小説 | ナノ



「そりゃぁ、紅でしょ」
店主お勧めだという梅酒を煽り、そう告げる。
甘い香りが鼻腔を擽った。

「そう?私は沙羅のここ、好きだけど」
隣に座るアンコが私の頸を覗き込む。
慰めなのか、本心なのか。
つつと悪戯に指を走らされ、ぞわりと血が皮下を這った。
「ちょっと、アンコ」
「そりゃぁ、紅ってば色気ありすぎるし?
普段隠れてる頸なんかが見えたら男はイチコロでしょうよ」

相当酔っているようだ。
私の呼びかけに応えもせず、ぐちぐちと呟いている。
着物を着た時に誰の頸が色っぽく見えるか。
なんてどうでもいい話題を振ってきたにしてはやけに早く潰れた彼女に、ため息を吐いた。
私の首を艶かしく伝っていた指に変わり、こそばゆい髪が私の首筋を蠢いた。
それに我慢しながらずるずると体重をかけてくるアンコを起こさないように、小さくお猪口を煽った。

今日は久しぶりに皆の都合が合い、皆で仲良く飲みにきたはずだった。
しかし気づけばぽつりぽつりと仲間はいなくなり、深夜を回る頃になれば、アンコの世話役を仰せつかった私と彼女だけが広い座敷に取り残された。倒れたビンやら、骨ばかりの魚の残骸が目に入り、どうにも遣る瀬無い気持ちが押し寄せ、早い調子で酒瓶を傾ける。


はぁ。
何度目かのため息が溢れる。
別段彼女を嫌っているわけではないが、酔い潰れた時の彼女はちょっと、いやかなり面倒だ。
今日はまだいい方なのかもしれない。
大人しく酔い潰れてくれれば、後は彼女を抱えて彼女の家のベッドに放り投げてくればいいのだから。

悪い時になると、彼女は執拗に人に絡んでくる。
特に任務終わりの、戦闘を終えた後の彼女は、少しばかり厄介だ。
一昨日なんて酷いものだった。
美味しそうと呟かれ、挙句には、がぶり。なんて効果音と共に頸に噛み付かれたのだ。
痛いは血はでるはで、散々な飲み会だった。
だからこそ、彼女がお酒を飲む時は要注意であると、肝に銘じていたのに。
どういうことか、洞察力が売りの私がじゃんけんで見事に大敗を喫し、こうして彼女のお守りを任されてしまったのだ。

はぁ。
完全に落ちたのであろう彼女をちらと一瞥する。
彼女が寝てしまったのなら、もう帰ろうか。
残り少なくなった酒をお猪口いっぱいに注いだ時だった。

「やっぱり、まだいたのね」
「え」
聞き慣れた低く落ち着いた声が鼓膜を震わせ、咄嗟に首を回す。
視線の先には、靴を脱ぎ座敷に上がり込んでくるカカシがいた。

「あれ、どうしたの」
「いや、まだ残ってるかと思って」
軽い口調でそう告げられ、もう少し飲もうよなんて言いながら、腰を落とされてしまえば、
元よりアンコを支えている私は断る間もなく自然と頷いていた。
どうして戻ってきたのだろう。
そんな疑問が過ぎりながらも、帰りはカカシにアンコをお振って貰おうなんて腹積りをする。

「それじゃ、改めて」

乾杯。

軽くお猪口を掲げ、視線を合わせる。
あまりにも冷静で怠そうで、何を考えているのかわからない彼の瞳と目が合った。

ごくり。
そっと視線を伏せ、並々と注いでいた酒を飲み干す。ふわりと甘い梅の香が一段と強く香った。
やはり店主のお勧めなだけある。

「いやー、美味しいね」
「そうだね」
かっと胃に熱が灯り、熱い空気が外へ漏れ出た。
飲む度に、梅の香が強く出る。
部屋中がこれに満たされていくのではと感じる程に、濃厚な香りだった。

「これ、もう残ってないの?」
彼もお気に召したらしい。
辺りに散らばる酒瓶を振っては、中を覗き込んでいる。
「今飲んだのが最後です」
そもそも、もう帰ろうとしていたのだ。
追加など頼んでいなかった。
カカシが飲んだのも、誰かの残り酒だ。
酒の肴もない。
こんな状況であると予想できただろうに、彼はそんなに飲みたかったのか、名残り惜しそうに散らばる最後の酒瓶を覗き込んだ。

「んー、やっぱないね」
「そうみたいだね」
彼と一緒に最後だった酒瓶を眺め、そう答えた。
一瞬の沈黙が訪れる。

「もう帰ろっか」
「そうだね」
奇妙な間を置いて出てきたことばに、間を置かずに返答する。
もう大分時間も経ってしまった。
早くアンコを送り届けて、寝よう。

彼の声を合図にそっと立ち上がり、アンコの方へ体を向けた。


「あれ、」
頸につうと、何かが這う感触がした。
アンコの悪戯に艶かしいそれではなく、何かを沿うように辿る感触。

「ここ」
「え?」
その感触がカカシの指だと気付き、一瞬ぞわりとした感覚が過るも、
彼が何をなぞっているのかを認識した途端、私の脳を一昨日のアンコの暴挙が支配する。

浅く皮膚が傷付いただけだと気にも留めていなかったが、血が出たということは、それなりに強く噛まれたということだ。
青あざの1つや2つ、いや、歯型ぐらいできているのかも知れない。

「アンコってば・・・」
起こしたら面倒そうな元凶を前にして、がくりと肩を落とす。
今日1日、同僚から妙な視線を受けていたのはこれが原因だったのかとうな垂れた。
なぜよく確認もせずに今日に限って髪を纏め上げてしまったのだろう。
アンコが突然頸の話をしだしたのも、頷ける。
妙に嬉しそうな顔をしていた彼女のことだ。
酔った自分が仕出かした暴挙とも知らずに、有らぬ妄想を繰り広げていたに違いない。

「随分熱狂的な彼氏だね」
「違います」
頸に指を這わせながら淡々と告げてくる言葉を全力で否定する。

「ふーん」
興味がないのだろう。
聞いてきたにも関わらず、どうでも良さそうな返答が帰ってくる。

「あの」
「なに?」

「そろそろ指を」
どうでもいいのなら、その指を離して欲しい。
先程からそわりそわりと這う指が、だんだんとこそばゆく感じてきた。

「あぁ、ごめん」
苦言を呈せば、なんの未練もなく離れていく指。
擽ったさから解放され、変わりにひんやりとした空気が頸を撫でた。

なんなんだ、一体。
相変わらず、思考のよめない彼の行動に首を傾げた。

「それじゃぁ、帰ろっか」
うな垂れるアンコの重みを感じさせない動作で持ち上げた彼は、私の返事を聞かずにスタスタと出口へ向かう。
「え、ちょっと」
慌てて席を立ち、彼の背を追った。






「カカシ、ありがとう」
「いーえ」
時計の針を数えるのも馬鹿馬鹿しいほどの真夜中。
アンコを自宅に送り届けた私たちは、眠りにつく商店街をゆったりと歩いていた。
特にこれと言って話すことは無かったが、カカシと私の距離は何時もそんな感じだったので、別段気にもせず、夜空をぼーっと見上げ歩いていた。

「ねぇ」
「・・・っ」
のんびりと夜空を堪能していれば、突然目の前に人の顔が現れた。
咄嗟に状態を戻す。
相手の突然の行動に驚き、彼を見やれば、そこには何一つ表情の変わらないカカシがいた。

「びっくりするでしょ」
そう告げ、何時も返ってくるはずの気の抜けた返事を待つ。

しかしどういうことか、中々返答がやってこない。
じっと食い入るように見てくるだけで、唇一つ動かす様子は無かった。
はて、どうしたのか。
不思議に思い彼に一歩近づき、彼の顔を覗き込む。

ふわり、梅の香りが漂った。

ああ、さっきのお酒だ。
本当に、私好みの酒らしい。
人伝てに伝わる香に、意識を持っていかれた時、


「え」
彼の顔が、先程よりも随分と近い場所にあった。
梅の香がむわりと私を包む。
濃厚な香の香りが鼻を擽り、唇に感じる布越しの彼のそれを、許してしまいそうになった。

「ちょっと、」
何時の間に抱き込まれていたのか、胸板を押し、背中に回る彼の逞しい腕から逃れようともがく。

「美味しかった?」
「は?」

何を言い出すのか、この男は。
突然訳のわからないことを言い出す彼に文句を言おうと見上げれば、再び落ちてくるキス。
頸を沿うように手で頭を固定され、逃げることも叶わなかった。

彼が近づく度に、梅の香が思考を乱す。
これだけで酔ってしまいそうだ。

「もう、やめて」
焼け切れそうになる思考を何とか押し留め、唇を離す。
やめてと、カカシに放ったその口から漏れ出るのは、甘く蒸せ返るような梅の香。
静寂の街中で、この場だけが梅の香りで華やぐ。
もう何をしても、この香りから抜け出せそうになかった。

「美味しい。梅の香りだね」
コツン、まるで恋人に囁くように額をくっつけてそう囁く彼から香るのも、また梅の香。
甘いその匂いが、私の思考を完全に鈍らせる。

「カカシ」
名を呼べば、さらりと首筋をひと撫でされる。
その感覚に震えながらも見上げれば、再び落ちてくるそれ。

梅の香りが一段と強くなった。
まるで梅の酒を飲んでいるかのよう。


この香りが宵闇に溶けるまでは、
この味に浸っていてもよいのだろうか。