小説 | ナノ

えたい幼子



寒い、怠い、痛い。
その三拍子が揃い、おまけに色気もくそもない盛大なくしゃみを一発。
人はそれを、

「風邪だろ」

という。

「あー言わないでー認めたくないー」

耳を塞いで抵抗を試みるも、上げた腕すら倦怠感と共に着衣が擦れて痛みを感じる。
その痛みに顔を顰めて眉間に皺を寄せていると、何を子供みたいに意地を張っているのだとゲンマは溜息を吐きながらズカズカト歩み寄って来た。

「さっさと寝てろ」

そう言われ、前後不覚となった茹蛸脳みその私はベッドへと沈められる。
安月給の忍でも買える平たい寝具は体への痛みを伴ったが、正直重力に逆らっているよりは幾分とましだった。

「というかお前の家何にもねーのな」

ゲンマがシンプルな二段式の冷蔵庫をパタンパタンと開けては閉めていく。すっからかんの中を見て再びの溜息が零れたことは間違いない。
しかし、無いものは仕方がないではないか。というのが私の持論である。
幼い頃から料理洗濯掃除家事全般、満足に出来たことはない。料理をさせれば形にはなるももの、味覚を破壊していくような珍味が出来上がることもざらだ。忍として自炊出来なければ話にならないというのを聞くが、現に料理が出来なくても忍はやっていけていた。
それもこれも今現在何故か我が家の冷蔵庫を物色していたゲンマのおかげである。
私とゲンマは世にいうところの幼馴染というやつだ。
幼い頃からがさつだった私とは違って、ゲンマは卒なく何でも熟せた。おかげで周囲からは「沙羅ちゃんとゲンマ君は逆だったら良かったのにね」と言われ続けてきたのだ。
勿論逆だったらの示すものは“性別”である。それだけゲンマは私とは違って何でも出来たのだ。
洗濯をさせれば真っ白なふわふわのタオルが太陽の香りをさせて取り込まれるし、料理をさせれば頬がとろけるような美味の数々がテーブルに並んだ。
それを側で見続けてきた私は、本当に性別が逆だったら良かったのに。と真剣に考えたことも少なくない。
けれど、そんなことを考えても性別がある日突然逆転するわけでもなし。
下忍になって親元を離れ生活するようになったと同時に、私は私以外の誰にもなることは出来ないと悟り、私らしい生活を心がけて来たのだ。
勿論片付けが苦手だから掃除が嫌だからと部屋を汚くしているのはそれこそ嫌だったので、ある程度は出来るようになった。
しかし料理だけは、どうしても上手くならなかったのである。
否、上手くなる必要が無かったのだ。
ゲンマのおかげで。

「だってゲンマみたいに料理しないし。作ってくれる時は何か材料買ってきてくれるじゃん」
「だからって一人暮らしの女の冷蔵庫が空ってのはねーだろ」

ベッドに伏した私を見下ろす瞳は相変わらず呆れの色を滲ませている。しかしそれに対抗出来る力は残っていなかった。重力に従い細々と言葉を発するので精一杯。
ペタペタと部屋を歩く足音が数歩。ドサッと体が揺れたと思えばベッドの端に腰掛けるゲンマが相も変わらずの瞳でこちらを見下ろしていた。

「買い物行ってくるわ」
「……茶粥。梅干しに昆布」
「……」

ゲンマが作ってくれるのをいいことに、食べたいものを作って下さい。作ってくれるよね。とばかりに口から零す。盛大な溜息を吐きながらも作ってくれると知っているからだ。

「了解」

ギシッとベッドのスプリングが軋んだ音と共にまたぺたぺたと部屋を歩く他人の足音。
滅多に耳を澄ませて聞かないその足音が、とても心地良く感じた。
結局、私はゲンマに甘えているのだ。
料理が上手くならないのも、ゲンマが時々家に来て作ってくれるから。そして私がゲンマの家に押しかけ絶品料理の数々を堪能させてもらっているから。
私は本能的に悟っていたのかもしれない。
もし料理が人並みに出来るようになれば、この関係が壊れてしまうだろうことを。
だから私はいつまで経っても包丁を握ろうとせず、ゲンマの優しさに甘えてきたのだ。
バタンと自分が閉める時よりも少々荒っぽい勢いで閉まった玄関の音を遠くに聞きながら、私は海の底に吸い込まれるようにして深い眠りに落ちていた。

バタン

ペタペタ

ドサッ

ジャー

トントントン

人の生活音。ベッドに縫い付けられたように動かない体が、それでも覚醒しようと懸命に力を入れる。しかしどうにもこうにも言うことの聞かない体に起き上がることを諦めた私は、そっと瞳を開け音のする方へと向いた。

「……」

何やら真剣な表情で少し低いだろうシンクを前に、ゲンマは猫背になりながら何かを切っていた。その姿にとてつもない安心感が胸に迫ってくる。
風邪を引いているからだろうか。
風邪を引くと人は心細くなるという。私も小さい頃は風邪を引くたびにぬいぐるみを抱えて寝ていたものだ。

「お、起きたか」

布団の擦れる音を敏感にも聞き取ったのか、ゲンマは千本を加えたままにかりと笑い丁度出来たところだと小さな土鍋をお盆に載せベッドの側へとやって来た。

「起き上がれるか?」

そう言いながら、起き上がろうとする私の背を支えるために片手が伸ばされる。もう片方の手にはお盆があるというのに、なんともバランス感覚の良い人間だろうか。

「ありがと」

重々しくもなんとか上体を起こせば、次の瞬間にはてきぱきと食事の準備がされた。どうせ零すからと前掛けを付けさせられたり、前髪が邪魔だろうからとピンで留められたり。小さな頃のように甲斐甲斐しく世話をするその姿にクスリと笑みが零れた。

「何だよ」
「んー、ゲンマって昔から意外と世話焼きだよね」

土鍋の蓋が開けられれば、もわっとほうじ茶とお米の甘い香りが漂う。勿論リクエストした梅干しと昆布も中央で食べられるのを今か今かと待ちわびていた。

「お前のおかげでな」
「何それ」
「ほら。いいからさっさと食っちまえよ」

そう言ってゲンマは私の反論を封じると、蓮華を取り上げ見るからに美味しそうな茶粥を掬う。ふーふーと二三回冷ますように息を吹きかけると、ずいと口元へと差し出した。私はそれを迷うことなく口へと運ぶ。
はふっとまだ芯熱を持ったお米が口の中で蕩けていった。
昔からゲンマは変わらない。
やんちゃする私を付かず離れずの距離で見守ってくれているのだ。そして怪我をしたり風邪を引けば、こうして甲斐甲斐しくも世話を焼いてくれる。
本当は今日だってゲンマが我が家に来る必要は微塵も無かったのだ。それをどこから聞きつけたのか、気付けばノック数回の後にはいつものように我が家へと足を踏み入れていたのである。

「美味しい」
「そうかよ」

風邪を引いているとはいえ、食欲の落ちないタイプで良かったとこれほどまでに思ったことはない。あっという間に土鍋が空になるとゲンマは食器を下げにシンクへ向かい、次いでいそいそとコップに水を入れ手には薬を持って、さぁ飲めと迫ってきた。
完全にお母さんである。

「お母さんみたい」
「あぁ?」

何でもないと告げ、促されるまま薬を飲み勿論寝かしつけられる。
それを一部始終見届けると、ゲンマはまたシンクへと戻って行った。その数歩の距離なのに、遠ざかっていく背中に寂しさを覚えた。

「ゲンマ」

虫の声のように微かな呟き。しかしゲンマは当たり前のように気付いてぺたぺたと歩み寄って来てくれる。
私はこの優しさがとても好きだった。甘やかされているという自覚もあったし、甘やかされていたいという気持ちもあった。

「まだいてくれる?」
「ちゃんといてやるから、お前は寝てろ」

そしてやっぱり当たり前のように私の望む答えをくれるのだ。
もう少し、甘やかされていたい。ゲンマの優しさに包まれていたい。そう熱にうなされた乙女的思考のまま、私は再びの睡魔に瞳を閉じた。

カチャカチャ

カチャカチャ

今度は何の音だろう。眠気眼に考えることが楽しいのも、その音の主がゲンマだと知っているからだ。
再びの覚醒に目を細める。カーテンの隙間からは夕日が一本の枝のように室内へと差し込んでいた。

カチャカチャ

音へと視線を向ければ、ゲンマの背中がこちらを向いていた。その陰にはちらりと忍具が見え隠れしており、どうやら使い込まれたクナイや巻物の手入れをしているのだろうことが伺える。真剣な様子の背を見つめながら、ふと一つの疑問が浮かんだ。

ゲンマはこんなことをしていていいのだろうか、と。

もしかしたら、ゲンマにも忍具の手入れをしたり修業をしたりと、今日という日が大切な時間だったのではないかと今更のように思ったのだ。
そんな風に考えが及ぶのも、薬によって熱がだいぶ下がり思考が回ってきた証拠かもしれない。熱に浮かされた甘えたな子供のような考えに、ふと大人の思考が口を挟んだ。

「ねぇ、ゲンマ」
「?起きたのか」
「……」

ゲンマが振り返るのと同時に、千本が夕日を映し込みちらりと視界を犯す。

「ごめん」
「何が」

急に謝罪を口にする私に何か不味いもんでも食ったのかと心配するゲンマ。ゆるく首を振ってみせれば、じゃあ何だとばかりに溜息を吐いた。
どう言えばいいのか、正直答えは出ていない。
ただ一つ言えることは、甘やかされている自覚と、甘やかされていたい気持ち。そんな甘ったるいものがゲンマの大切な時間の犠牲の上に成り立っているのだとしたら、それは私にとって耐えられないことだということ。
考えあぐねたまま、それでも何か言葉にしなくてはという気持ちがそっと口を開かせた。

「あのね、」
「……」
「ゲンマはすごく優しい。甘やかされてるなっていつも思ってるし、それに甘えようとしてる自分がいることにも気付いてるの」
「……」

何を話そうとしているのか。その論点が定まっていないことは承知していたが、それでも口にしなければいけないような気がしたのだ。
もし、ゲンマが自分の大切な時間を犠牲にしているのだとしたら。幼馴染というだけで、昔からの癖のように世話をしてくれているのだとしたら。それは紛れもなくゲンマのお荷物だ。
甘やかされたい。その優しさに触れていたい。そんなことを思っていた甘い自分の思考がみるみると冷たい氷のようになっていく。
こんなことならば風邪で熱にうなされたままゲンマの手を借りるのではなかった。それでも、甘えたい私は当たり前のようにその手を取って縋ってしまったのだ。

「でも。もしそれでゲンマの大切な時間が犠牲になってるんだったら……
「それ。お前昔も言ってたよな」
「え?」

ぐっと唇を噛んで告げた言葉。しかし返ってきたのはそっと笑むゲンマの予想外の言葉だった。

「昔?」
「やっぱ覚えてねーか」

千本をすーっと口内で鳴らしたゲンマは、昔話でもするように天井を見上げ遠い過去を想起しているようだった。私は随分と広く大きくなったゲンマの背を昔の彼と比べるだけ。

「お前、昔風邪で寝込んだ時も同じようなこと言ってた」

何かを思い出したのか、ゲンマはくすくすと忍び笑う。その思い出に、当人とはいえ介入出来ないむず痒い気持ちが背中を伝った。

「ゲンマのしたいことしてって。風邪引いてる私と一緒にいるのは退屈でしょう?とか言ってたな」

まさか。幼い頃の私もそんなことを言っていたのか。
もしかしたら、幼いながらにあくせくと世話を焼いてくれるゲンマに申し訳ないと思っていたのかもしれない。

「で、俺はそんなお前にこう言った」

振り返ったゲンマの千本が夕日を反射し、より一層の輝きを届けてくる。それはもはや眩しさという概念に相当するものだった。
なんて答えたの。そんな当たり前の疑問など口から滑り落ちて来るはずなどなく、私はゲンマの言葉を待つより他なかった。

「俺は俺のしたいことをしてる。お前は風邪を治すことだけ考えて甘やかされてろってな」
「……それって」

甘やかしてくれるということだろうか。
甘やかされてもいいということだろうか。
私に使われる時間は、ゲンマのお荷物になってはいないということだろうか。
次々と擡げる疑問に、彼はよっこいせとおっさん臭い台詞を吐きながら立ち上がる。それがわざとだと見抜けるぐらいには近しい関係の私たちは、ゲンマがベッドの淵に腰掛けることで向かい合わせになった。
ギシッとベッドがゲンマの重みを受け止め沈み込む。そのくぼみを見つめながら、私は意を決した。

「ゲンマの大切な時間……犠牲にしてない?」

そう弱々しく問うことで、私は確証が欲しかったのだ。
我儘だとしても、ゲンマが私を甘やかしてくれるという確証が。優しさに縋ってもいいのだという保証が。

「阿保か」

そう言って、ゲンマはガシガシと少し乱暴に私の頭を撫でくり回した。汗で汚いからとか、そんなことを言う暇もなく撫で続けられる行為に、次第に慣れ始めた私はふと昔の記憶が灯篭の明かりのように浮かび上がってくることに気付いた。

『私ね、ゲンマにこうしてもらうの好きなの』

えへへ、と熱で真っ赤な顔を可愛くもなく崩す私の頭に乗るまだ小さな手。
昔、熱を出した私にゲンマが何をして欲しいか聞いてきた時。私は人恋しさに頭を撫でて欲しいとせがんだのだ。
勿論ゲンマは嫌な顔一つせず私の欲しいものをくれた。

そう。いつだってゲンマは私のことを気にかけて、私の一番に欲しいものをくれていたのだ。
阿保かとぶっきらぼうに撫で回すようにはなってしまったが、その手の温もりは昔と何一つ変わってなどいない。

あぁ、やっぱり私はゲンマに甘やかされているのだ。
そして、その優しさに甘えようとしている。
それでも、ゲンマが少し乱暴に頭を撫で回してくれている間は縋ってもいいのかもしれない。そんな風に思うようになっていた。

「ゲンマ」

そっと伸ばした手がゲンマの服を掴む。
弱々しい手付きも、きっとゲンマは振り解いたりなどしないのだろう。

「やっぱりゲンマってお母さんみたい」
「言ってろ」

少し乱暴な手付きが優しく優しく綿を掴むような手付きに変わるまで。私がえへへ、と可愛くもない顔をくしゃっと崩すまで。
ゲンマは当たり前の様に私の欲しいものをくれるのだろうから。