小説 | ナノ


恋し恋しと揺らしてみても、あなたは気付いてなどくれぬ。
あぁこの鉢から飛び出して、足などつけてみせようか。
ゆらりと振った真っ赤な尾鰭は私の自慢だったけど、目に止まらぬなら要らぬも同然。
あぁこの鉢から飛び出して、足などつけてみせようか。


魚ノ恋文



ぼんやり浮かんだ二つの影が、そっと一つにまぐわっていく。
空虚なくせに熱を秘めた瞳のあの子を、どんな言葉で説き伏せたのか。
知りたくもないのに、耳だけが研ぎ澄まされていく。
布ずれの音が煙に乗ってやって来たから、ぱくぱく食らってやったけれど、甘ったるい蜜の味がしたから飲み込む前に吐き出してやったわ。
どうしてかなんて、貴方は知ってる癖に見ぬ振りをする。
本当に、残酷な人。
この鉢から飛び出せないことを知っていて、貴方はあの子に囁くのよ。
煙に乗せて、食べきれない砂糖のような言葉たちを。
食べ切れないから、じっと水の中に潜って耐えることしか出来ない。
そうすれば絡み合って縺れ合う嬌艶の吐息を聞かずに済むでしょう?
私の真っ赤な尾鰭が揺れる。
ぽこ、ぽこ、と吐き出した息が小さな泡になって昇っていくのを恨めしく見上げた。

あぁこの鉢から飛び出して、足などつけてみせようか。

そんなことをしたら、きっと貴方は驚くのかもしれない。
よちよちと慣れない足を引き摺る私を見て、無花果のようだと褒めるのよ。
そうしたら気分も晴れて貴方の胸に飛び込んで、触れたかった全てにこの手を這わすわ。
でもね。貴方は残酷だから、次の瞬間にはあの子を見るの。
私、知ってるわ。
御都合主義ばかりを並べ立てて怖がっている癖に、あの子の瞳に映りたがるのよ。
全てを見抜かれると知りながら。
何故かなんて知りたくもない。
けれど分かってしまうの。

だって、大好きだから。

私の全てを全部全部ぶちまいて、小指を切って貴方にあげたっていい。
そうしたら、貴方は大切に持っていてくれるかしら。
それとも、要らない物みたいに捨てるのかしら。
どちらでも構わない。
私の命、全部貴方にあげるのだから。
いいえ。私の命は生まれた時から貴方が握っているのよ。
真っ赤な尾鰭も千切って捨てて、鉢ごとひっくり返して息をするの。
苦しくて、苦しくて。
強請って縋って、心配そうに私を見下ろす貴方の背中に爪を立てても、きっと心は手に入らない。
命ごと、全部貴方にあげたのに。

それでも、貴方はあの子を見つめるのよ。

接吻一つ寄越してくれないなんて、あぁなんて酷い人だろう。
私の全ては貴方のものなのに、貴方はあの子にばかりその瞳を向けるのよ。
ねぇ、あの子に何を求めているの?
怯えたように伺う癖に、瞳の中では獣のような焔を飼っている。
熱くて、熱くて仕方のない真っ赤な情欲の焔。
その炎であの子を焼くの?
絶対に、あの子には耐えられない。そう言えたのなら良かった。
私は気付いていたの。

貴方があの子を見つめるように、あの子も貴方を見ていることに。

そんな瞳、一度だって向けられたことないわ。
ねぇ、あの子に何を求めているの。
私なら、私なら。
思うがままに掻き抱いて、粟立つ肌に傷を残すことを許してあげるのに。
貴方のものだもの。
好きにしていいわ。
正体をなくして溺れたって、あの子の名前を口にしたっていいの。
寂しい時はお互い様だから。
一緒に鉢の底まで沈んであげる。
静かで、全てが見通せてしまう世界に。
でも私はもう泳げないから、沈むのなら瞳を閉じて。
触れるだけでもいいから愛を寄越してちょうだい。

それで、お別れよ。

だって、私は貴方のものなんだから。





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