小説 | ナノ

の鳥




その檻から解き放ってくれたのは、私に一言問い掛けただけの、一人の殿方でした。

「姫様、御婚約おめでとうございます」
「これより祝言のため木ノ葉に赴きますので、暫しの辛抱を」

そう言って私の意志など関係なく、この身体を乗せた籠はえっちらおっちらと木ノ葉へ向けて旅立った。
籠の中に差し込む光をぼんやりと眺めながら、この身に起きていることをゆっくりと噛み砕いていく。
木ノ葉の大名の家に生まれ、蝶よ花よと育てられ、何不自由なくこの歳まで暮らしてきたことに不満は無い。
ただ、私にはそれが当たり前すぎたのだ。
父や母の言うことに首を縦に振り、周りにいる者達に世話をやかれる。豪華絢爛な着物に袖を通すのも、ただの羽織一枚身に纏うのも、何一つ自分でやったことはなかった。
それを世間知らずだと言われることはあったが、別に腹を立てたことはない。
何故なら、私にはその世界しか存在しなかったからだ。
与えられるものに対して、私の生活はあまりにも充足しすぎていた。
そうされることが当たり前。当たり前すぎた生活は、私に選択肢があることすら気付かせはしなかったのだ。
それが大名という家に生まれたからだという言い訳にはならない。
ただ私がそうであるように、父も母も当たり前しか存在しない世界で生きてきた人間だということ。その厳然たる事実が私という人間を形成していることに間違いはなかった。
だからこそ、不意に問い掛けられた言葉に何と答えたら良いのか。私は着る物一つ満足に自分で選んだことの無い思考で言葉を発するしかなかったのだ。

「楽しいかい?」

その問いは、とても難しいものだった。
まず何に対して楽しいと思っているのか。その何を提示してもらわなければ答えようがなかったし、もし提示されたとしても多分私は曖昧な答えしか出せないと思ったのだ。
楽しいと思う感情は持ち合わせている。
池の鯉を眺めることも、どこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声に耳を澄ませることも、私は楽しいと思っていた。

「楽しいわ」
「本当に?」

音もなく隣に現れた殿方は、休憩にと降ろされた籠の外に出た私に間髪入れずそう問い掛けた。
木ノ葉の額当てを付けた、私とは相容れぬ世界で生きる人。

「何でそんなことを聞くの?」

問いを問いで返す上流階級十八番の会話術。
答えたくない時、答えられない時。答えても分が悪い時。そういう時は問いを重ねてしまえばいい。
私が唯一父と母から教わったといっても過言ではない代物だ。
そうすれば大抵は話が流れるか逸れるか。
どちらにせよ、自分の分が悪くなることはない。そう教えられてきた。
しかし今目の前で発した私の言葉に、隣に佇んだ人は曖昧な笑顔を浮かべるだけ。
その笑みが、まるで私の心を見透かしているようだった。
本心で楽しいと思ったことは無い。そんな、私すら考えたことのない心の奥を。
だからぽつりと言葉を零してしまったのだ。

「楽しそうに見えないかしら......」と。

するとその人は、ぽりぽりと人差し指でこめかみを掻いて目尻を下げたのだ。
これは困ったという仕草なのだろう。

「見えないわけじゃないけど、少し嘘っぽいなって」
「嘘っぽい?」

言われたことのない台詞だ。そう瞬間的に思い目尻を下げた顔を見上げれば、私の視線に何を思ったのか、曖昧な笑顔の色を濃くしたのだ。
大方大名の娘に言ってはいけない言葉だとでも思ったのかもしれない。
けれど、そもそも私はそんなことを気にするような人間ではない。
少しこのお喋りが面白くなってきたところだったので、曖昧な笑顔で誤魔化されることにはちょっと腹が立った。
こんな言葉を掛けてくれる人間は、もう私の周りにはいないから。
無意識に失うことを恐れ、引き止める術を知らないからこそ腹を立てたのだ。まるで子供の癇癪のように。

「楽しいかどうかは私が決めることよ」
「ははっ、そうだね」

反発されるとは思ってもみなかったのか、曖昧な笑みはあっという間に霧消し、木ノ葉が風に揺れるような笑みが浮かぶ。
それを目に、やはりこの人は私とは違う世界の人間なのだと悟った。
それを寂しいと思う権利など無いはずなのに、突如として胸に下りてきた哀感に口を動かすことで誤魔化しを計った。

「毎日餌をあげる鯉が群がる姿を見るのも楽しいし、ほら聞こえる?遠くで鳴く鳥が空を駆ける姿を想像するのも楽しいわ」
「......」
「ただ......」
「ただ?」

口にして良いものなのだろうか。
そもそも、私はこんな感情が宿っていたことに今初めて気付き驚いているのだ。そんな芽生えたばかりの感情を、この人に告げてもいいのだろうか。
そんなことをふと思ったが、風に誘われて漂う気配が言ってごらんと言っているような気がして、私は誤魔化しを計った口で再びそっと言葉を紡いだのである。
これは、芽生えたばかりの私の本心だ。

「あなたの言う楽しいとは、少し違うかもしれないけれど」
「......」

沈黙が川の流れに乗せて下流へと運ばれていく。
選択肢があるというのは難儀なことだ。この川の流れのように下流へ行けば行くほど枝分かれを余儀なくされる。
籠の中で生きてきた私には、選択肢など存在しなかった。そんなものがあることすら知らずに生きてきたのだ。
それが、今。
楽しいかい?そう聞かれただけで幾多にも枝分かれして行く川の流れに気付いてしまった。
私の前にも、そんなものが存在していたとでもいうのだろうか。

「君が望んでいることは何だい?」
「望み?」
「そう、望み」

気付いたばかりの枝分かれしていく川。そこにこの人は当然だと言わんばかりに立て札を立てようとしている。
私の望みという立て札を。
右には私の望みがあって、左にも私の望みがある。
それだけではない。そこから幾つも幾つも、望みが鳥の羽のように広がっていくのだ。

「俺の先輩の教え子なんだけどね。その子は火影になると言い続けて、今も修行をしている」
「随分と大きな望みね」
「そう。見ているこっちがハラハラするぐらい大きな望みなんだ」

その声音で、隣に佇むこの人がどんな表情をしているのかを何となく察した。
きっと、どこまでも優しく相手を包み込むような慈愛に満ちたものなのだろう。
水面を滑って冷たくなった風が肩口を吹き抜け、手入れの行き届いた黒髪を弄んでいく。
風が笑いながら遊び駆け抜けていくようだと感じた私は、隣で優しく微笑む人に体を向けた。
初めて正面から見るその姿に、こんな人と話していたのかと改めて気付く。
包容力を具現化したような瞳が目尻に微かなシワを作り、木ノ葉の忍特有のベストが微かな死の香りを運んでくる。
この人は私とは違う世界で生きる人。
けれど、私よりも多くの選択肢を自分の手で選び取ってきた人。
私は、その姿に初めて希望を見出していた。
希望という名の望み。私の枝分かれしていく川の分岐点の一つだ。

「一つのだけ、望みが出来たわ」

もし、私の前にも幾多の分かれ道が存在するのだとしたら。
望みは何かと聞かれ、それに答えても良いのだとしたら。
食事や着る物、ありとあらゆるものを他人の手に委ねてきた私にもそれがあるのだとして、見上げた先にある双眸はこの初めての望みを聞き入れてくれるのだろうか。
これも小さいけれど私の望み。他人に聞き入れて欲しいと望んでいるのだ。
見上げた先の双眸は微かに細められ、私に続きを促していた。

「名前を教えて?あなたの名前が知りたいの」
「僕の名前?」
「そう、あなたの名前」

にっこりと、久しく使っていなかった頬の筋肉を使って口角を引き上げる。
笑顔とはどんなものだったか。悩むよりも先に顔に締まりがなくなっていくのを感じて、笑顔とは自然に出来るものだったなと遠い昔を想起した。
同時に、目の前の見慣れ始めてきた瞳が驚きに見開かれ、次いで優しく春の陽だまりのように弧を描いたことに、心がこれ以上ないほど温かくなったのである。
まるで、柔らかな羽毛に包まれているみたいだ。

「ヤマト。ヤマトって言うんだ」
「ヤマト......」

名前が個を主張し始める。私にとって、護衛のためにいる木ノ葉の忍である殿方。そのフィルターがぺりぺりと、まるで蛹が羽化する時のように剥がされていった。
ヤマト、と繰り返した口内がどこか甘酸っぱく感じる。
だからかもしれない。距離が近付いた、と心が幼い頃の誰とも壁を作らなかった無垢さを取り戻していくような気がしたのだ。

「あ。もう一つ望みが増えたわ」

まるで悪戯を思いついた子供のような気分だ。
初めて知る選択肢の多さに、望みが泡のように増えていく。それを、とても心地が良いものだと感じていた。
私の世界は、もしかしたら途轍もなく広く大きいのではないか。
ヤマトは「ん?」と子供に尋ねるように首を傾げた。

「私のことを、忘れないでいて」

本当は、もっと違うことを言おうと思っていたのだ。
あなたとお友達になりたい。
もっとお話ししてみたい。
また会いたい。
けれど、口をついて出たのはそんな言葉ではなかった。
忘れないでいて。
溢れたその一言は、もしかしたらこれまで考えもしなかった私の本心に一番近いものだったのかもしれない。
忘れないでいてほしい。
川は幾つも枝分かれしているというのだと教え、私の目の前にもそれは存在しているのだと気付かせてくれたヤマトに。
私という存在がいたのだということを忘れないでいてほしいのだ。

「勿論」

耳朶に触れる声音が綿菓子のように甘く、それでいてどこかこそばゆい。

「絶対よ。いつかまた会えた時、沙羅って、そう呼んでちょうだい」
「あぁ」

そっと差し出した小指に、ヤマトはくすっと微笑み意図を理解したように自身の小指を絡めた。

ゆーびきりげんまん うーそついたら はーりせんぼんのーます ゆーびきった

もう遠い昔に誰かとした記憶があるようで無い約束の行為。
本当はこんなものに効力があるとは思ってもいなかったが、あると信じてみよう。
信じることも、私の選択肢の一つだ。
今はそう思うことが出来る。
互いにくすくすと、残り少ない休憩時間をめいいっぱいお腹が痛くなるまで笑いあった。

目の前を流れる川のせせらぎと輝きが、私に幾つもの未来を教えてくれていた。


数日後、涼城沙羅という名は木ノ葉の上層部に知れ渡ることになる。
婚約を破棄し、大名の家を、自分の性を捨てて忽然と姿を消した、裏切り者として。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
初のヤマト隊長小説です。書きながら、ヤマト隊長ってこんな感じだったけ?と疑心暗鬼になりながら執筆しておりました。
籠から飛び出した夢主。彼女はいつかヤマト隊長に名を呼んでもらえる日が来るのでしょうか……