小説 | ナノ

れかにもあらず、
現ともおぼえで



どうしてこんなにも幸せなのだろうか。
ふと考えて、それが肌寒い11月のことだからだと気付いたのは、目の前で彼女と鍋を突いている時のことだった。

「何かあったの?」

菜っ葉にお肉に豆腐にきのこ。バランス良く盛られた小鉢を差し出す姿は、付き合いはじめてから良く目にする光景だった。
短く切り揃えられた髪が小鉢を差し出すたびにさらりと揺れる。それをなんとはなしにぼーっと見つめる瞬間が癒しの時でもあり、不思議な瞬間でもあった。
彼女が俺の部屋にいて、一緒に鍋を突いている。
その光景は半年前には想像もしていなかったものだ。付き合いはじめても尚、目の前に広がる景色が未だに現実味を帯びて実感できていないのは、実のところ彼女は俺にとって手を伸ばしても良いのか分からない葡萄の果実だったからという裏話があることは秘密だ。
熟れた葡萄を見上げながら、ただ傍観を決め込む姿をゲンマが見かねたのか、ニヤリとしたり顔をして一つの助言を寄越したのは記憶に新しい。
所謂”葡萄は甘い”というやつだ。
カカシさんのお気に入り。なんて言われていた彼女に手を伸ばすことを躊躇っていた俺に、ゲンマはその果実がいかに熟れ食べ時であるかを説いた。
葡萄は甘いのか。そんな考えれば当たり前のことを噛み締める。
勿論、その甘美な響きに逆らう術など無い俺は、ぼとりと落ち爆ぜた葡萄の果実に迷いなく食らいついた。眩暈がするほどの糖度に背筋が甘ったるく疼いたのを覚えている。
そんな感覚を彼女も共有したのか、少し伏せられた睫毛から覗く瞳には微かな恥じらいが伺えた。
”葡萄は甘い”
そんな確信的一言に導かれ、気付けば彼女との距離はみるみると縮まっていた。
一緒に食事をしないかという誘い文句にはじまり、次第にそれは食事の範疇を超えデートと呼ばれるものに変化した。
そろりと了承無く繋いだ手を柔く握り返されるとなんとも面映い気分になり、はじめて呼び捨てにした名は正しく熟れた果実のように口内を高純度の糖度で満たした。
付き合って欲しいなどという今更のような台詞を告げた時の、彼女のあのなんとも言えない表情も忘れ難い。
言葉にするのであれば、私たちもう付き合ってるんじゃなかったの?だ。
ぽかんと口を開け告白を受ける姿に、そうだ彼女はこういうどこか抜けた部分もあったのだと思い出す。
告白はまだしていなかったと馬鹿正直に伝えれば、二人してけらけらと紅葉が舞い落ちるように笑い合った。
そして片手で足りるほどのめでたさの欠片を集め、自然とお互いの時間を共有するようになったのだ。
その頃からだろうか。彼女がこうして俺の部屋の台所に立つようになったのは。

「何でもないよ」

さらりと揺れる髪に誘われ思い出が走馬灯のように流れていく。その温かな記憶に僅かに口角が緩んでいたのだろう。彼女は俺の拙い表情の変化も見逃さない。
良く見てるんだな、と他人ごとのように思ったのは、この部屋ではじめて喧嘩らしい喧嘩をした時だった。

『アオバはいつも機嫌が悪くなると直ぐ左の眉を上げるよね』
『そういう沙羅も機嫌が悪いと直ぐ眉間にしわを寄せてるな』

喧嘩の内容なんて半日もあれば大体忘れる。代わりにネタにされるのはどうでもいい内容で、ただただお互いが謝るタイミングを逃しているだけの小さな悪口大会になるのだ。
洗濯物はちゃんと籠に入れろ。飲み物を出しっ放しにするな。なんて数え出したらきりが無い。
そんな何で喧嘩してたかも忘れた時でも、なんとなく物事を遠くから見る癖のあった俺はふと我に返り気付いたのである。
彼女は俺のことを良く見ているのだな、と。
確かに人間悪いところを探したらきりが無いというのが現実だ。実際、俺たちの小さな悪口大会も底をつくのに時間が掛かったりもする。
けれど、底をついた後に口から出てくるのはどうしてかいつもお互いに感謝の言葉であり、お互いの良いところ自慢になるのだ。

『沙羅にはいつも感謝してるんだ。疲れた時に笑顔で迎えてくれたり、美味しいご飯も作ってくれる』
『わ、私だってアオバに感謝してるんだよ!いつもくだらない愚痴を聞いてくれたり、ご飯も美味しいって言って食べてくれるし』
『沙羅の笑顔を見ると頑張ろうと思える』
『私も、アオバが笑ってくれると元気が出る』

つらつらと、まるで暗唱でもさせられているのではと思うぐらいに、俺たちの口からはお互いの良いところが溢れていく。それはまるで流るる水流のように。
すると、暫くそんなことをしていれば喧嘩していたことすら忘れているのだ。
二人して見事に雨降って地固まるを再現すれば、また可笑しくなり告白した日のようにけらけらと笑いの紅葉がひらひらと落ちていく。
悪いところを言うのは簡単だ。
けれど、良いところを見つけられるのは相手をきちんと見ている証拠。俺が彼女を見ていたように、彼女も俺のことを良く見ていたのだ。

「思い出し笑いでしょ?」

まるで考えていることなどお見通しとでも言わんばかりの顔で笑む彼女は、自分に寄った小鉢を手に取った。

「やっぱり沙羅は俺のこと良く見てるんだな」
「!」

唐突に告げた言葉に目を見開いた彼女は、想像通り湯気に顔を隠すように、よそった小鉢からぱくぱくと菜っ葉やお肉を掴んでは口に入れていた。
これも、彼女の良いところである。

「冷めちゃうから、早く食べよ」

差し出された手に空の小鉢を手渡す。
そこにまたてきぱきと、菜っ葉にお肉に豆腐にきのこが盛られていく。
彼女とこうして過ごす前なら、きっと一人で鍋なんてしなかっただろう。
お腹が空けば適当に居酒屋や屋台へふらりと足を運ぶだけ。この部屋も寝るためだけにあるようなものだった。
それが今は俺じゃない人間がいて、使っていなかった台所が忙しなく使われている。一日で数度しか開かれない冷蔵庫も、ぱたぱたと開いては閉じられ、中には色とりどりの野菜やお肉に卵なんかが詰まっているのだ。
コップや食器もどっちが俺のだ?と疑問に思うようになり、歯ブラシが二本あったりするのは当初良い意味できみが悪かった。
一人でいた空間に他人がいる不思議や、一人でやっていたことを二人で出来ることの喜びに感慨深くなる。
窓の外を見れば、外気と内気の差に硝子が曇っていた。
そうか、こんなにも温かな空間にいたのだということを、俺はそんな自然現象から教えられた。
そして、そんな温かな空間を作ってくれている存在が目の前にいることにどうしようもない愛しさで溜息が漏れる。

「悩みごと?」

すかさず顔を覗き込むような仕草に、心配されているのだと心が部屋のように温かくなっていく。
あー、どうしてこんなにも幸せなのだろうか。
肌寒い11月だから?
それもあるかもしれない。
でも、本当はどうしてだか気付くよりも前に知っていたのだ。

愛しい彼女がいるからだと。

「いいや。ただ、幸せだなと思って」

呟けば、彼女はまた目を見開き湯気に顔を隠してぱくぱくと小鉢を突くのだ。
その幸せな光景が現実であるようにと願いながら、俺は湯気の立つ小鉢を突いた。

「あちっ」


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回はアオバさんで短編の方を書かせていただきました。これは2th anniversaryの「狐の狙った葡萄は甘い」の続編という形で読むことも出来るようになっております。アオバさんが葡萄の甘さに気付いたその後という展開を想像しながら、二人の温かな時間を描いてみました。