小説 | ナノ


ウダージ



「まただわ」

ぴたりと足を止めた紅にならう。何処かへと飛ばされた視線の先を追えば、そこには”また”と言われるには日常に溶け込みすぎてしまった光景があった。

「あの子、あれで何人目かしら」

驚くでもなく騒ぐでもない紅の冷静な情景考察とため息が耳を掠める。

「周りもいい加減こりたらいいのに」

漂ってきたため息の正体が呆れだと理解した頃には、黒曜石のような瞳がまるで他人事にすることを許さぬように向けられた。
その圧にぎくりと嫌な予感がする。

「カカシ、いいの?アレ」
「いいも何も、俺には関係ないデショ」
「ふーん、そう」

いかにもわざとらしく興味を失くしてみせる紅の視線。それが俺の悪くもない罪悪感を引き出すことをよく知っているのだ。
ちらりと再び視線をやれば、”また”とか”アレ”呼ばわりされる現状が未だに遠巻きで繰り広げられていた。
華奢な肩に置かれた男の無遠慮な手をこともなげに払い落とす女の手。微かに聞こえてくるのは「ちょっと顔がいいからって調子に乗りやがって」そんな風に女を罵倒する声。
ナンパなんて陳腐なものに”また”と前置きが付けられてしまうことを女はどう思うのだろうか。
どう思い、どうやり過ごしてきたのだろうか。

「助けてあげればいいのに」

ぼそりとわざとらしく興味を失くしてみせたはずの紅が呟く。その言葉を引き金に人としての良心が罵倒されている女を助けてやれと訴えはじめた。どうせ助けに行くんだから早く行けとばかりにちらりと寄越される視線に溜息が零れる。
その視線に後押しされるようにして、俺は有耶無耶とした足を一歩踏み出した。人として見過ごせない。そんな大義名分を掲げ、仕方がないから助けるという名目のもと女の元へと向かったのだ。

「その辺にしといたら?」
「!」

気配を消して近寄ったが故か、女に寄っていた男は突然現れた俺に驚きとあからさまに邪険にしたような瞳を向けた。

「沙羅だって困ってるじゃないの」

そう言ってこれ見よがしに沙羅の肩へと手を掛ける。この手を沙羅が男にしたように払いのけないことを知っていたからだ。

「ちょ、ちょっと話しかけただけだろ!」

男は目敏く払いのけられない俺の手に気付き憤慨したのか、目くじらを立てながらふんと鼻を鳴らして立ち去っていく。
その背を見つめる沙羅の瞳が無感情無色透明であることを、今まで去っていった幾人の男が気付いているだろうか。

「助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」

買い物の途中なのか紙袋に詰められた日用品が沙羅の片腕で抱え直され袋の中でがさごそと音を立てる。その音に弾かれるようにしてするりと肩から手を離した。
視線一つ寄越さない姿勢に、そうだこういう女だったと薄雲のかかる空を見上げて思う。
そしてちらりと沙羅の荷物を抱えた腕とは反対側の肩から先を見て小さく眉根が寄った。

「また、この腕を理由にされたわ」

そう誰にでもなく、けれど俺にだけ聞こえる声で沙羅は蛇口の水がぽたりと零れるようにして呟いた。それが沙羅の瞳を無感情無色透明にしているのだと気付いた俺は、どうにも二の句が継げなくなりゆっくりと歩き出す華奢な背をそっと追い掛けることしかできなかったのだ。
歩調に合わせてゆらりと揺れるはずの荷物を持った方とは反対の腕が、まるで時空間忍術で切り取られでもしたかのようにぽっかりと無くなっている。
思い起こせばそれは唐突な出来事だった。
沙羅が任務中大怪我をしたという噂を聞き付け病院へと見舞いに行けば、無菌なんて言葉が似合いそうな白い病室で生っ白い体が生気の欠片無く横たわっていたのだ。
薄っすらと開けた瞳からは何よりも先に涙がつーっと耳へと伝い落ち、乾燥した唇からは虫の音ほどのか細い息が溢れたのである。

私の腕は、どこ?

その言葉は否応なく胸を抉った。
目の前でオビトの半身が岩に押し潰された時の感覚が蘇り、この手を伸ばしてもどうしてやることもできない不甲斐なさに苦渋を舐めさせられる。
沙羅は任務中、仲間を守るために敵の刃を受け一刀両断腕を切り落とされてしまったのだ。
腕の幻覚。
そんなものが現れ出したのはそれから暫く経ってのことだった。
傷口も完治し、これからの行く末を考えなくてはならなくなった頃。
沙羅は無くなってしまった腕を壁やベッドに叩きつけるようになり、物に触れることのできない苛立ちに嗚咽するようになった。
長く艶やかな黒髪も片手では結わえないからと看護師が手にした鋏でじゃきじゃきと切られた。
短い髪になった沙羅が鏡を見なくなったのは必然だったし、そうして塞ぎ込んでいく姿を俺は励ますことができなかった。
何を言っても胡散臭く聞こえるだけだろうと、そう思っていたからだ。

「何か用?」

前を歩いていく肩口まで伸びた黒髪。
そろそろまた耳元で大切な髪がじゃきじゃきと切られていく音を聞く時期なのかと思うと胸が痛む。

「またあぁいうのに絡まれないように、護衛?」

適当なことを言ってのらりくらりと瞳を細めれば、沙羅は小さく鼻で笑ってふと止めた足を再び進めた。
風に攫われる黒髪が切られることを嫌がる子供のように首を振り、その機嫌の悪さ故に鈍色の雲を引っ張ってくる。
鼻先を、生臭い湿気の独特な香りが漂った。

雨だ。

ぽつり、ぽつりと空を見上げたそばから雨粒が視界を掠め落ちてくる。
気付けばしゃらじゃばとあっという間に雨脚が強まり、俺は反射的に沙羅の肩を抱き寄せ近くの軒先へと向かった。
つぶてを打つようなそれはそれこそ俺たちを一息に濡れ鼠に変え、意気揚々と地上に恵みをもたらしている。
それが余計なお世話だなんて空を恨めしく見上げても、きっと空は素知らぬ顔で恵みを喜べ人間共よ、なんて有り難迷惑を押し付けていくのだろう。

「最初は皆、私の腕を見るの」

雨音に掻き消されてしまうような呟きを辛うじて耳が拾う。
沙羅の手にしていた紙袋がシミを作りひしゃげて今にも破れそうだ。
雨のカーテンを引かれてしまった軒先に漂う空気は、まるで煩いのにどこか隔離されてしまっているような異空間に思えた。
曇天を見上げる沙羅を横目に、耳が拾った言葉がさっき絡まれていた男とのやり取りに起因するものだと察する。

「腕を見て、それから小さく眉根を寄せて、そこからはじめて目が合うの」
「......」
「さっきの男もそう。そのくせに私を好きだと言って、挙げ句の果てに君の人生を背負いたいなんて言うの。腕を理由にね」

まるでおかしいでしょ?なんて自嘲が聞こえてきそうな言葉に口を噤んでしまう。
沙羅は腕を無くし、哀れみの視線を向けられることに毒されすぎてしまったのだ。
はじめて向けられた視線の衝撃に少しずつ、少しずつ。虫が葉を食い散らかしていくように蝕まれてしまった。
もしかしたら今まで沙羅に言い寄ってきた男たちだって腕を失っている沙羅に驚きはしたが、好きだと言う言葉に嘘偽りはなかったかもしれない。
それでも、卑屈になった沙羅にとっては面と向かって向けられる好意が哀れみや同情のそれになってしまったのだろう。

「簡単に私の人生を背負うなんて言わないカカシみたいな人が良かった。自分の荷物は自分で持て。そんな当たり前のことをさせてくれるような人が」

口から零れ出ていく言葉はまるで無責任を美化したようなもの。
俺が沙羅に対して抱いている哀憐を見て見ぬふりをしている現状を見破られたようでどきりとする。
本当は腕が無いと叫び苦しむ沙羅に向き合うのが怖かっただけなのに。
遠くで見ていただけの俺を沙羅は正当化し、あまつさえ良いと言う。
のめり込む気もなかったくせに、遠巻きに見て何もしていないという行為が思わぬ受け取り方をされたことに困惑した。
尚も続く自嘲と虚無から少しばかり色を帯びる声音。 それがキリキリと胸を締め上げていく。

「カカシならきっと、そうやって私を遠くから見ていてくれる」

はっきりと胸に刺さっていく言葉に宿る信頼。雨粒が瞬く間に地面に染み込んでいくようにそれは俺の胸をついた。
横目に見る少しばかり低い位置にある黒髪からはぽたりぽたりと、まるで沙羅の溢す言葉のように雨粒が滴り落ちていく。
純然たる黒髪から滴り落ちるのだから雨粒さえも黒に染まってしまっていればいいのに。そんな根も葉もないことを思考の隅で考えるのは、きっと沙羅の信頼が今まで俺のしてきた全ての行為と釣り合っていないことを理解しているから。
そして理解しながらも心は相反して惹かれ、落ちる雨粒を掬いたくなるほどにその艶やかな清廉さに目を奪われているからだ。
不意に伸びていく手はそんな後ろめたさと信頼との間にある矛盾がさせたものに他ならない。
ぺっとりと張り付く服を煩わしく思いながらも、指先は迷うことなく雨粒を溢す沙羅の黒髪へと伸びていく。
魅せられながら、尚も膨らんでいく罪悪感は更に罪を重ねたいのかそうでないのか。
ただ一つ分かるのは、雨に冷えた身体が沙羅の存在ひとつで指先から微かな火を灯されるように火照っていくことだけだった。

「髪なら、結んであげるのに」

ぐっしょりと濡れた艶やかな黒髪を一房手にする。
提案という形を借りて罪滅ぼしのような言葉を口にする俺を沙羅はどう思うのだろうか。
背後に迫り来る不安に駆られ、手にした黒髪から横顔をそっと覗き見る。
なされるがままやはり俺の手を振り払うことのない沙羅はその口元に小さな笑みを浮かべていた。
まるで全てを、俺の狡賢さから器の小ささまで。何もかもを見透かしたような、そんな笑みだった。
後ろめたさと、狡賢さと、向けられる信頼。そこに微かな恋慕が宿っていたとしても、今の俺たちにはまだ少し遠いのだと煩さを増した雨音が現実を見ろと言っているかのように鼓膜を打ち鳴らした。
沙羅がそっと視線を寄越す。
俺を通り越して雨に染まる瞳は無感情無色透明とは違い、とても複雑な色を帯びていた。
ゆっくりと弧を描き細められる瞳は、明確に俺と沙羅の間に線引きをしていく。
今の俺はそれを正確に読み取り受け入れることができた。

「遠慮しとく。カカシには、私を甘やかさないでいてほしいから」

伸びた黒髪がするんと滑り落ちていく。
真っ直ぐと見上げられる瞳は、沙羅が自らの力で歩むことを決めているのだと物語っていた。

「......そっか」

ゆるりと微笑んでみせれば、沙羅はまた一人で歩き始めてしまう準備でもするかのようにしわしわの紙袋を抱え直した。
俺はやっぱりそれを見つめているだけ。
それでも、今はそれでいいような気がした。
このままでいよう。
まだ後ろめたさも狡賢さも、向けられる信頼も微かな恋慕も。何もかもを飲み込むには性急すぎるのだ。
だから今はこのままで。
沙羅の望む俺でいよう。

雨が鈍色の雲に引かれていくように彼方へと流れていく。
軒先に掛かっていたベールがゆっくりと上っていった。

「雨、あがるね」

そう言ってまた微笑む沙羅の後ろ姿。
切られてしまうだろうその背に流れる黒髪を名残惜しみながら、俺は一人心の中で思う。

いつの日か、沙羅が長い黒髪を靡かせて微笑む姿を並び立って見つめられるようにと。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回ははち様よりお題をいただきまして、カカシ先生夢を書かせていただきました。はち様、リクエストしてくださりありがとうございます。
↓お題は以下のようなものでした。↓
突然の雨に見舞われ、雨宿り。自分より少し背の低い彼女に視線を落とすと雨粒がその髪から滑り落ちた。なんて艶やかなんだろう、と雨で冷えたはずの身体が少し火照った。