二世の契り−ゲンマ− | ナノ


感情の行方


自分の感情を上手く扱ってこその忍である。
そんな格言を聞いたことがあった。誰からとかどんなシチュエーションでとか、そんなことは忘れてしまったが、この格言らしいものはやたらと記憶にこびり付いていた。まるで母親の小言のように。
あの日から何とも言えぬ気持ちが靄のように思考を鈍らせていてとても気持ちが悪かった。戦闘のようにどちらかが倒れて終わる。そんな簡単な事ではないと分かっているからか、ややこしさに舌打ちの回数も千本を吐き捨てたくなる衝動も日に日に増していた。
忍をなめるなと言った一言が沙羅に響いていないのだろうことを分かっていながら、傷付けてしまっているのかもしれないという要らぬ心配が過る。
自分の感情に振り回されている。
それが良くない状況であることは間違いない。けれど今の自分に何ができるのか考えあぐねていた。
沙羅に言ってしまおうか。何もかも。
手を上げ頬に平手打ちをした理由も、忍に向いていないと言った理由も、手を上げられなかった理由も、何もかも。体内から臓物を引きずり出すように言葉にしてしまえば少しは楽になるのだろうか。この靄のような心中に少しは光が差すのだろうか。そんなことを考えて、否と一つ首を振る。
今の沙羅に俺の言葉が届かない以上、きっと何もかもを言葉にしたとして届きはしないのだろう。そんなことすらも分かってしまうほどに、自分が今沙羅の思考をなぞろうとしているのかと思うと少し笑えてきてしまった。
さて、どうしたものか。
これ以上の猶予はない。もしもの邪推も拭えない。
それならば……。
そんなことを自室のベッドに横たわりながら天井を見上げ考えていた時だ。沙羅の誕生会があるからとアンコが家に押しかけて来たのは。乱暴に扉を叩きこちらの了承も待たぬままに扉を開け放って開口一番に口にしたのが「沙羅の誕生会、あんたも来なさいよ」だったのである。これまたこちらの返事も待たず、じゃあ伝えたからと颯爽と去っていく後ろ姿は何とも凛々しかった。
沙羅の誕生会。
今顔を合わせることは正直気まずい。とはいえそんな俺の心中などアンコは知る由も無いのだから責めるわけにもいかず、断る理由もない手前行くしかないという選択肢ひとつだけが残されるのみとなった。本当に行きたくないのならば適当に理由をつけて断ればいい。そう思ったが、この時俺はアンコの一言によって迷わず行くことを決めていた。
アンコが去り際に「そういえば今回はシカクさんも来るってー」と間延びした声音で告げて行ったからである。
現状どうすればいいのか正しい答えがあるとは思えない。
しかし、沙羅とシカクさんを会わせることはどうしても憚られた。きっと自分が知らないところではシカクさんと沙羅に何かがあるのかもしれない。そうでなければあんなに目を腫らして心ここに非ずという状態にはならないはずだから。それ自体がまず面白くないのだ。子供じみた感情に流されていると知りながら、やはりこれ以上は駄目だと何度目かも分からぬ警鐘が頭の中で鳴り響く。
そして沙羅に声が届かぬのならばと、唯一の活路が閃きとして朝日が差すかの如く思考に振ってきたことに自身が一番驚いた。
そうか。ならばシカクさんに告げればいいではないか、と。
沙羅をどうするつもりかと迫った時、あんなにも軽くいなされてしまったことなど棚に上げて、俺は沙羅の誕生会へと足を運んでいた。それほどに余裕がなかったのかもしれない。そして間違いなく好いた女の視線があらぬ方へと向いていることに面白くないと感じていることも事実であるらしかった。

『沙羅のこと好きなんじゃないの?』

そう言ったアンコの言葉が今更になって実感と湧いてくることに、妙な居心地の悪さが心の靄を一層濃くしていた。

「沙羅―、遅―い」

主賓が来る前からへべれけになりつつあるアンコは、やけに遅れて登場した沙羅の「ごめん」という一言も何のその、問答無用で誕生日席へと着席させた。その強引さにおいおいと思ったりもしたが、沙羅の相変わらずの生返事とぎこちなく引き上げられた唇に溜息が漏れた。

「集まってくれてありがとうございます。素敵な誕生会を開いて貰えて幸せです」

幸せという言葉がテーブルの上を上滑りしていく。いったいこの場の何人がその言葉に感情が籠っていないと気付くことができるだろうか。きっとそうたいして多くはないのだろうと、顔を赤くして既に呂律の怪しいアンコを見て思う。他の連中もそうだ。この場所に来た人間のいったい何人が本気で沙羅を祝ってやる意志があるのだろうか。そんな邪推が始まった誕生会の間中頭の中を支配した。

「じゃあ、さっそくケーキを持ってきまーす」

千鳥足のアンコがそう言って奥へと引っ込んでいく。大丈夫だろうかという心配をよそに、周囲からは「待ってましたー」と賑やかな声が上がった。
そんな賑やかさの中でどうしても気を引いてしまうのは、やはり主賓であるはずの沙羅の様子である。相変わらずテーブルを見つめて何を考えているのか分からぬ瞳。その眦に、あの日の赤く腫らした目の幻影が見える気がして振り払うために酒を一口含む。微かな痺れが幻影を払いのけてくれる気がしてそっと胸を撫で下ろした。
沙羅が引き摺っていることは明白。それが俺の一言から来るものなのか、目を腫らした原因からくるものなのか。それは分からなかったが、ガラガラと店の扉が開いてシカクさんが現れた瞬間肩を跳ねさせた沙羅を見て、後者であるのだと悟った。

「間に合ったか」
「シカクさぁーん、遅かったですねー」

へらへらとしたアンコが、ケーキをゆらゆらとした足取りで運びながらシカクさんへと話し掛ける。
沙羅の視線がテーブルの向こう、ケーキや俺の目の前を通り過ぎてシカクさんを捉えていた。その眼差しの持つ陰りに息を飲まざるを得なかったのは、沙羅がシカクさんを捉えたように、俺の視線を捉えたのが沙羅のなんと言葉で表現すればいいのか分からぬほどの色を湛えていたからだ。なんて目をしているのだろうか。まるで池で溺れた鯉が酸素を求めるような眼差しである。暗い水底から唯一の月明りに惹かれて息をすることを思い出した鯉のような瞳。
けれどそれも一瞬。アンコの無遠慮な手付きで置かれた誕生日ケーキに揺らめく蝋燭の炎が沙羅の視線をテーブルへと引き戻した。

一本、二本。
沙羅の歳の数だけ刺さる色とりどりの蝋燭。
揺らめく炎が何故か自分の内側にある燃え上がりそうで、でも一吹きすれば燃え尽きてしまいそうな感情としてケーキの上でゆらゆらと灯っている気がした。
蝋燭に似た感情とはなんとも脆くて儚い気持ちなのだろうかと自嘲すれば、ふと今にも倒れそうな真っ赤な蝋燭が目に飛び込んできた。
倒れる。
まるでコマ送りを見ているような錯覚。ゆっくり、ゆっくりと揺らめく炎が不規則な悲鳴を上げる。

倒れるのなら、倒れてしまえ。

そうすれば、楽になれるとそう思った。沙羅が傷付こうとも知らぬふりができる。関係がないと目をそらすことができる。
全てをなかったことにしてしまえる。
変なところで真面目な性格が齎した縁である。沙羅が忍でいたいのならばそうすればいいし、辞めるのならそれはそれだとして沙羅の決定を何の躊躇いもなく受け入れることができるようになる。
手を伸ばさずにはいられない衝動から、解放されるのだ。

倒れてしまえ。

そう思った時だ。
今にも倒れる寸前の蝋燭を秒読みのように待ち受けていた俺の視界に、武骨で切り傷の絶えないよく見知った手がするりと割り込んできたのである。

「倒れそうじゃねーか」

ぽつりと零れた呟きと共に、その手が倒れることを望んだ蝋燭を事もねげに救い上げケーキに深々と刺していく。
悲鳴を上げていたはずの炎がまた落ち着きを取り戻していく。
消すことのできない感情がシカクさんの手で肯定されたのだ。

あぁ、俺はもう逃れられない。

一本だけ、他の蝋燭よりも深々と刺さる真っ赤な蝋燭を、沙羅が細々とした息で吹き消すまで永遠と見つめ続けることしかできなかった。
それから誕生会は結局のところ体のいい飲み会と案の定化した。
視界の端で沙羅を意識しつつ、頭の中では今日ここに来た目的を思い出していた。
どうにかしてシカクさんに告げるタイミングがないかと、不格好に分けられたケーキを突きながら考えていた。
シカクさんはいつも通り穏やかに杯を傾けている。ケーキを渡せば甘いものは控えていると言って断っていた。誕生会という席のおかげかケーキの代わりにお酒を飲む手は進んでいるらしい。
ふとシカクさんが視線を上げる。店内の壁にかけられた時計を一瞥したのだ。
そして杯に注がれたお酒を一気に飲み干した姿を見て、あぁこれで帰るのだろうと悟る。
突いていたケーキの残りを強引に口に放り込みお酒で流し込んだ。何とも言えぬ甘みと渋みが口内に充満して気持ちが悪い。シカクさんが帰るタイミングで席を立とうと思っているが、この組み合わせはさすがにナンセンスだったなと次回への自戒を胸にする。
少しばかり腰の浮いたシカクさんに声を掛けたのは、もちろん今日の目的を達成するためだ。

「だいぶ酔ってますね」
「気にすんな、そんな酔ってねーよ」

見送ろうかという態をとる俺に、シカクさんは見送りは要らぬとばかりに手をひらひらと振ってあっという間に店を出て行ってしまった。
これでは今日ここへ来た意味がなくなってしまう。
思わぬ展開に急な焦りが背中を伝った。
追いかけなくては。
しかし、追いかけるために腰を上げようとした瞬間、視界の端から意識に留めていた影がふわっと走り出して行ったのである。
最後に見たのは沙羅がガラガラと扉を開け店外へと出ていく後ろ姿だけ。

「行けば?」

横の席からアンコが妙に座った目で言った。くいと顎で扉を指す仕草がなんとも男勝りである。

「俺は……」

呟いて、閉まった扉を見つめる。
嫌な予感が焦りを増長させていた。
取り返しのつかなくなるようなことが起こる気がする。
こういうのは大概当たってしまうのだ。
それだけは、それだけは避けなくてはいけない。
結局俺はガタバタと椅子を鳴らし、お酒とケーキという最悪の組み合わせの口内を口直しすることも忘れて店外へと飛び出していた。
その足が感情という糸だけで動かされていると理解せぬままに。



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