』
『いいから座れ。見た感じ転んだばっかだろ』
戸惑う私とは対照的に、烏養さんは私の肩を押し強引に椅子に座らせ、テキパキと持ってきた薬箱をからガーゼなどを用意した。傷にジャバジャバと消毒液のようなものをかけられ、しみるかと思い咄嗟に目を瞑る。ところが傷は殆どしみなかった。不思議に思っているうちに、傷口は綺麗になっていた。
その後ガーゼでそっと傷口の水分を拭き取ると、烏養さんは大きなシートのような絆創膏を貼ってくれた。
『とりあえずこれでいいだろ。あとはちゃんと保健室なりで診てもらえ』
あっという間に手当てが終わり、ポカンとした顔で見つめる私の顔はさぞかし間抜けだっただろうと思う。烏養さんは怪訝そうな顔で私を見返した。
『何だよ』
『あ……いえ、あの……ありがとうございました』
『どういたしまして。ほら、制服ってことは昼休憩だろ。授業始まる前に戻れよ』
『あのっ! 絆創膏のお金は……』
『んなもんいらねーよ』
『でも……』
『子供はそんなこと気にすんな。俺が勝手にしたことだし、怪我したまま放り出すわけにもいかねーからな』
面倒くさそうな顔でそう言いながら、少し照れたような顔で頬を掻く。やっぱり見かけに反して優しい声だと思った。
きっとあの瞬間、私は恋に落ちた。
あれから二年が経ち、烏養さんがバレー部のコーチになった。
私は元々、バレー部に入る前は手芸部に入っていた。活動があまり無い手芸部では少し退屈で、かといってバイトをする気にもなれず、なんとなく暇を持て余していた。
そんな時、クラスメイトのスガに誘われ、手芸部とは掛け持ちのまま、バレー部にマネージャーとして入部することになった。
烏養さんがバレー部のコーチになってからは、烏養さんが来る日に合わせて調整しており、最近はバレー部に顔を出すことの方が多いくらいだ。
同じ部活で顔を合わせて話をするうちにひょっとしたら距離が縮まるかも! ……と思っていたのに、結局何も変わらないまま、今に至っている。
いつかドラマや映画のような劇的な事件が起きて、それをきっかけに何かが変わったりするんだろうか。
そんなことばかりを考えていた。
***
「だからさぁ、一回くらいデートしようよ」
「ダーメ。子供と違って、大人は忙しいんです。部活が休みでもやることは山ほどあんだよ」
何度目か分からないやり取りに、烏養さんはいつものようにウンザリした顔でため息をついた。
「じゃあ、畑は? 畑の手伝いしてあげる!」
「間に合ってます」
「じゃあ店番するから!」
「いらん!」
「もう! じゃあ何ならいいの!」
「学生なんだから勉強しろ勉強!」
そう言って烏養さんは再び雑誌へと視線を落とし、本日五回目くらいのため息をついた。
ため息をつきたいのはこっちだ。久々に体育館の点検で部活が休みになり、これ幸いと烏養さんを誘いに店までやってきたが、このザマである。いつものこととはいえ、ここまでけんもほろろに断られては、流石に泣きたくなってくる。
「じゃあさ、ここで勉強してもいい?」
「家でやれよ……。他の連中がここに来てねーってことは大人しく家で勉強でもしてんだろ? お前も、部活がない日は家で勉強しなさい」
ムッと膨れかけたが、『他の連中』と言われて、ふと思う。そういえば他のみんなは何をしてるんだろう。体育館が使えないならバレーはできないし、ひょっとしたら本当に試験に備えて勉強でもしてるんだろうか。一人だけ暇そうにしてしまって、急に罪悪感が湧いてくる。
「……じゃあ家で勉強しようかな」
「おう。そうしろそうしろ」
「なんか適当……」
言いながら悲しくなった。打っても全っ然響かない。それどころか完全に子供扱いだ。視界にすら入れてもらえない。
悲しい……。
心の中で深い深いため息をつきながら踵を返すのと同時に、入口の戸がガラリと音を立てた。
「チワーッス。烏養さーん! 中華まんください!!!」
坊主頭の田中を筆頭にバレー部の面々がゾロゾロと入ってくる。
「あ! ナマエさん! 居ないと思ったらここに居たんスか!」
見ると、大地をはじめ、スガや東峰、それに二年や一年のメンバーも全員ではないがあらかた揃っている。
「あれ、みんな何してたの?」
「体育館使えないんで、部室で作戦会議してたんスよ」
「あとは試合の動画見たり、な」
「へぇ……そうだったんだ」
そういえば帰り際に大地たちが集まってわやわやしていた気もする。
――……なんだ。みんなちゃんとバレーのことやってたんだ。なら、遊んでたのは本当に私だけだったのかも。
「ナマエさんは――」
「いま! 帰るとこ」
無理やり笑顔を作ってそう言うと、みんなにバレないようにゆっくり息を吐き出した。
なんだろう。なんか居づらい。烏養さんに相手にされないからっていうだけじゃない。きっと、みんなの中で、自分だけがバレーに真剣じゃないんだという事実を、目の当たりにしたから。
私だけが、不純な動機でここに居る。それがすごく後ろめたい。
居た堪れなくて顔を伏せると、心配そうな顔をしてスガが顔を覗き込んできた。
「……平気か? なんか顔色悪くね?」
「そ、そう? そんなことないよ。全然普通! いつもどおり」
スガの問いかけに首を振って答えるが、スガは腑に落ちなさそうな顔で眉間に皺を寄せている。
「ホントだってば。……ホントに、もう帰るとこだったし」
「なら送ってく」
「大丈夫だって! まだ外も明るいし。スガもまだ確認することあるっしょ? ほら、みんな待ってるよ」
後ろを指差すと、何人かは心配そうな顔でこちらの様子を窺っていた。
「んー……わかった。体調悪いならあんま無理すんなよ」
「分かってるって。じゃ、また明日ね」
なおも心配そうな顔でこちらを見つめるスガから背を向け、私は逃げるようにその場を後にした。
***
家に帰り、夕飯を食べ、風呂から上がってもまだ、今日の出来事が頭から離れなかった。
烏養さんに絆創膏を貼ってもらったあの日から、私の頭の中は烏養さんのことでいっぱいだった。
でも、どれだけお店に通っても、世間話をできるくらい仲良くなっても、肝心なところでいつも線を引かれてしまい、ただの顔見知りから抜け出せなかった。
私が何を言っても、清々しいくらいに烏養さんは取り合ってくれず、二言目には私を子供扱いした。たった八歳しか変わらないのに、彼にとって私は大勢の子供のうちの一人に過ぎず、きっとこの先いくら待ってもそれは変わらないんだろう。私だってバカじゃないからそれくらい分かる。
……なら、もうそろそろ諦めた方がいいんじゃないか。みんなみたいにちゃんとバレーのことを一生懸命やった方がいいに決まってる。そう頭では分かってるのに……。
「無理。諦めらんないよ……」
誰に言うでもなく呟いて、ベッドに倒れ込んだ。
――だって好きなんだもん。好きになってもらえなくたって、私は大好きなんだもん。
……っていうか、好きでいるくらい、別によくない? 誰にも迷惑をかけないように好きでいる権利くらい、誰でも平等に持ってるはずだし。
そうだよ。たとえ烏養さんに好きになってもらえなくったって、私の気持ちは私のものだもん。誰にも譲ったりしなくていいはず。
……でもなぁ。今日みたいなことがまたあったら、その時こそ立ち直れない気がする。
でも、でも……。
そうやって、気を抜くと沈んでしまいそうな気持ちを無理やり奮い立たせながら思いとどまり、浮いたり沈んだりを繰り返す。
いつかこの気持ちが報われる日が来るんだろうか。烏養さんに好きになってもらえる日が来るんだろうか。
そんなこんなでようやく眠れたのは、日付が変わって空が白んでくる頃だった。
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