小説 | ナノ


To be in Love



「......好きです」

振り絞られるようにしてか細く漏れる呟きが、まるで麻薬のように心と身体を犯していく。
がらんどうの教室でその言葉は差し込む夕陽のようによく熟れていた。
今迄隠し通していたものが、隙間風のように漏れてしまったのだろう。
言うつもりなどなかったのにと瞑られる瞳と、とんでもないことを仕出かしたと気付いた唇がこれ以上何かを言うまいと必死に引き結ばれている。

「八百万」

呼び掛ければ素直に振り向き微笑みを零す純朴さ。真っ直ぐと目標に向かっていく直向きさは、教師の俺が遠い昔に無くしてしまったそれだ。
しかし今この瞬間、目の前で全てを遮断しようかという勢いの彼女は俺の呼び掛けに応えようとはしなかった。
恥ずかしいよりも先立つ言ってしまったという後悔が、触れれば丸くなってしまう団子虫のように頑なにさせてしまっているのである。

「八百万」

呼び掛けにもふるふると首を振るばかりの姿に小さな溜息が漏れる。
それすらも敏感に感じ取る彼女はビクリと肩を震わせた。まるで叱られることを恐れる子供のように。

「八百万」

三回目の呼び掛けは優しく、優しく。割れ物が吹く風を衝撃だと勘違いしないように。
こんなにも合理性に欠ける会話をするのはいつぶりだろうかと考える。きっと参加するのも面倒だった飲みの席に引っ張られて行った時以来だろうか。
けれど誰一人いない教室の中で八百万と呼ぶ声は、自身が想像するよりもずっと面倒を受け入れることを覚悟していた。
縮こまった肩にそっと触れれば、雨粒が葉に弾かれるように瞳を開く。

「ありがとな」

水面のように膜を張る瞳はその許容量を超えまいと鼻をすすった。けれど決壊寸前だったのか、ほんの小さな振動にも耐えることなく潤いに満ちた瞳からはするすると涙が溢れた。
恥ずかしいも後悔も、夕陽の美しさすら涙に吸い込まれて零れ落ちていく。
綺麗だと、美辞麗句なく素直にそう思った。
肩に触れていた手が不意に頬を伝う涙へと伸びそうになってはっとする。
止めどなく流れる涙を拭ってやったとして、ありがとうのその先に何を口にしようとしているのだろうか。
考えて、それでも面倒ごとを受け入れる覚悟をしてしまっていた口元は柔らかく弧を描いた。
「先生、」と一途に慕ってくれる呼び声はいつしか心地良くなっていて、少しばかり抜けた発想をする姿に愛しさが増していた。
無くした自信を取り戻していく様はそれこそ太陽のように輝かしかった。
俺はそれをいつしか見守っていきたいと、この手で育てていきたいと思っていたのだ。

「八百万」

四度目の呼び掛けと涙を拭ってやった無骨な手に、一向に合わなかった視線が恐る恐る向けられる。
やっと絡む瞳に、心は想像以上の満足感で満たされた。
濡れる指先に染み入ってくる好きという感情が、まるで小さな火を灯すように神経を這って身体を巡る。
滑らかで汚れのない柔らかな頬が傷付きすぎた己の手には分不相応な気がしてそっと離そうとすれば、花の枝のように華奢な手が全てを察していたかのように添えられた。
まるで愛しいものを抱くように瞳を閉じ触れられるそこから温もりが流れ込んでくる。
緩んだ口元が更にだらしなくなり、とうとう降参だと心が音を上げた。

「八百万」

最後の呼び掛けは再び開かれ合うはずの瞳をするりとすり抜けた。
差し込む夕陽から守るようにしてまだまだ小さな身体に影を伸ばし、誰も触れたことのないだろう艶やかな額へと唇を寄せた。

「!」

ぴくんと肩を跳ねさせ、添えていた手が反動で離れていく。
その初々しい反応に微笑んでみせれば、何が起きたのかを理解した彼女はぴたんと両の手で額を覆った。
ちょっと間抜けでこれ以上ないほどに愛しい姿は、いつの日か感じた甘酸っぱい気持ちを思い出させた。
満足なんて身勝手なことを感じながら、きっとこの先も好意を向けられる度に手放せないと気持ちが募っていくのだろうことを予感する。
驚きと恥ずかしさと、色んな絵の具を混ぜ合わせたみたいな顔を向けられることがこの上もなく幸せに感じた。

「ま、そういうことだ」

温もりの離れた手でわしゃわしゃと頭を撫でてやる。
意地悪く微笑んでいるつもりはなかったが、彼女がぽつりと「ずるいですわ、先生」と零したことで自分がどんな顔をしているのか何となく予想できた。
きっと、好きな子をいじめるガキのような顔をしているのだろうと。
さらさらと指に絡む髪の心地良さが離れ難くさせる。
ふっと鼻から笑みを漏らせば、彼女は蕾のように熟れ切らぬ唇から小さく息を吐き出した。

「好きでいても、いいんですの?」

確かめるように、恐る恐る。
上目遣いに合うまだ潤いに揺れる瞳に、やっぱり手放せなくなっていきそうだと観念した。
答えの代わりに離れ難い掌でもう一度頭を撫でてやる。
そうすれば色々な感情で綯い交ぜになった表情が、何よりも美しい微笑みで色付いた。
差し込む夕陽にも負けない、鮮やかで温かな色に。
俺はそれを待っていたかのように、彼女の耳元へと唇を寄せ狡賢く囁くのだ。

「百、」と。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回は相澤先生と百ちゃんのCP小説を書かせていただきました。
夢小説じゃなくてごめんなさい。
でもこのCPは推していきたい!笑