小説 | ナノ

ラリストの口移し



どうして此処へ来てしまったのか。
そう問うても、答えてくれる人がいるわけもなし。
目の前で顔を歪め苦痛に耐え眠る熊のような男を前に、ただ問いの答えを探すべく視線はその苦しげに上下する胸を見下ろしていた。
事の発端は、朝早くから上忍がわらわらと集まる待機所にその姿が見えないことを気付いた私の一言からはじまった。

「アスマって今日非番?」

隣に座したと思えばいきなり愛読書を開き始める男を横目に問う。その如何わしい本を繰り返し何度読むのかとも思ったが、この男にとっては日々のルーティーンみたいなものになっているのだろう。
今日も木ノ葉は快晴の青に覆われている。
如何わしい本から鳥が羽ばたく大空へと視線を移せば、その気持ち良さに欠伸が一つ。
長閑な光景だ、なんて人知れず思った。
しかしその平穏な空気は、一行一行文字を追う男のあれ、知らなかったの?という声色で打ち砕かれることとなったのだ。

「アスマは今頃病室で寝てるよ」
「え?」

思わぬ展開に追いつけぬ思考を止めた私に、尚も如何わしい本を読み続ける男は走らせる視線を止めることなく言葉を紡いだ。

「任務で重症。俺も状況はよく分からないけど、木ノ葉に帰って来た途端倒れて集中治療室行き」

確か昨日には集中治療室を出たとか言ってたかな。なんてそれこそ呑気に仲間の安否を口にする。
その内容に、ふーんそうか……なんて窓越しに頬杖を付きながら思った。
そりゃそうだ。任務によっては怪我くらいするだろう。
集中治療室行きとはいえ、もうそこからは出られたと言うし、何より五代目様の指揮のもと優秀な医療忍者たちが木ノ葉にはいる。
何も心配することはない。
非番を療養に当てなくてはいけないのが可哀相だとは思うが。それだけだ。
私たちはいつも通り指示された任務を遂行するだけ。
そう、思っていた。

なのに。

気付けば私の前には、苦しそうに顔を歪め額に薄っすらと汗をかくアスマが横たわっていた。
待機所で一日中任務を待ち惚け。本を読んでいた男が任務が来たと立ち上がり出て行ったかと思えば、入れ替わりのように人が入ってくる。
その光景を眺めながら、やけに今日は一日が長いと思っていた。
そして規定時間を過ぎ解散の指示を受けると、じっとしていた肩が石のように凝っていることに気付き大きく背伸びを一つ。
帰ったら缶ビールにおつまみで晩酌かな。そんな風に、暮れていく紅の空を見上げながら帰路に着こうとしていたのだ。
それなのに。
ふと差し掛かった十字路。
左に曲がれば家があり、右に曲がれば……
まるで影を縫い止められたように止まる足が、左に曲がることを拒絶しているかのようだった。
右の道へと視線をやる。
本当は視線をやった時点で歩き出す道など決まっていたのかもしれない。
しかし私は一歩を躊躇った。
アスマは大丈夫だと聞いたし、私がお見舞いに行ったところで怪我が治るわけでもない。それこそ要らない気を使わせるかもしれないのだ。
回復した時にでも冗談めかして、死んだかと思ったよーとか何とか言って背中でも叩けばいい。
そう、それでいい。
それが私とアスマの距離だ。
でも。

「あー、もう」

でもとか何故とかややこしい。
そんなに心配ならその目で見てくればいいじゃないか。そんな声が胸の内から聞こえた気がした。
少しばかり顔を見て、元気そうだねさようならで事は済むのだ。
そうだそうだ。
何を肯定して何を拒絶しているのか考えることが面倒になった私は、がしがしと頭を掻き予定は未定を忠実に決行し来たる十字路を右へと踏み出したのである。

「失礼します……」

ノック数回に返事が無いにも関わらずそろそろと扉を開け入っていく行為は、なかなかに勇気のいるものだった。
静まり返る病室の中。
よく西日の当たる窓際に据えられたベッドの上で、アスマは差し込む紅の日差しに包まれて寝ていた。そろそろとまるで泥棒にでも入るような足取りで近付く。
剥き出しになった腕から伸びるチューブが痛々しい。ぽたりぽたりと落ちる点滴の量が、つい先程までここに医療忍者がいたことを思わせた。
備え付けられていた椅子にそっと腰を下ろす。

「ぼろぼろね」

腕や首に巻かれた包帯やギプスが、アスマの様態が芳しくないことを伝えてくる。
点滴がぽたりぽたりと落ちる様に言葉を零せば、苦し気に上下していた胸が一つ大きく陥没した。代わりに吐き出される大きな吐息。
思わぬ反応にびくりと肩を揺らした私は、思わずアスマの顔を覗き込んだ。

「アスマ?」
「……っ」

問い掛けに返る微かな反応。まるで悪夢にでもうなされているような表情に胸が苦しくなる。どうしてやることも出来ない状態に、浅い息を繰り返す熊のような男の痛みを代わってあげられたらとすら思った。
こんなにも穏やかな時間が流れているのに、アスマだけがまるで戦地で今なお戦っている忍の顔をしている。
楽にしてあげたい。
そう素直に湧き上がる感情のまま痛々しいチューブの伸びた手に触れる。想像よりも温かな体温を感じほっと胸を撫で下ろした。

「……みっ」
「?」

すると、まるで触れられた小さな刺激にでも起こされたのか、アスマの胸が再び大きく陥没した。ふーっと吐き出される息に聴覚が敏感になっていたのか、その吐息の中に混じる微かな言葉ならざる声を聞き取った私は、思わずずいと耳をアスマの口元へと持っていく。
荒っぽい呼吸が、耳をなぞった。

「!」

ぞくりと背中を這い上がる何かに思わず身を引く。襲ってきた感覚にたじろぎ思わず耳に手を当てた。
びっくりした。なんて言葉にする前に、まさかアスマからこんな感覚を与えられるとは思ってもいなかったせいで目を丸くする。
胸の皮を押しやって出てきそうな心臓の鼓動が体を巡った。
ふるふると小さくかぶりを振って背を駆け上がる感覚を散らせば、アスマが尚もうわ言のように吐き出す言葉ならざる声を耳が拾う。

「み、みず……」
「水?」

乞われるままにきょろきょろと辺りを見回す。すると、サイドテーブルには小さな水差しが用意されていた。
ちょっと待ってと言わんばかりに水差しを手に取り、そっとアスマの口元に宛がってやる。
けれど相手は勿論横たわったままうわ言のように水と繰り返すだけ。アスマ、と数度声を掛ければ微かにその双眸が開かれはしたものの、朦朧としているのか夢と現実の区別はついていないようだった。
差し込む紅の西日がゆらゆらと揺れている。静寂の中で聞こえるはずの無い、点滴がぽたりと落ちる音が鼓膜に響けば、耳をあのぞわりとした感覚が襲ってきた。
水と繰り返し吐き出される、かさついた唇を見やる。
荒く、吸っては吐いてを繰り返し苦痛に耐えるばかりの呼吸。
まるで紅の日差しを吸い込み安らぎを求めるかのような姿に思わず腰を浮かす。
気付いた時には、水差しを傾け少しばかり口に含んだものを、そのかさついた唇へと押し当てていた。

「……っ」

上手く飲ませきれなかった水が唇の端からアスマの顎を伝って首へと流れ落ちていく。
思ったよりも厚い唇をしているんだなと思考の端で考えながら、離したその口で浅い呼吸を繰り返した。
しっとりと水気を帯びたアスマの唇を眺め、すとんと椅子に腰を落ち着ける。
まるで蜃気楼を見ているかのように脳内がゆらゆらと揺れていた。アスマの濡れそぼった唇が、今まさに私が口付けていたことを証明している。その光景を呆然と眺めていれば、まるで魂を抜かれでもしたみたいに体から力が抜け、どっと疲れが襲ってくるのを感じた。

がらり。

「!」

突如として開いた病室の扉。
思わず振り向けば、そこには今私が口移しという名で口付けたアスマの恋人である紅が立っていた。
どくりと心臓が跳ねる。
まさか、見られた?
そんなはずはないのに、まるで長い道のりを駆けて来たように胸が鼓動を打ち始める。病室の静寂な空気が早馬で駆けているような心音のリズムと相反して落ち着かなくさせた。

「沙羅、いたの」
「えぇ」

紅の腕には鮮やか花束が抱えられていた。その姿にはっとした私は、水差しの置かれていたサイドテーブルに視線をやる。そこにはコップや着替え、更には花瓶に活けられた花がアスマを見守るように飾られていた。
もしかしたら。いや、きっとこれらの物は全て紅が用意したものなのだろう。
アスマのために。
そう思った瞬間、血の気がさーっと引いていくのを感じた。
私が今していた行為の名が、二人の関係にひびを入れるには十分すぎるものだと理解したからだ。

「アスマは?」

平然と近寄って来る紅に、ありとあらゆる冷静さを掻き集め普通を心得る。一つ息を吐き、あとは「まだ寝てるよ」そう呟くだけだった。
見られていたわけではない。
そう自分に言い聞かせるようにして紅と向き合う。

「まだ「起きてる」
「!」

思わぬ声が割って入ったことにびくりと肩が跳ねた。背後から発せられるまさかの声に心臓が縮み上がる。
嘘でしょ。そんな声が口内で漏れた。
恐る恐る再びアスマへと視線をやれば、おぼろげだった瞳の焦点がしっかりと定まっていた。
黒曜石のような瞳とかち合う。
その思わぬ力強さに思わずごくりと息を飲んだ。

この瞳は、何……。
私のしたことを知っているの……?

「アスマ、大丈夫?」
「あぁ」

ベッドに近付く紅を見留めたのか、アスマの視線が移ろっていく。
そう、気付かれているはずはない。
アスマはうなされて意識朦朧としていたのだから。
落ち着け落ち着けと心に言い聞かせながら、横では紅がアスマのためにと花瓶の花を豪華に盛っていた。
二人の何気ない会話が耳をつく。
着替えが何処にあるか分からなくて困った。コップはいつものやつを持って来てしまった。
そんな立ち入れぬ会話に心が痛む資格など無いはずなのに、どうしてか心が重みに耐えかね折れる木のように悲鳴を上げる。
見られているはずはない。気付かれているはずもない。
そんな緊張と焦りと胸の痛みに、とうとう耐えられなくなった私は早々に言葉を切り出した。

「じゃぁ、私行くね」
「もう行くの?」
「うん、明日早いし」

きちんと笑顔を作れているだろうか。そんなことを思いながら椅子を鳴らして立ち上がる。

「来てくれてありがとな」
「いいえ、それじゃあ」

なるべく顔を見ないようにして笑顔を保つ私は、きっと何も知らぬアスマからしてみたら不思議な光景なのだろう。
それでいい。
全てを知っているのは、私だけでいいのだ。
お大事にというありていの言葉を最後に、私はベッドから遠ざかる。
病室の扉を開けて最後に見た景色。
夕日の照らす穏やかなその空間には、紅が良く似合うとそう思った。
きっと私では役不足だったに違いない。呼ばれもしない役者がいたところで意味はないのだ。
あの行為も、言わなければ誰も知らない。

はずなのだ。

扉が閉まる瞬間。
どうして視線が合うのだろうと不思議に思った。
もう必要のない私に向けられる瞳など無いと思ったからだ。

それなのに。
あの息を飲むような黒曜石の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
どうして。
答えは、直ぐに返ってきた。

「沙羅、ありがとう」
「!」

全てを察するには、余りある言葉だった。
あの瞳は、私の犯した行為に気付いていたのだ。
ぱたんと閉じられた扉の前で立ち尽くす。
気付いていた。知られていた。
その犯した行為に対する罪悪感で飽和しきった脳がパンクを訴える。
どうして、何故。いつから。
そんな疑問が泡のように湧き出すが、それよりも愛する人がいる人間にしてはいけない行為をしたことに対する罪悪感が喉元をせり上がってきた。
夕日に侵食される廊下。迫り来る不快感を振り切るために、逃げるようにその場を去った。



「なーに泣いてんのよ」
「カカシ……」

私の足を止める長閑な声。
どうしてここにいるのよ、そんな文句も柔和な笑顔の前では役に立つわけもなし。
ただ穏やかで静かな声が、私に現実を突きつけていた。

「夕日にでも泣かされた?」

紅い、夕日が痛かった。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回は名目上アスマさんの誕生日夢です。ですが、お気付きの方も多いと思われますがカカシ先生の登場によりアスマさんの夢小説っぽくなくなってしまいました;;アスマさんごめんなさい。と言いつつ、今作は続編の予定がありますので楽しみしていていただければと思います。