小説 | ナノ

ンモラリストの口移し



あーぁ、泣いちゃって。
でも俺は慰めてなんてやらないよ。
だって、その弱みに付け込まなくちゃお前はこっちを向いてくれそうもないからね。

「アスマって今日非番?」

晴天麗らかな日差しが待機所に差し込む中、ちらりと横目に俺を見た沙羅が口に出したのはあいつの名前。
どうしてだろうね。こんなにわらわら上忍がいるのに、お前は直ぐに気付く。
いつもそう。俺がお前を見つけるよりも早く、お前はあいつを見つけるんだ。
よっこらせと大袈裟に存在を主張するよう座ってみても、きっと違和感すら持たず日常という光景に俺を溶け込ませて流していくのだろう。
お前からしてみたら、俺はただの景色の一部。
窓の外を眺める姿を本の影から窺えば、長閑な風景に欠伸を一つ零していた。
本人はその名を口にしたことなんてたいして気にしてもいないのかもしれない。そもそも、あいつの名を無意識に口にしていることすらきっと気付いていないのだろう。
それでも、俺はお前を見ていたから知っている。
無意識に名前を呼び、どんな瞳をあいつに向けていたのか。その行為の意味するところを。
愛読書をぱらぱらと捲り、暗唱しすぎて脳にまで焼けつくように刻み込まれた文章を追う。
その傍で、己の口がアスマの所在を言うべきか言わざるべきかを迷い、マスクの下で小さく息を吐いていた。
もし言ったとして、お前はどんな反応をするだろう。
そう考えて、再び視線を青空を眺める姿へと移す。
きっと、何でもないことのように生返事を返すだけ。そして、無意識のうちに頭をあいつでいっぱいにして、俺のことなんか忘れているのだ。
お前はいつもそう。
気付けばアスマ、アスマ、とその名を呼んでいる。あの紅だって気付いていてもおかしくはない。
実際、気付いているのだろう。
知らぬ存ぜぬは本人ばかりなりとはよく言ったものだ。
それでも紅が何も言わないのは、本人に自覚が無いからと言ってもいい。それだけではない。もし気付いたとしても、沙羅ならば身を引くだろうことを知っているのだ。
複雑な女の友情とでも呼べば良いのだろうか。それとも、沙羅の性格を知ってのことか。二人の関係は、恋人を持つ幸せな者とそれを応援する者という枠で括られていた。
とはいえ、いつまでも気付かないままなんていうお子様でもないことはこの歳になれば嫌というほど痛感する。
問題は、気付いてしまったその後。
友であり応援していた紅の恋人を愛していると気付いた時。
お前は枠で括られた関係を守って身を引くのだろうか。
あいつのことを考えて考えて、破裂しそうな気持ちを抱えて己の心に蓋をするのだろうか。
そして、お前を想う俺をその瞳に入れてくれるのだろうか。
もし、こっちを見てくれるのなら。

気付けばいい。
さっさとその気持ちに気付いてしまえばいいのだ。
気付いて、身を引いて、蓋をして。
俺に縋ってくればいい。

そんな身勝手な悪魔の囁きを耳元で聞く。沙羅の気持ちを蔑ろにすることだと理解していながら、迷っていた口はするするとアスマの所在を口にしていた。
まるで、あれ、知らなかったの?という偽善者ぶった口調と共に。

「アスマは今頃病室で寝てるよ」
「え?」
「任務で重症。俺も状況はよく分からないけど、木ノ葉に帰って来た途端倒れて集中治療室行き」

目は愛読書の如何わしくも純愛を描いた文章を追ってはいたが、意識は沙羅の一挙手一投足を逃すまいとしていた。
そっか、とぽつり呟いて窓に頬杖を付く姿は想像通り。
俺は、きっかけを与えただけ。
お前はきっとこのまま無意識に愛する人を想うのだろう。そして近いうちに自分の気持ちに気付くのだ。
気付いて、そして……
任務に呼ばれたと席を立った時には、もう沙羅の思考はあいつで埋め尽くされているように思えた。

それから沙羅の気持ちがどうなったかを知る機会は、願うまでもなく目の前に自ずからやって来た。
真っ赤な夕日が影を伸ばす頃。
任務帰りの俺の目の前にお前はいた。
十字路の手前で右へと視線を向け、頭を掻く。かと思えば、何かを決心したみたいに病院へと続く道へと踏み出していた。
気付いたのかもしれない。
いや、気付いたのならばそう易々とあいつに会いに行くような女じゃない。
沙羅はまだ気付いていないのだ。
それでも、着実に心は動いている。
早く、早く気付けばいい。そして辛いと吐き出し、寂しさから逃れるように俺に縋ればいいのだ。
こっちを向いたお前は俺の気持ちに驚くだろう。
けれど、自分が想うばかりでなく、想われる存在であることを知れとすら思う。
歪んだ心を持ったまま、俺は迷いなく十字路を右へと曲がり病院の門前で沙羅が出てくるのを待っていた。

「あら、カカシ。こんな所で何してるの?」

偶然とはえげつない。
花束を持ち、間違いなくアスマの見舞いに来たであろう紅を見てそう思った。

「いやね、人を待ってるのヨ」
「人待ち?」
「そ」

緩やかに目尻を下げる。
首を傾げた紅の艶やかな黒髪が光る度、あぁ夕日が良く似合うと思った。

「おたくは?……って、聞かなくても分かるか」

苦笑する俺に、紅は珍しく恥じらい顔で「寂しがってるといけないからね」と呟いた。
アスマのいる病室を見上げ、それじゃぁと横を過ぎて行く。
俺は、きっかけを与えるだけだ。

「沙羅に会うかもしれないから宜しく」
「……」

紅の足がぴたりと止まる。
きっとこの言葉で紅ならば全てを察するだろう。
沙羅がアスマの元にいることを。

「そう。分かったわ」

片手をひらひらと上げた俺を振り返ることなく、紅は夕日に包まれた病院へと吸い込まれて行った。


何がどうなったかなんて、お前が涙して病院から出てきた時に何となく察したよ。
あぁ、気付いたんだって。

「なーに泣いてんのよ」
「カカシ……」

紅い夕日が沙羅を串刺しにしている。どうして此処にいるんだって文句が飛んできそうな顔に、一筋涙が伝っていた。
その涙だけを光が反射する。
紅と違って夕日は似合わないくせに、その涙は恍惚として美しかった。

「夕日にでも泣かされた?」

問いの意味を、今の沙羅なら分かっているのだろう。
理解しているからこそ、その頬に涙が伝っているのだろうから。
辛いと吐き出せばいい。
寂しいと声に出せばいい。
俺に縋りつけばいい。
紅い夕日がゆらゆらと揺れている。まるで、俺の醜い心を諌めるように肩を揺する人の手の感覚に似ていた。
醜いことだということは知っている。人でなしだと言われることも知っている。仲間を大切にとほざく口とは裏腹に、考えていることはろくでなしもいいところだ。
それでも、俺は沙羅がこっちを向いてくれるためならなんでもやろうと思った。
たとえ、非道だと蔑まれようと。

俺の心が、耐えられないのだ。

「付き合うけど?」

右手を上げ軽く杯を傾ける仕草をすれば、沙羅は涙を片手で雑に拭い「少しだけ」と小さく呟いた。
俺の気持ちなど知る由もないお前は、そうして隙を見せるのだ。その隙に付け込んでやろうっていう奴が目の前にいるのに。
でも同時に、その隙は俺が何でもない景色の一部だからだという現実も突きつけてくる。
なんでもない景色にならば弱みの一つや二つ見せても大丈夫。そんな風に思っているのかもしれない。
一つ、静かに息を吐く。
そっと沙羅の背中に手を添え、紫暗から濃紺へと色を変える空の下を歩き出した。

大丈夫、慰めてなんてやらないから。


「ペース早いんじゃない?」
「そうでもないよ」

いや早いから。
そんな突っ込みを入れようかとも思えど、少しだけと告げていた沙羅のペース配分の無茶苦茶ぶりに溜息が溢れた。
相当参ってるんだろうな。
なんてちびりと酒を含んで横目にその姿を捉える。
適当な居酒屋に腰を落ち着け、騒めきの中で杯を重ねること一時間。
何も口にしないお前に、どれだけ強情なのよと思わなくもない。
俺ならお前を受け入れてやれるのに。
そんな身勝手な気持ちが平静を装い、心を憔悴させる沙羅を認め積もっていく。

「そんなに言いたくないわけ?」

ぽろりと口から溢れたのは、催促に他ならない。
思わず溢れてしまった言葉にはっとする。
誤魔化すように杯に残った酒をくいと煽れば、微かな呟きが鼓膜を揺らした。

「慰める気なんか無いくせに」

え。
思わぬ言葉が飛び出してきたことに視線が絡む。
充血した瞳がお酒のせいか潤み、上気した頬が熱を帯びていることを伝えてきた。
ごくりと生唾を飲む。

「カカシはいつもそう。ずっと遠くで傍観を決め込むだけ。私が誰を好きでも、誰にふられても関係ないって顔して」

呟きながら、お猪口の縁を中指でくるりと摩る。その手付きにぞくりとしながら、まさかお前がそんな風に俺を見ていたのかと吃驚した。

「でも、だからこそ安心してたのかもしれない」
「安心?」
「そう、安心。カカシになら弱みの一つや二つ見せてもいいかなって」

その言葉を聞いた瞬間、急激に酒が体を巡り出す感覚にぐらりと視界が揺れた。
同時に、快楽に似た喜びが指先を駆ける。
目の前に大きな隙が無防備に口を開いた。

あぁ、落ちてきた。

「沙羅、もう出よう」

ゆるりと手首を引けば、くたりと首をもたげた沙羅は言われるがまま席を立つ。
幾らかの酒代を払えば、店主は持ってきなとばかりに小さな飴玉を二つ寄越した。
何で飴玉?とは思いつつ、沙羅の視点がじっと飴玉を捉えているのに気付き素直に掌に収める。
外はもう既に烏の羽のような闇が広がっていた。

「で?慰める気が無いって知ってるのに着いてきたんだ」

まるで挑発するような口振りに、沙羅の唇が珍しく尖る。からかうなと言われているようだった。

「だから言ったじゃない。カカシならいいかなって」
「それって、俺が何も言わない。何もしないと思ってるからじゃないの?」
「……」

闇夜の中、俺の背をふらりとしながらも自力で歩く姿を振り返る。
図星なのか、その唇は罰が悪くなったっとばかりに真一文字に結ばれた。
あてもなく、まるで煙のように夜道を歩いていく。
何処へ行くの。そんな風に聞かないお前は、きっと俺が何処を目指してもいないということに気付いているのだろう。
それでも尚着いてくる。
それは、大きく大きく開いた沙羅の隙だ。
そして、俺が何よりも望んだ縋り付きに他ならない。

お前は今、無意識に俺に縋ってるんだよ。
気付いてる?

「ねぇ、飴ちょうだい」

後ろからふわりと掛かる柔らかな声。
ふと足を止め、そういえば飴玉なんか貰ったなとポケットに仕舞い込んだそれを取り出す。
透明の包装紙に包まれた真っ赤な球体。
まるでビー玉のようだと思い闇夜に透かしてみるが、摘んで見たそれは色を濃くするばかり。
小さな足音がぴたりと横に並べば、飴玉を寄越せと視線が訴えていた。

「……」

見下ろす視線のその先で、あいつばかりを追っていた沙羅の瞳がこちらを見つめている。
結ばれている唇は酒に荒れたのか小さなしわが寄っていた。
慰めてなんてやらないって知ってるのに近付くなんて、本当に馬鹿な奴だと思いながら言葉を落とす。

「……いいよ、あげる」

くしゃりと包装紙を解きぺとっとした飴玉を摘み上げる。
星でも見上げたみたいな顔をして喜ぶ姿に、あーあなんて苦笑が漏れた。

ぱくり。

「あ……」

薄く開いた唇が言葉にならない呟きを落とす。
だから言ったでしょ。
慰めてなんてやらないって。
沙羅の目の前で赤い宝石のような飴玉を口へと放り込む。口内に突如として広がる想像以上の甘さに眉がピクリと動いた。
どこか物欲しそうな目でこちらを見上げる瞳を見下ろせば、征服感に似た何かが熱っぽい吐息を吐かせる。
文句なんて言わせない。
なんで食べちゃうの、なんて抗議の言葉を飛ばそうとする沙羅との距離を詰めてやれば、思わず一歩引かれゆく足。
逃してなんてやれない。

「んっ……!」

しっかりと腰を抱き、あいつの名ばかり口にしていた唇を塞いでやる。
ぬるっと唇を割いて歯列をなぞり、苦しげにもがく沙羅を無視して飴玉を捩じ込んだ。
からころと歯に当たり甘ったるさが移ろっていく。
少しずつ小さくなっていく飴玉と舌とを舐りながら沙羅の中に俺を刻みつけてやろうと躍起になる。
鼻から漏れるくぐもった声すらも喰らってやれば、尻込みしていた舌が恐る恐る絡んできた。
得も言われぬ幸福感に恍惚とすれば、薄っすらと見開かれた瞳の中に獲物を捕らえたような顔をする俺がいた。
そっと離れゆく唇に正真正銘甘ったるい吐息が掛かる。

「……っ、どういうつもり」

静寂の中で、はぁはぁと荒い息遣いだけが辺りに漂う。
真っ直ぐと見上げる瞳がしっかりと俺を捉えていた。
あぁ、そうだ。
お前は気付けばいい。
想うだけではなく、想われる存在でもあるということを。
そして、お前を想う相手が直ぐ近くにいることを。
闇夜に星が散らばり、鋭利なまでの月が白々と輝いていた。

「さぁ、どういうつもりだろうね?」

にっこりと、人好きのする笑みを浮かべてやる。
そう、気付けばいい。
考えればいい。
俺が口付けた意味を、慰めなかった理由を。
そして、頭を俺だけで埋め尽くせばいい。

移ろった甘ったるさの名残を惜しみ、緩やかに微笑んだ。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今作は「モラリストの口移し」の続編になっております。
歪んだ思考を持ちながら、その実人間こんなもの。というカカシさんを書いてみたかったんです;; にしても、えげつない。笑