小説 | ナノ


冬の海老鼻



たまたまお互いに時間が空いていただけ。
そんな風に捉えるには、同じ時間を共有する大晦日という日は些か特別すぎる気がした。
一介の忍が食べていくのにも困らぬほど、そこそこの家賃で借りたアパートの一室。実家から持ち込んだ箪笥にソファー、そして読む時間がいつあるのかと疑われそうな書棚の数々が辛うじて留守の多い家主の家だと分かる。
そこでどうしてだか、二人は挨拶もそこそこに読書に耽っていた。

「いらっしゃい」

テンゾウを迎え入れた沙羅は真っ先に書棚へと向かっていく背中に苦笑を漏らし、台所へと向かった。良い茶葉を大家さんから貰ったことをつい今し方思い出したからだ。
やかんがピーっと警笛に似た音を立てれば台所は随分と暖かくなっており、昇り立つ湯気は茶葉の香りを纏ってテンゾウの元へと届いた。
リビングではテンゾウが書棚から引っ張り出してきたらしい推理小説に目を走らせている。好きな小説家だと勧めたら沙羅よりも早くにシリーズを網羅してしまうあたりらしいと言わざるを得なかった。
今日は大掃除をするために集まったというのに。
あまりにらしい風景に沙羅は微笑みと共に肩を竦めるしかなかった。

「今日は掃除を手伝ってくれるんじゃなかったの?」
「もちろん、そのつもりだよ」

当たり前のように返ってくる答えではあったが、本から外した視線は続きを読みたくて仕方がないという目をしていた。
沙羅はそんなテンゾウの目に弱かった。
カップをテーブルに置いていつもそうしているようにテンゾウの横を陣取る。慣れ親しんだソファーが他人の重みで沈み込んでいるところへ腰を下ろす感覚は、いつまで経っても慣れそうになかった。ただ他人と一緒にいる空間をこんなものかと思わせるのに、ソファーの沈み具合はとても明確だった。

「どこまで読んだの?」

掃除をしないといけないのにな。そんなことをぼんやりと思考の隅に置きながらも、テンゾウが目を輝かせて読書に耽るのを邪魔したくないと思ってしまう。それは沙羅がテンゾウの目に弱いからだ。その問い掛けが失敗であるか成功であるかは、数刻しても始まらぬ大掃除で結果を得たと言えるかもしれない。
テンゾウが本を語る時の目はそれこそまるで少年のようであったし、そういう目になる心理を沙羅は十二分に理解していた。何故なら沙羅も同じ穴の狢であるから。
二人してソファに並んで本を手にしてしまえば、後は頁を捲る乾いた音と冷めていくお茶の薄れゆく香りだけが室内に漂うだけだった。
どれほどそうしていただろうか。
しばしばと乾いた目を瞬いた時、ふと視界に入った時計に沙羅は度肝を抜かれたのだ。

「え?!もうこんな時間?!」

思わず発した声と本を閉じる音に弾かれるようにしてテンゾウが顔を上げる。亥三つ時を知らせる時計の針に思わず沙羅の顔を見つめれば、返ってきた表情は紛れもなくやってしまった、だ。
小さく天を仰ぐ沙羅にテンゾウはちりりと申し訳なさに苦笑を浮かべた。
それから大掃除になりきらない掃除が重く腰を上げた二人によってはじまったのである。
器用にはたきで本の埃を落とすテンゾウに、部屋に積み上がり放題積み上がった本の山や書類の仕分けをする沙羅。
しかしテンゾウの埃を落とすスピードに反し沙羅の手は思ったよりも進みが遅かった。本の虫らしく発見した本一つ一つに目を奪われ数秒。また勉学のために収集した医術書の仕分けに数秒。積み上がった本の如く重なっていく数秒という時間はあっという間に二人の大晦日を食らっていった。
やっと大掃除という形が見えはじめたのは、木ノ葉一古い大鐘が人の煩悩を突き尽くした頃。気休めに点けていたラジオから新年の挨拶が聞こえてきた時だった。
本の虫から掃除の鬼へ。
一心不乱に手を動かしていた二人は年越しにでも食べようねと約束していた蕎麦の存在も忘れ掃除に没頭していた。
しかしその集中力にも腹の虫が鳴っては限界がこようというもの。どちらのものか本人たちには分かっているのだろうが、二人は掃除の音に紛れて鳴った腹の虫に顔を見合わせ苦笑した。

「お腹空いた」

そう主張したのは沙羅だった。凝り固まった肩やら腰を解したり伸ばしたりしながら辿り着いたソファーであられもなく横たわる。それを見たテンゾウがソファーの肘掛けに腰を下ろし沙羅の顔を見下ろした。

「疲れた?」
「疲れた」

素直に吐露される言葉にテンゾウの顔には柔らかな皺が寄った。
ラジオからは賑やかしくも華やかに新年を祝う歌謡曲が次から次へと二人の耳に流れ込んでは過ぎていく。その賑やかな世の中に、脱力した体は置いてけぼりをくらっていた。
きっと他の仲間たちは今頃家族や恋人とかけがえのない時間を過ごしているのだろう。たまたまお互いに時間が空いていた本の虫同士が共有し合うには、やはり大晦日は特別すぎる気がしてならなかった。
この関係をどう表したらいいのかと考えたこともかつてはあったが、長年の友人に男女がどうこうというばかりがコミュニティではないのだと説かれれば、いやはやなるほどと納得せざるを得なかった。それだけ人付き合いにおいては自信のない本の虫だったのである。
頭の片隅にそういえば冷蔵庫に蕎麦が、と過ぎった気もしたが、お湯を沸かして麺を茹で薬味を切る単純作業ですら億劫に思えて仕方がなかった。
大掃除など短時間でできるものではない。
そう思ったのはテンゾウも同じなのか、沙羅の顔を覗き込んだまま「どこか食べに行こうか」と問い掛けたのである。
勿論沙羅は寝っ転がったまま伸びをするついでに万歳をして賛成の意を示した。
新年を迎えたばかりの夜は想像通り木ノ葉も眠らぬ街と化している。その中を歩くのは寒々しいのかと思いきや、案外暖かくて沙羅は虚をつかれた。きっと無駄に着込んできたせいか、眠らぬ街らしく煌々と灯る店の明かりのせいか、それとも肩を並べて歩く人間の温もりを感じているからか。何にせよ寒がりの沙羅にとっては有難いことであった。
暫くすれば人々の談笑や雑踏の賑わいに互いがぽつりぽつりと紡ぐ会話は飲み込まれていく。成熟しつつある夫婦の会話の如きまろやかな甘味を孕んだ甘酒の香りや、団欒という言葉がよく似合う出汁の良い香りが鼻腔をくすぐった。
沙羅とテンゾウは顔を見合わせることもなければお互いに何を発するでもなく、そのいい香りに導かれるようにして店の暖簾をくぐった。
いらっしゃいの代わりに明けましておめでとうとかかった声に、まだまだ大掃除やらで去年の空気を引きずったままの二人は言葉だけをなぞるように明けましておめでとうと口にした。これがお互いはじめて交わす新年の挨拶だと気付いた二人ははたと顔を見合わせ、ふっと気の抜けた笑みをこぼすのだった。
暖簾をくぐった先は賑やかしいのかと思いきや案外としっぽりとした穏やかな空気が流れている。それが立ち食い蕎麦屋だからだと気付いたのは、新年の挨拶もそこそこにこれから仕事だと苦笑する人々の出入りが激しいからだった。沙羅は掃除に追われ時の流れの早さに置いていかれているなと感じていたが、この場所では時の流れに急かされる人々で溢れていた。その流れが沙羅とテンゾウの時間感覚を正常に近付けたことは言うまでもない。
引っ切り無しに開いては閉じる扉から流れ込む冷気に上着を脱ぐ気にならなかった二人はカウンター越しに天ぷら蕎麦と声を重ねた。
はいお待ち。
ものの数分で出てくるところは流石立ち食い蕎麦屋だ。そんな感動と目の前に出てきた天ぷら蕎麦から立ち上る湯気、器に添えた手に伝わる温かさにほっと息を吐いた。空腹を訴えていた沙羅の腹の虫はここにきて空腹を思い出したかのようにぐぅとひと鳴きした。
黄金色の汁には天ぷらの衣から滲む油が仄かな照明に照らされきらきらと光り、大きな二本の海老は尻尾を真っ赤に染め上げていた。ぷりぷりの身が衣を纏い、香りから上等であろう出汁を吸っているのかと思うと、沙羅もテンゾウも生唾を飲んで器を前に割り箸を我先にと割っていた。

「いただきます」

揃う声と蕎麦をすする音。掃除に疲れた心身の英気を養うように一口二口と無心で胃へと流し込んでいった。
お互いに何を話すでもなく食べる年越し蕎麦は沙羅にとって想像していたものとはだいぶ違ったが、ふと海老を頬張った時に見えたテンゾウの鼻先にこんな年越し蕎麦もありかと微笑んだ。

「海老みたい」
「何が?」

小首を傾げるテンゾウに沙羅はつんつんと自身の鼻を突いた。

「テンゾウの鼻、海老みたいに真っ赤」

それを聞いたテンゾウは思ってもいなかった答えだったのかふっと息を吐き出し、次いでにやりと口角を引き上げた。それはテンゾウが本のネタバレをしようとする時の意地の悪い瞬間に似ていた。

「そういう沙羅もね」

沙羅はじっとテンゾウの鼻を凝視し、自分もこんなに真っ赤なのかと想像したらえらく滑稽で可笑しさが込み上げてきた。同時にこんな姿を見せ合えるテンゾウとの関係に想像以上の居心地の良さを感じていた。
ずずずっと蕎麦を啜るテンゾウを横目に見れば、まだ鼻先は真っ赤で。けれどそんなところが愛しいなと思うほどには心の距離が近いことに、沙羅は改めてこの名付けられぬ関係も良いものなのだと感慨に耽っていた。

「どうかした?」
「なんでも」

まるで気付いた初恋を宝箱にしまう幼子のような小さく高鳴る鼓動と好奇心に、沙羅は自分だけの秘密だと宝箱に書いて胸にしまった。
いつかこの関係に名前の付く時が来るかもしれない。けれど、それは今ではないことを沙羅は海老の尻尾だけが残る完食した空の器を見て思うのだった。
ご馳走さまでしたとどこまでも声を揃えて店を後にすれば、眠らぬ街木ノ葉隠れの里の夜空が遠くの木々の影をぼかすように白んでいた。
きっとこのまま帰ったら二人してベッドにダイブすることは明白なのだろう。満腹と疲労とが相まって今度は眠気が加速をはじめる。
温もりを得て一層白くなった息を吐いて沙羅はテンゾウを仰ぎ見た。

「帰ろ」
「そうだね」

何処に、なんてテンゾウは聞かない。聞かないけれど二人の足取りは迷いなく同じ方を向いて歩き出していた。

たまたまお互いに時間が空いていただけ。
そんな風に捉えるには、同じ時間を共有し大晦日を過ごし、年をまたぐことは些か特別すぎる気がした。
けれど今はそんな特別も悪くはないと、テンゾウの横でくわりとひとつ欠伸をしながら沙羅は一人眠気と戦うのだった。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回はお正月アンケートからはもれていましたが、私の書きたい欲が抑えられずに執筆させていただいたものでございます。もう二月なのに。笑
テンゾウと主人公の何気ない日々の中で迎えた大晦日から新年という節目の時間を切り取ってみました。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
アンケート、ありがとうございました。