小説 | ナノ


ター猫のパラドックス



「きっと、あなたは猫ね」

雄英に所狭しと取り付けられた監視カメラの映像を見ながら、女はぽつりと呟いた。

「なんですか、それは」

溜息交じりに返事をしてやるのは、きっと面倒だと理解しながら、それでも女の話に耳を傾けない方が面倒を引き起こすことを薄々理解していたからだ。
女はモニターに視線をやったまま、手探りでテーブルの上から冷めているのであろう珈琲を手にして一口含んだ。
見立て通りアイスコーヒーに成り果てた珈琲に女の眉根が寄る。

「やっぱり珈琲は熱い方が良いわね」

人の話を聞いているのかいないのか。この場合は後者であると思うのが普通だが、俺はこの女が俗に言うところの一度に色々出来るタイプの人間であることを知っていたからか、きっとこの呟きは単なる意味のない呟きで小休止的な何かであろうことを察した。
わざわざ反応してやった問いがうっちゃられているのはどうかと思ったが、直ぐに答えが返ってくるだろうことも知っていた。
女のキーボードを叩く手が止まり、目元に黒子のある切れ長の瞳が俺を流し見たからだ。

「あなたはきっと猫なんだろうな、と思って」

再度俺を猫だと形容する唇はそっと吊り上っている。椅子の背もたれを使ってグッと伸びをする女は、はぁ......と反応し難い返答を零した俺に向かって、更に妙竹林なことを告げたのだ。

「で、私はパンね。それもバターたっぷりの」

そう言って指先を宙でくるくると回す女は、何かの帰結に辿り着いた科学者のように、「うん。そうよ」と一人頷いていた。
女のことを同じ教員として知っていると言えば知っているが、知らないと言えば全く知らなかった。
だから時々こうして一人思考を飛ばしていく女の奇行は度々俺を驚かせるのだ。
猫とパン。それもバターたっぷりの。
何の話をしているのやら......と猫とバターたっぷりのパンを想像すると、不意にあることを思い出したのだ。
猫とパン。それもバターたっぷりの話である。

「パラドックスか」
「そ」

同じ領域に足を突っ込むことまでは成功したらしい俺に対して、女はさもありなんとばかりにこちらを見返した。
猫とバターたっぷりのパンが登場する、ブラックユーモアとも哲学とも言える思考実験の話である。
落ちる時猫は必ず足から着地し、パンは必ずバターを下にして落ちる。ならばパンを猫の背に括り付けて落とした時は一体どうなるのか。
そんな何とも笑い話にも身にもならないような話だったことを思い出した。

「それで?どうして私が猫で、あなたがパンなんです?」
「ただのパンじゃないわ。バターたっぷりの、パンよ」

その訂正は必要なのかなんなのか。しかし女にとっては譲れぬものらしく、俺は視線に促されるまま仕方なしに「バターたっぷりの」と付け足した。
その言葉に満足したのか、女はにまにまと微笑み、それでは語ってしんぜましょうと言わんばかりに一つ咳払いをしたのである。

「相性が悪いから。あなたの目と、私の目」

そう言って見つめてきた瞳の力強さに思わず視線を逸らす。
そうだ。この女と視線を合わせてはいけない。
随分と昔に女が教員面接に来た際、己の個性を見せるための道具にされたことを思い出す。

「確かに、相性が悪い」

溜息と共に呟いてズレてもいないゴーグルの位置を直すフリをして見せれば、女は「もう読まないから」と苦笑混じりに告げた。
女の個性。それは視線を合わせた相手の心の内を読み取るという代物だった。
教員面接の際、怠いななんて軽率に思っていた心を明け透けにされ、校長からお小言を頂いたのだ。
それから俺は意識的に女と視線を合わせないようにしていた。
そう。相性が悪いのだ。
視た者の個性を消す俺と、視線を合わせた者の心の内を読み取る女と。
それこそ、猫とバターたっぷりのパンのように。

「さて、そこで問題です」
「......」

目を逸らしたことなどまるで気にしていないと言わんばかりの女は、再びモニターへと視線を戻した。
相変わらずの飄々とした口調は、数多の人間の心を読み尽くしてきたが故の余裕なのだろうか。
それとも、俺と同じように視線を逸らす輩に出会しすぎてしまったが故の呆れなのだろうか。
どちらにせよ、女はモニターを見つめたままマウスをカチカチと鳴らして続きを告げたのだ。

「猫とバターたっぷりのパンは、どちらが下になったでしょうか」
「そんなくだらないこと考えたこともない」

モニターに合わせて手元の資料をぱらぱらと捲っていく。自分が何をしにこの場所を訪れたのかを思い出したのは、女のしょうもない質問のおかげかもしれなかった。
そもそも猫にバターたっぷりのパンを括り付けて落とす状況なんて有り得ないし、そんな非現実的なことを考えるのは合理的じゃない。
それに答えなど大体察しが付くではないか。
すると女は、俺の答えなど分かっていたかのように椅子をギィと鳴らしたのである。

「そ。くだらないのよ。くだらなさすぎて考えても意味がないの」

空いている左手で持ったペンをくるりと回し、トントンと机を二回叩く。それだけなのに、どこかその行為自体が個性の何某かに見えてしまうのは、女に対する過大評価が過ぎるからかもしれない。
静まる部屋は同調の証。
同調を得たところでこの話は終わりを迎えるはずだったのだ。
しかし女は物語は此処で終わりではないのだと、語り部のように「でもね......」と時を溜めたのである。

「そんなくだらないことを証明しようと実験した人たちがいたのよ」
「酔狂なことだな」
「本当にね」

呟く女の横顔が苦笑に染まる。
このくだらない問いをわざわざ実験した人間の気持ちなど全くもって分からなかったが、ただ女が何を言わんとしているのかには興味があった。
俺を猫だと形容し、自分をバターたっぷりのパンだと比喩する女の真意を。

「結果は?」

大方十中八九猫が下なのだろう。
ぱらぱらと資料を捲って中身に目を通しながら当たり前のようにそう思っていた。
けれど返ってきた答えが俺に与えた衝撃は、当たっていたとかはずれていたとか、そんなところにはなかったのだ。
女の千里眼めいた言葉が飛んでくる。

「ご想像の通り。猫が下なの。だから、あなたが猫なのよ」

その答えに、俺は女がくだらない思考実験に混ぜて語る話の本質に気付いてしまったのだ。
資料を捲る手が思わず止まり、女を一驚した。
まさかそんな風に女が自己評価を下しているとは思ってもみなかったからだ。
猫が俺で、バターたっぷりのパンが女であり、実験の結果はいつも猫が下になる。
個性の相性が悪いなどと対等のような言い分を盾にしているくせに、実際は自分のことを明らさまに俺より下だと位置付けていたのだ。
実験することすらくだらない結果が見えている問いに混ぜ込んで。
ブラックジョークにも程がある。
個性は人それぞれであり、どう役立てるかも人それぞれであるはずなのに、女は個性に優劣をつけたのだ。
恐ろしいほど軽々と。
それは俺にとって酷く非合理的であり、それこそくだらないものだった。
個性はそれぞれの人間が違うものを持つからこそ意味があると思っていたからだ。
俺と女の個性の相性は確かに良くない。
けれど、それは裏を返せば同じ側にいることで解消されるということでもあるのだ。
それなのに女はまるで誰の側でもないかのように自己評価を下して、自分を卑下していたのである。
こんなにもあっけらかんと職務に従事しながら。
その事実に、俺の咽喉元が疼いた。
何を言葉にすればいいのか。
女に対して、勿体無いと言葉にすることは憚られた。何故ならこの歳までヒーローをしてきたのだからそんな陳腐な言葉が届くようなことは無いのだろう思ったからだ。
カチカチとマウスを動かしてはクリックする音が虚しく聞こえる。
俺が猫で、女がバターたっぷりのパン。
くだらない思考実験が思わぬ帰結へと向かおうとしている。
それでも女の肯定の通りになることを、俺は違うと思っていた。
猫がバターたっぷりのパンを背中に括り付けられて落ちていくヘンテコな映像が浮かぶ。
そして思い出したのだ。この思考実験にはブラックジョークらしいオチが現時点で定説されていることに。
俺はらしくない咳払いをして女の注意を引く。
決して女は視線を寄越してきたりなどしなかったが、耳はこちらを向いただろう。
それだけ女は周りの空気を伺いながら生きている。
個性故か、性格故か。
どちらにせよ、俺にとっては耳がこちらを向いたのであれば何でもよかった。

「それでも、バターたっぷりのパンが下になる可能性もあるだろう」
「......」

途端、カチカチとクリックされていたマウスの動きが止まり、再びの静寂が訪れた。
ゆっくりと、相性の悪い瞳が蝶のような睫毛を羽ばたかせながらこちらを向く。
まるで、本気でそんなことを言っているのか?という目をしていた。
確かに現実的ではないし、俺の嫌いな非合理的問いである。
けれど、これが思考実験であることも事実。
女がこの話題を引き合いに己を卑下するのであれば、俺はこの話題を餌に女を釣り上げようと思ったのだ。

「両方落ちずにぐるぐる回転するかもしれない。特に、このご時世だ」

もっともらしく話をするのは得意分野だった。
猫は足を下に落ちていく。バターたっぷりのパンも、バターを下に落ちていく。
ならば二つは磁石のようにお互いを引き合うのではないか。そして下になろうとするもの同士の力が働き、空中でぐるぐる回転するかもしれない。
そんなことを真面目な顔をして告げ、肩を竦めて見せれば、見下げた女の目はまるで鳩が豆鉄砲を食らったように丸くなった。
そして次の瞬間には、まるで相打った顔馴染みの敵に殺られるかのように肩を竦め、降参とばかりに哀愁をもって微笑んだのである。
その微笑みはどこか悲しく、それでいて何かから解放でもされたかのように清々しくもあった。
色とりどりの野菜を妙なバランスで瓶の中に詰め込んだような表情である。

「相澤先生からそんなお言葉が聞けるとは思ってもいませんでした」

女は理解しているのだ。俺が話の本質に気付いていることに。
そして、俺が何を伝えようとしているのか。その答えを。
小さく吐かれる息使いを耳が拾う。
吐息には、落胆も哀愁も混じってはいなかった。
ただただ、何かを納得したような含みがあるだけ。

「降参です。相澤先生は意外と良く人を見てらっしゃる」

落ちずに止まったペンを手にし直した女は、ふふっと微笑んでまた仕事に戻るべくモニターへと視線を戻した。
その横顔が今までに見たことないほど上機嫌に染まっていたことに、俺は心のどこかでホッとしていたのである。

俺は猫で、女はバターたっぷりのパン。
それでも構わない。
しかし、だからと言ってどちらが優れているという優劣は付けられないのである。

個性が蔓延る、このヒーロー社会では。

上機嫌な女の横顔に口元を緩め、俺も仕事に戻るべく資料へと視線を走らせた。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回は初めてヒロアカ夢を書かせていただきました。
まだまだ勉強中なのでヒーロー社会を描くのは難しいのですが、少しでも楽しんでくだされば嬉しいです。