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りという名の鬼に



この関係をいつまで?そう問うたことは一度もない。

「んっ」

くぐもった甘ったるい己の声に辟易とする。
割れ物を扱う様に、されど粘着質に。男特有の骨張った、歳のせいか少しシワの多い手が生っ白い団子のようにつるりとした肌を這っていく。
ぴんと張る足首から太ももへ。鍛えているとはいえ女特有の柔らかさを保ったくびれから乳房へ。
ねっとりと。されど早急なその行為は、シカクが戦地で昂ぶってしまった熱を放出し抑え込む唯一の手段だった。
不器用な人。
そう思いはすれど、沙羅は畳の目に吸い込まれていく己の蜜のような声に耳を澄ませていたため毎度口にすることは無かった。
きっと言ったところで一蹴されてしまうのが分かっていたからなのだろう。

「シカクさんっ……もう」
「っ……」

ぐったりと倒れこむ身体が沙羅に抱き留められる。
激しく上下していた乳房がゆっくりと落ち着きを取り戻していくのを感じることが、毎度奈良シカクの任務の締めと言っても過言ではなかった。

「悪い」

そう腹の上で幾度となく呟かれた言葉の意味をその都度分かっていると示すことは、沙羅にとって案外難しいものだった。
最初は「気にしないで下さい」とか、そんなことを言わせる隙も無い程に行為に没頭するとか。色々手段を講じてはみたが、何をしてもシカクが「悪い」と呟くことに変わりはなかったので、早々に策を講じることを諦めたのだ。
シカクが口にする悪いという言葉が、自分に向けられたものでないことを沙羅は十二分に気付いていた。
優しく、優しく。それこそ赤子をあやす時のように艶やかな黒髪を撫で付ける。それが沙羅の出した答えだった。
惚れた弱みなんて陳腐な言葉で片付けることは出来ないが、それでも惚れたことによって沙羅の最大の弱点は奈良シカクになった。
だからシカクと戦地を共に駆け抜けた後のどうしようもない失望と、無理矢理に昂らせた本能の行き場が無い辛さを沙羅は誰よりも理解出来ると思っていたのだ。
何も言葉にしないシカクがちびりちびりと酒を口に含む姿を見つめるたびに、助けてあげたい。そう母性本能のようなものが鳩尾に火を灯した。
シカクが口に含んだ酒を仄かに味わうかの如く唇を合わせる。
接吻なんて言葉が似合うようなそれを、次の瞬間にはシカクが飢えた獣のように貪っていた。
捕食者は腹を満たされなければ昂りはおさまらない。それは自然の摂理だ。
沙羅は己の身を差し出すことを厭わなかったし、シカクも貪ることを止めなかった。それ程までに人の生き死にの狭間にいる忍という生き物は脆弱だったのだ。
敵を殺すための気力を持ち続けなければいけない。それは忍でい続ければい続けるほどに麻痺していく感覚の一つであることを沙羅は理解していた。
同時に、気力は無理矢理にでも自身を昂らせることでしか保ち続けられないことも理解していた。
けれど過度にいきすぎた昂りは最早獣の欲と同義。戦地から帰る瞬間だけは、沙羅たち忍は忍という人ではなく、忍の皮を被った獣なのだ。
忍たちは獣になった己の欲を解放するためにあらゆる手段を用いる。酒に頼る者もいれば、品行方正に修行に励む者。寝て時を稼ぐ者。多くの獣たちが人になろうと足掻くのだ。
沙羅とシカクはその方法がまぐわうことだった。それだけのこと。
互いの昂りを、戦地で無数に空けられた心の穴を埋める作業。それが接吻であり、肌を這う掌であり、絡まる足なのだ。
不思議なことは何一つ無い。食物連鎖が自然の摂理であるように、人が当たり前のように空腹を訴えるように、シカクと沙羅の行為は酷く歪んだ正当性の上に成り立っていた。

しかし、この歪んだ正当性にも脆弱さが存在していていることを、二人は関係が始まった当初から気付いていた。
それはシカクが発する「悪い」という言葉に全て集約することが出来る。
奈良シカクの発するその言葉は、懺悔にも祈りにも似たまるで硝子の砕け散った複雑な破片で構成されていたのだ。

「シカクさん……」

ぼんやりと起き上がったシカクの背を、これまたぼんやりと空虚な瞳が見つめる。
向かい合ってなどいないのに、沙羅はこの光景を合わせ鏡のようだと毎度思っていた。無数に傷痕の残る猫背気味のシカクの背が纏う孤独や畏怖。形容し難い絶望感が己の姿と重なって見えるのだ。
そしてそれを何故かと思考することは、とても愚かしいことに思えた。
沙羅やシカクにとって、行為に及んだ時点で何故を思考することに意味など無いと知っていたからだ。
けれど、いつもたった一言。シカクの「悪い」だけが二人にその何故を思考させた。
シカクの背を壁にしてライターが微かな音を立て、次いでゆらりと煙が立ち昇る。
いつもの光景に、沙羅は夢物語でも語り出すかのように言葉を発した。

「……やめにしませんか。もう」

シカクの背がぴくりと反応を示す。そんな気など毛頭無い。寧ろやめることなど不可能に近い依存的関係を互いに理解しているからか、是とも非とも取れぬ無言だけが狭苦しい室内を支配した。
それは是とも非とも言えないが、関係の有無を先延ばしにするということだけはまごう事なき事実として二人の中に共有された。
利害の一致。
そう言葉にするのは簡単だが、その言葉が内包しているものは言葉ほど軽いものではなかった。
昂りを鎮めるためだけ。それならば二人の関係はこんなにも複雑且つ辺鄙なものになりはしなかったのだろう。
しかし、その複雑且つ辺鄙な状態という底無し沼に二人は揃って足を踏み入れたのだ。歪んだ正当性を盾にして。
だからこそ、シカクの発する「悪い」には言葉を超えた懺悔にも祈りにも似た色が宿るのだ。
沙羅はいつもただ一人、それを一糸纏わぬ姿で受け止める。それすら歪んでいると理解しながら。

「明日は、どちらへ行かれるんですか」

煙だけが二人の行く先を知っているかのように漂い、消えていく。その姿に、沙羅は自分たちの関係もこうして狭苦しい部屋を漂ってあっという間に霧消するのだろうと思った。

「砂に、ちょっとな」

ちょっと、なんていう任務がシカクレベルの忍に来るはずがないことは自明の理。ちょっとと言葉を濁したところで、最悪両手を血に染めるのだ。仕方ないと言うには、シカクは社会の規範に囚われ過ぎていた。
けれど、それは忍なればこそ。なんていう根性論を持ち出すのも忍なのだ。
忍には、守らなくてはならないものが両の手には収まらないほどに山とある。
それを守り通すには、鬼にも邪にも頭を垂れて力を借りるしかないのだ。
昂りという名の鬼に。

「それじゃあ、また。此処で」
「あぁ」

それは歪んだ正当性の盾を借りた夜伽の約束に他ならない。
けれど、必要悪だという互いの認識が行為に拍車をかけるのだ。

昂りという名の鬼に縋った代償として。
二人はその贖罪とも祈りとも取れる、不思議な響きを帯びた言葉を聞き続けるのだ。

「悪い」

傷痕絶えぬ背を丸め、その姿に己を見る、鬼を宥めるかの如き一糸纏わぬ姿で。