小説 | ナノ

ってきたもの



静寂と知識を求める者たちの情熱が共存するこの場所を、はたけカカシは兎角気に入っていた。 ぺらり、ぺらりと捲られていく書物の音に、少しかび臭い気もする書棚の香り。 難しい顔をして文字を追う若者たちの顔。 全てがはたけカカシには心地の良いものであり、この場所に来る瞬間だけは火影という立場になっても得られる知識がまだ山のようにあるのだと教えてくれた。

「火影様?」

ふと後ろから声がかかる。今回ばかりはきちんと仕事を済ませてきたというに、いつもの癖か、びくりと肩を揺らした。

「なぁんだ、沙羅じゃないの」

やけにほっとした声を漏らせば、声をかけた張本人は何だとばかりに小首を傾げた。彼女ならば仕事に戻れなんて野暮なことは言わないだろうと安心する。
なにせ彼女は同じ穴の狢だ。

「なぁんだ、とはなんですか」
「いやいや、見つかったのが沙羅で良かったなーって話」

本の頁が捲られる音のようにくすくすと互いに微笑み合う。 実はこの場所で彼女に会うのは一度や二度ではないのだ。だからこそ、彼女が火影である俺に向かって仕事に戻れなんて言わないことを知っている。 読書という共通の趣味を持つもの同士、仕事と趣味、どちらに量りが傾くかなど、聞くまでもない。

「今日はどんな本を読んでるの?」

大切そうに抱えられている本を指差し尋ねれば、彼女は花が咲いたように顔を綻ばせた。

「これです」

差し出されたのは随分凝った装丁が施された一冊の本。長い間人々に読まれてきたのだろうことが窺えるほどに角はずいぶんと丸くなり、紙は日に焼けていた。

「これって……」

そう呟けば、彼女はぱあっと瞳を煌めかせまるで初恋でも語るように頬を染め、口を開いたのだ。

「はい、以前火影様が面白いと教えてくださったものです」

目の前にずいと本が寄せられる。見れば、確かに。見知ったタイトルが表紙を飾っていた。いつの間にこんなに草臥れてしまったのだろう。昔はもっと、綺麗だったのに。

「面白いよね、それ」

もう遠い昔になりつつある本の記憶を辿る。物語の内容も結末も、正直明確には覚えていなかった。ただ、この本が読み終わった俺に与えた感情は紛れもない感動と興奮。数多くある本を読み漁れば物語の記憶は明瞭ではなくなっていくが、面白かったという記憶だけは決して風化したりはしなかった。
とはいえ、実際何が面白かったとか、どこが心に刺さっただとか、そういった類の話をするにはずいぶんと距離を置きすぎてしまっていた。無難に出したにしても平凡すぎる回答であるが、そんな些細なことを気にするでもなく、彼女は笑う。

「えぇ、とても」

その姿にふと俺は、自分がどこを面白く感じて心に刺さっていたのだろうかというのが気になり出した。主人公が恋に落ちる時だったか、唯一無二の友を得た時だったか。はたまた夢破れた末に愛を得た時だったか。
考えれば考えるほど深い森に足を踏み込んでいくような気分になる。
だから彼女の発した不意の問いに、俺はぴくりと片眉を上げるはめになったのだ。

「火影様はどこが好きですか?」
「んー」

どこだと思う? なんてクイズのような回答をするのは、自分が本の内容を覚えていないからにほかならないが、勧めた手前それを告げるのは憚られた。
しかし彼女はそんな俺の後ろめたい気持ちなど知る由もなく、「どこだろう……」と手にしていた本をゆっくりと開いた。
ぺらぺらと、指から物語たちが零れ落ちていく。
きっとそこには、思い出せない主人公の感動的な人生が詰まっているのだろう。
そろり。そっと近付き、盗み見るように本を覗き込む。
綺麗に切り揃えられた爪と、薄い爪先の皮が順々に流れていく物語を優しい手付きで追っていた。

「あ」

柳のような指を辿って飛び込んできた文章に、ふと声が漏れた。反射のように彼女の指もぴたりと動きを止める。視界はこの物語で唯一覚えていると言ってもいい言葉を見留めていた。
日に焼けたページの上に踊るその文字を、彼女は空気に溶かすように呟いたのだ。

「お前のことは絶対、俺が守るから」

主人公の台詞をなぞった小さな呟きは、みるみると本棚に吸い込まれていく。その不思議な感覚に、俺は幼い頃の記憶を呼び起こしていた。
リンをこの手で殺め、オビトを間違った道に走らせてしまった事実。
『お前のことは絶対、俺が守るから』
この一節は、主人公の清い愚直さとは別に、自身の過去を重ねて償いを請う台詞として心に残していた。
第四次忍界大戦を経た今でも、やはり自分を許すことは出来ない。
きっとこの先も、死ぬまで。
物語に出てくる主人公のように守れたものなど、きっと俺には無いのかもしれない。そんな卑屈な感傷をする度に、まだまだ火影なんて器ではないと悟るのだ。

「この主人公、どこか火影様に似てるんですよね」
「……」

だからこそ、彼女がそっと零した言葉を耳が拾うことを躊躇う。ぺらぺらと再び物語が指から零れ落ちていくのを、ただ見つめていた。

「以前、私と同じ班で任務をした時のことを覚えていますか?」

くるり。そんな音がしそうなほどの瞳が、ぱちぱちと瞬きを数度してこちらを伺う。その圧力に零れ落ちていた物語をただ見つめていた瞳を驚きに見開いた。

「あぁ……」

ぼんやりとした返事をしたものの、実際覚えているはずなどない。どれだけの任務をこなしてきたか分からないし、班編成もばらばらだ。
勿論、彼女と任務をしたことを覚えていないわけではないが、どの任務を指しているのかは見当が付かなかった。
それでも、俺の反応に覚えていないのだろうことを何となく察したのか、彼女はくすりと笑んで言葉を続けたのだ。
まるで、どの任務かなんて覚えていなくても構わない。言いたいことは他にあると言わんばかりに。

「その時、火影様が言ったんです。俺の仲間は、絶対殺させやしないって」
「!」

目の前をちかちかと星が駆けて抜けていく。ごくりと鳴らした喉は、確かに言葉にしたことのある記憶を飲み込んでいた。

「ナルト君も言ってましたよ。昔、波の国で火影様がそう言って守ってくれたって。その姿が凄くカッコ良かったって」

何故か、じわりと鼻に込み上げてくるものを感じた。熱くなる目頭と微かに視界が潤む現象に、あー歳かな、と一人心の中で苦笑する。
胸がきゅっと締まるのも、今はもう十分に大人になってしまった教え子たちの顔が走馬灯のように流れていくのも、全ては長くもあっと言う間の時を経たから。

「火影様は、私だけじゃない。きっと、沢山のものを守ってきたんです。この主人公のように」

ぱたり。
優しく閉じられた本が、彼女の胸でぎゅっと抱き締められる。それを目に、俺は静かに瞳を閉じた。
オビトやリン、守れなかったものも確かに数多い。後悔を振り切ったと言われれば嘘になる。懺悔に声を枯らしたくなる時もあれば、膝を折ってしまいたい時もある。
それでも、俺には少しでも守れたものがあったのだと、彼女とナルト、忘れてしまった物語の主人公が教えてくれた。
もう間違うことのないように、俺は仲間を守ると決めたのだ。
そして、守りたいものを守るために火影にもなった。
守ったものがあるのだと、彼女のように信じてくれる人のために。

「火影様……?」

どこか遠慮がちな声音がこちらを窺う。
導かれるように開けた瞳は、まるで違う世界を俺に見せていた。
胸からすっと何かが落ちる感覚と、少しばかりかび臭いと思っていた空気が新鮮に感じられる不思議。
ぺらり、ぺらりと遠くから聞こえてくる書物の捲られる音。
その平穏な気配に、俺がこれからも守っていかなければいけない火の国木ノ葉隠れの里が此処にあることを感じる。

「ねぇ」
「?」

それでも、とりあえずは。

「その本、読み終わったら貸してくれる?」

忘れてしまった主人公の物語を見届けよう。
もう二度と、忘れてしまわないように。
そして、守ってきたことを疑わないように。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回は、急遽カカシ先生誕生日記念短編として、「守ってきたもの」を掲載させていただきました。
カカシ先生、お誕生日おめでとうございます。