小説 | ナノ

ポストロフィ症候群



「ねぇ……ちょっと待って」
「ん?」

ドスッと鈍い音が背筋を駆ける。
私は弓なりににんまりとしなるカカシの右目を見上げていた。
その細められた瞳にあーぁと思ったことは秘密である。
東雲に薄っすらと瞳を開けるよりも早く。
そろそろ卯の刻に入ろうかという時に、どうしてかカカシ宅のソファに押し倒されたことには理由というには中身の無い理由があった。

『任務が終わったら家に来て』
『何?ご馳走でも用意してくれるわけ?』

そう茶化して脇を小突けば、カカシはんーと空をぼんやりと見上げ『ま、そんなとこ』と呟いた。
曖昧な微笑みに何かあるのだろうとは思いつつ、想像以上の激務と化した任務を終えた頃の思考にはすっかりとその記憶は薄れていた。
そう言えば約束してたな、なんてシャボン玉の泡のように思い出した私は、人の家を訪ねるには時を逃しすぎている明け方にカカシの家を訪れたのである。
何となく待っているような気がして。
扉を二、三回叩いて出てこなければ帰ればいい。そんな安易な気持ちでトントンと叩こうとした扉だったが、気付けばトンと一回のノックに扉が開かれ、驚く間も無く家主のそれはそれはにこやかな笑みに腕を引かれていたのである。
それは大凡招き入れるというには程遠い。
履物を脱ぐことも脇に寄せることすらも許さない速さで引かれゆく手に、ずるずるとその辺に脱ぎ捨てられていく右、左。
気付けば声一つあげる間もなく、ドスッと背筋には布張りのソファが軋む衝撃が伝わり、見上げれば少し傷んだ天井と気味の悪い程弓なりにしなったカカシの右目が私を見下ろしていた。

「遅かったじゃない」
「まぁね」

ずるりと落ちた片足に構うことなく割って入るカカシの右足が太腿に触れる。
ぎしりと軋む音に合わせるようにして伸ばされた手が、任務に汚れた前髪を掻き分けていった。
その手つきの優しさに小さな欠伸が口許を漂う。

「眠いんだ」
「まぁね」

まるで無くした玩具を見つけた子供が二度と手放さないようにとでも言うかのような微笑みに、あーぁと嫌な予感が的中する気配を感じ取った。

「でも俺、沙羅が来るのずっと待ってたんだけど」

子供のように拗ねてみせる口調と、優しい手が前髪から頬へと移り撫で付ける感覚の違いに、カカシという人間のアンバランスさが浮き彫りになっていく。
ぼんやりと昇りゆく太陽の明るさをカーテンが遮っていた。

「ごめん、任務が長引いたのよ」
「知ってる」

にっこり、なんて効果音が付きそうなほどの笑みで見下ろされればそれ以上口に出す言葉は無い。
頬を撫で付ける優しさの裏側で、反対の手がやわやわと太腿を這い上がってくる感覚に、あぁカカシはヤりたいだけなのだと悟った。
柔和な笑みの裏には、飢えた獣の本能が隠れていたのである。

「ねぇ、今までの女ともこんな感じだったわけ?」
「そうだけど?」

当たり前のように告げられる言葉に目を丸くする。
この男は……自分の容姿に少し胡座をかいてやしないだろうか。
そもそも、その言い方では今までの女ともこんなやりとりをしてきたということだろう。
今までの女はカカシが求めれば段階も何も無く己を惜しげもなく差し出し、その欲を満たしてやったのだろうか。
好きも嫌いも分からぬまま、身体だけを重ねて。
勿論身体を重ねることが悪いとは言わない。好きとも嫌いともつかぬ曖昧な感情があっても良いと思う。
しかし。

「呆れた。よくやってこられたわね」
「ありがと」
「褒めてないから。というか、私たち付き合ってもいないでしょ」

その曖昧さすら告げ合うことなくただ身体を差し出すなんて馬鹿な真似は子供だけで充分。
私たちは大人でしょ、大人。

「あれ、沙羅ってそういうの気にするタイプだったんだ」
「私のこと何だと思ってんのよ」
「んー何だろうね」

くわりと浮かんだ欠伸は何処へやら。
相も変わらずへらりと作られる中身の無い笑み。
何だと問うても答えられないことこそが答えであり、今のカカシが私に向ける感情なのだろう。
口をついて出たのは煙を吐き出すような溜息だった。

「とにかく。今までの女たちがどうだったか知らないけど、私は違うから」

今までの女ならカカシが求めれば否もなく心も身体も差し出したのだろう。
一時の快楽と知りながらも、お互いが気持ち良ければいいのだと。
そういう関係もありかもしれない。
けれど私はカカシとはそうはなりたくなかった。
身体が寄り添えば心も通じるよ。なんて如何にもな台詞を吐く奴もいるけれど、そんな風に割り切れるほど都合の良い人間じゃない。
私がカカシにあげたいものも、欲しているものも、きっと身体からの始まりでは得られることは無いのだろう。
それはふらふらとこの歳になるまで独り身を貫いて来たから良く分かる。
きっと、カカシも気付いているはずなのだ。
それでも逃げるのは、そうすることに慣れてしまったから。そうすることの方が楽だから。
カカシの選択は、きっと相手のことも考えているのだろう。
自分のような人間の人生を相手に背負わせまいと。
だからこそ一時の関係で全てを終わりにしようとするのだ。

つくづく厄介で酷い優しさを持った男に惚れたものだと思う。

惚れた弱みのなんとやらと言うけれど、そんな感情には流されまい。
ソファに手を付いて出来る限りの力を込め起き上がろうと試みた。
しかし返ってきたのは、想像もしていなかった反動である。
ギシッ
押し倒された時よりも強く、肩に掛かる重み。
握り潰されるのではないかと思う程の指圧にウッと喉が鳴った。
再びソファへと縫い付けられたのだと気付けば、見上げるのは同じ天井と気味悪い程に弓なりにしなったカカシの右目。

「沙羅がその気じゃなくても、俺はその気だったりするんだよねー」
「……」

首筋に下りてきた顔がすんすんと犬のように鼻を鳴らす。
我慢の限界に近い快楽の吐息がもわりと耳裏を彷徨えば、ぞわりと理性を掻き消していこうとする何かが背筋を走った。
服を剥きにかかる手に、いつの間にかずり落ちていた足は収まるところへ組み敷かれている。
鎖骨を食み、少しずつ少しずつ胸元へと下りてくる唇。
その何もかもがカカシの意のままだった。
このまま抵抗をしなければ、獣が捕食に成功したとばかりに食われて終わるのだろう。
そしてきっと満腹感に腹を満たした獣は私を見下ろして「ありがと。もういいよ」と爽やかな笑顔で関係を断ち切ることを宣言するのだろう。
今までの女たちと同じように。
見慣れ始めた天井と錆びれ始めた照明に向けて小さく溜息を吐いた。

「ねぇ、カカシ」
「んー?」

蜜柑やバナナの皮を剥くようにベストやら何やらをじわじわと剥いでいくカカシの手。
切傷に厚くなった皮膚が肌を滑る度にナイフを当てられているような気がした。
尚もにこやかに胸元へと吸い付きぺろりと舐め上げる舌のざらつきに、此処が限界だと悟る。
これ以上はきっと、カカシのためにも私のためにもならない。
らしくない可愛らしい口付けの音と、ぴちゃりと舌の這う艶かしい音。はぁはぁと荒っぽくなってきた吐息だけが支配する空間に、私は終止符を打った。

「気持ちイイだけが、愛じゃないわ」

ぴくりと、カカシの動きが止まる。
口付けの代わりに息を飲む微かな音が鼓膜を揺らした。
まるで、獣が人の声に耳を傾けているかのように。
見開かれた空虚な右目と額当ての鈍さが仄暗い部屋に栄える。
その光景は人の言葉を理解せずとも、何かが獣の最後の理性を呼び起こしているかに見えた。

「それでも、私を抱く?」
「……」

その問いにはもしもが存在した。
もし此処でカカシが答えを出さずに私を喰らい尽くすのなら、それも運命かもしれない。
いくら私の想いが二人のためと訴えても、カカシに伝わらなければ意味が無い。
だからこそ、この問いは私の最後の賭けだった。
最後の賭けであり、最後の願いでもある。
相手のために告白も口付けも何もかもを省略して事に及ぶばかりのカカシの癖。
今までの女がどうだったかなんて火を見るよりも明らかであり、そんな関係を続けるカカシを見る度に胸が締め付けられた。
だから私が。なんて高尚な理由ではないけれど、惚れた相手の苦しむ姿を見ていることはやはり出来なかった。
カカシはこんな私の気持ちを聞いたらまさかと笑うかもしれない。
でも、カカシの過去も、これからも。背負う覚悟などとうの昔に出来ているのだ。

沈黙に肌が痛い。
剥かれたそこから冷気が入り込み鳥肌が立った。
表情の読み取れる空気がこんなにも恐ろしいものだとは思いもしなかった私は、ごくりと生唾を飲む。
カカシは今ここで私を食らうのだろうか、止めるのだろうか。
運命を握られた身では呑気に鼻歌でも歌っているしかないのかもしれない。
それとも暗記しかけた愛読書を朗読でもしてやろうか。
そう思った私はゆっくりと瞳を閉じた。
答えは神のみぞ知る。

どれくらいそうしていたかは、正直分からない。
もう大分日も昇ってしまった頃であることは確かだ。
カーテンの隙間から眩いまでの光が室内へと入り込んでいる。
真っ直ぐとソファまで伸びる陽光の眩しさに目を焼かれそっと瞳を開いた。

「カカシ?」
「……!」

乾いた喉が張り付いてしまう前に呼んでみせれば、カカシはハッと我に帰ったように息を飲んだ。
私のあられもない肌を写した瞳がガラス玉のように見開かれる。
まるで何か憑き物が落ちたように息をふーっと吐き出す姿に、あぁやっぱりカカシはカカシなのだと一人ごちた。
のっそりと、鉛でも背負っているかのように私の上から退いていく。
気付けば胸の栓がすぽんと抜かれた気がすると共に、肺にはこれでもかと新鮮な空気が流れ込んだ。
同じように重力に逆らって起き上がれば、呆然としたカカシは何を発するでもなく私を見つめていた。
もしかしたら、私の向こうのナニカを見つめていたのかもしれない。
獣からまるで小さな赤子にでもなってしまったかのように瞳を揺らすカカシに、どうしようもない母性本能が湧き出す。

本当に、惚れたら負けとはこのことだ。

剥かれかけた肩をそのままに両手を伸ばす。
呆然としたカカシを抱き締め、その肩に額を落とした。

「やっぱりカカシは優しいね」

届いたかは分からない。
この言葉の意味を、カカシがどう受け止めるかも分からない。
それでも、カカシと私にはまだ未来が残された。
ぷつりと、切っては捨てる関係ではない未来が。

着崩れた服を正してカカシの家を後にすれば、また新しい今日が始まっていた。

「さてと、帰って寝るかな……」

思い出したように、くわりと一つ。
大きな欠伸をこぼした。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今作はクズになりそうでならないカカシさんの物語です。
カカシさんって色々省略して生きていそうだな……と思っています。笑