小説 | ナノ

が為の口付け



身体が重い、痛い。
闇の中に揺蕩うような感覚の中で体だけが鉛のようだった。
満足に出来ない呼吸をあと何度繰り返せば楽になれるのだろうか。そんなことを痛みとは切り離された遠くの自分が思う。
吐ききれない息の行き場が無くて苦しい。
手を伸ばしもがこうとしても上がることのない腕に、このまま闇の底へと沈んで行くような気がした。
闇の底。
そこにはどんな景色が広がっているのだろう。
お決まり通り三途の川でも流れていて、俺の罪の重さを決められたりなんかするのだろうか。
それとも、逝った先人たちが飲めや歌えやの大騒ぎでも繰り広げているのだろうか。

まぁ、どっちでもいい。
どっちでもいいから、早くこの苦しさから開放されないだろうか。

精一杯吸い込んだ空気を、これでもかと吐き出す。
苦痛を逃がすように吐き出した吐息が泡のように闇の中をこぽこぽと浮上していった。
きっと、この泡の行く先が俺の戻るべき場所なのだろう。そう思いはすれど、体はぴくりとも動かない。
ただ泡が闇に呑まれるまで見届けるだけ。
俺はどうなるのだろうか。
そんなことを漠然と考える。
痛い、重い。早く楽になりたい。
苦痛から逃れようと必死こいて胸を上下させてみるが、結局は変わらない。
辛さを感じることに脳が麻痺してきた頃には、ふと愛すべき者の存在が頭を過ぎった。
夕日の似合う、愛すべき者の存在が。

アスマ?

そんな時だ。
ふと消え行く泡の先に、一条の光明が視界をちらついたのは。
耳朶に触れる、俺の名を呼ぶ水面に描かれた波紋のような声。
気遣わし気に、それでいて愛しいと告げるような優しく瞬く星のような声。

紅……

愛する女に呼ばれている。
こぽこぽと浮上していった泡が、光に刺されぱちんと弾けた。

紅。

弾けた泡がきらきらと粉雪のようになったかと思えば、それは音もなくぴくりとも動かせない左手に降り注いできた。
暗闇の中で視線だけが呆然とそれを追う。
すると、何故かふわりと真綿に包まれるような温かさが指先から腕へと伝わってきたのだ。

あぁ、紅に呼ばれているのかもしれない。

精一杯の力を込めて肺から空気を送り出し声帯を震わせようと試みる。
けれど、長い間ぜぇはぁと苦しい呼吸を無理矢理にしていたせいか喉がべったりと張り付き声らしい声は虫の音ほども出なかった。
そうなると、俺はどうしても水分を求めることにしか頭が回らなくなり、どうにか唇をぱくぱくと魚のように動かして水分を求める。
気付かない方が良かったと思うほどにからからを通り越した喉は、嗚咽を呼び起こした。

み、みず……

温かくなった左手の指先にぴりぴりと電気が走るような感覚を余韻に、光明の差す闇を見上げた。
眩いまでの輝きに目を細めたのか、苦しさ故に目を瞑ったのか。どちらにせよ重い瞼が幕を下ろすようにゆっくりと閉じられた。
瞼の裏にまで届く明るさに焦がれる。
帰りたい。あの光差す向こうに。
そして、俺を呼ぶ愛しい者をこの腕で抱き締めたい。

会いたい。
会いたい。
愛しい、愛しい紅に。

胸が押し潰されるような圧迫感に、閉じた瞳をぎゅとつぼめた。
すると、何故だかこくんと一つ喉が鳴る。
次の瞬間には、ごほごほと咳き込むことを許さぬ勢いで喉を何かが通り抜けて行った。
それが水だと気付いた時、まるで砂漠に見つけたオアシスを喜ぶように心が歓喜に震えた。
絶え間なく喉を流れ落ちていくそれは、俺をあの光の向こうへ帰してくれるものなのだろう。そう思った。
そして、鈍くなっていた感覚が捉える確かな唇への圧迫感。
薄く開かれた唇に合わさるそれは、まさに人から与えられるものにほかならない。
押し付けられるような、それでいて愛を注がれているような行為は苦しいと弱音を吐く俺に、まだ闇に飲まれてはいけないと訴えているようだった。

この時の俺は、愛を注ぎ闇に飲まれるなと訴えているのは紅だと。そう無意識のうちに思い込んでいた。
まさか再び瞳を開けた時、目の前にいるのが沙羅だとは想像もしていなかったのだ。

瞼の裏に届く光が紅色に変わっていく。その色に安堵しながら、薄っすらと瞳を開けた。目の前にいるであろう紅の存在をしっかりとこの目に入れるためである。
しかし双眸が捉えたのは、少しばかり荒い呼吸をして、呆然とこちらを見ているようで心此処に在らずといった雰囲気の沙羅。大きく胸が上下に動き、その呼吸音は静寂に支配された空間の中で柔く木霊していた。
視界に広がる思わぬ光景に、見開けない瞳の視界が不意に広くなる。
微かに湿った唇と首筋を伝う冷たい存在を認めれば、今し方何が起きていたのかは鈍い思考回路でも想像することが出来た。
俺を闇の中から引き上げようとしていたのは、紅ではなく沙羅だったのだと。

そうか。沙羅が……。

病院のベッドに寝かしつけられているのだろうことを頭で飲み込みながら、夕日の差し込む窓の外を見やる。
それは、胸に湧き上がってくるこの感情が何であるのかを考えあぐねた末の行動だった。
正直なところを言えば瞳を開けた瞬間、目の前にいたのが紅ではなかったことに心の中では落胆していた。
けれど、沙羅の存在を認めた俺の心は、お前だったのか。と受け入れもしていた。
何故なら、沙羅が俺に向けてくる感情の何たるかを理解していたからである。
アスマと呼ばれる度、その瞳は紅に似た情熱を秘めていた。
見上げられるビー玉のような瞳にも何度息を飲んだことだろう。
しかし、沙羅は紅と違って行動に移そうとはしなかった。
アスマと呼び、その瞳に情熱を宿らせてはいても態度は同僚の枠を超えなかったのである。
紅と恋仲になった後も、その態度は変わらなかった。
瞳に宿る熱と、態度の温度差に首を傾げることもあったほどだ。
それでも、その温度差を保ったまま同僚を続けていくのが、沙羅と俺の関係性なのだろうと時を経るにつれ自然と思うようになっていた。
けれどそんな矢先に、俺は紅から溢れた一言を思わぬ形で耳が拾ってしまったことで全てを理解したのである。
それは、日常の中で沙羅が俺と紅の元へ走り寄り、二三ことの挨拶を交わし去って行った後でのことだった。
走り去る背中が遠のいて行く。すばしっこい背中を見送りながら、その言葉は風に乗ってふわりと耳を掠めた。

「気付いてないのね」

愛しい女のどこか切ない声色。そんな声を聞いたことのなかった俺は思わず紅へと視線をやった。
眉間が顰められ、何かに耐えているような表情に目を奪われた。

「紅?」
「ううん、何でもないの」

そう言ってくるりと、もう見えない背中に背を向けた紅は小さな笑みを作ってみせたのである。
その表情が何でもないことを表してなどいないことは直ぐに気が付いた。
そして、紅の溢した「気付いてないのね」という言葉の意味も。
それでも俺は、この時から沙羅が自身の気持ちに気付いていないことをいいことに、温度差を持ち続ける沙羅と同僚の関係を続けていた。
何故なら、気付かせてもどうしてやることも出来ないという逃げの気持ちがあったからだ。
俺は紅を愛している。
だから沙羅を傷付けることになるのだと。

しかし、今夕日の栄える病室で沙羅がしたものは同僚の枠を超えた行動だった。
喉を流れ込んで行った水に感じた愛は、紛れもなく沙羅のもの。
その一線を超えたことに、少なくとも俺は動揺と深い溜息を心の中で吐くしかなかった。

がらり。

思いの外大きな音に、沙羅がびくりと肩を跳ねさせ振り返る。

「沙羅、いたの」
「えぇ」

若草のベストの背に入る渦巻き模様を眺めながら、その向こうから聞こえる声にきゅっと心臓が縮んだ。
己が招いた結果だというのに、ここへきて申し訳無さと微かな後ろめたさが胸を締め付けるとは思ってもいなかった。
けじめを付ける時なのだろう。
沙羅にも、紅にも。

「アスマは?」
「まだ「起きてる」
「!」

まるで天井が降ってきたような顔をして驚く沙羅が振り返れば、想像以上に丸く見開かれたあのビー玉のような瞳とかち合う。

「アスマ、大丈夫?」
「あぁ」

腕に花束を抱えた紅が顔を出し、花瓶の花を豪勢に生けていた。
その間沙羅は俺たちの会話を聞きながらもぎゅっと唇を引き結んでいる。
きっと自分の制御しきれなかった感情が起こした行為に動揺し、紅の登場にどうしたら良いのか分からなくなっているのだろう。
何かに耐えるような表情はあの時の紅によく似ている。
複雑な、折り紙を何重にも折り込んだような表情は紅同様見る者の心をざわめかせた。
しだいに耐え切れなくなったのか、沙羅は足をすりと一歩後ろに引いて言葉を切り出す。

「じゃぁ、私行くね」
「もう行くの?」
「うん、明日早いし」

何でもないことを装う笑顔。
これも紅と似ていた。
一切合うことのなくなった視線に、どれだけの動揺があるかは簡単に見て取れる。

「来てくれてありがとな」
「いいえ、それじゃあ」

それでも、俺はこの場で全てを口に出すことは出来なかった。
愛する紅がいたからである。
けじめを付けなければいけないと思いながら、動揺に頭の回らぬ沙羅と全てを察しながら耐えていた紅に、どう告げればいいのかが分からなかったのだ。
とはいえ、このままにしてはいけないことも気付いている。
夕日に染まるベッドから影を濃くする扉へと向かっていく沙羅の背中。
俺は傷付けてしまうのだろう。そう感じながら、それでも容赦のない言葉を掛けようとしていた。
ビー玉のような瞳を捉え、真っ直ぐ届けと願う。

沙羅の気持ちを受け取り、それに応えるものとして。

「沙羅、ありがとう」

そう口にしていた。
ぱたん、と扉の緩衝材が音を吸い込み静かに閉じられていく。
訪れた静寂と鮮やかな夕日に包まれた病室に、紅のどこか遠くを見るような声がぽつんと落ちた。

「あの子、気付いたのね」

全てを察したような響きは、まるで今までの俺たちの出来事を見ていたかのような口振り。
紅は気付いているのだ。
沙羅が己の愛情の在りどころに気付いたことを。

そして、俺が沙羅の気持ちに気付いていたことを。

「紅」

夕日がこの上もなく似合う愛する恋人の名を呼ぶ。
ゆるりと振り返った全てを悟った瞳を見上げ、動きの鈍い手をなんとか操り紅の手を取った。
滑らかな肌と女らしい柔らかな指先。
その感触はいつも通りしっくりと手に馴染んだ。
引かれるままに腰を屈めた紅は、その聡い瞳をそっと閉じる。
しっとりと、まるで夕日が地平線と触れ合うように唇が合わさった。
きっと、この先も紅は沙羅のことを尋ねたりはしないのだろう。
それは紅からの信頼と言っても過言ではない。

俺は、これから先もその信頼に応え続けていく。
ただそれだけ。
沙羅から流れ込んできた愛。それを紅に渡すことは出来ない。
それは俺に向けられたものであり、俺しか応えることは出来ないからだ。
それがけじめというのだろう。

触れた唇の愛しい甘さに、気持ち良さが首筋を駆けた。

あぁ、夕日が良く似合う。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今作は「モラリストの口移し」「インモラリストの口移し」の続編になっております。
読者の方からアスマさんの気持ちはどんな感じだったのか?という感想を頂きまして、書いてみようと試みた作品でもあります。
要するに、モテる男は辛いよ。そういうことです。