華ヤカ哉、我ガ一族 | ナノ

第拾参話 桜蘂降ル


薬を盛ったことを使用人たちは知っているのか。
そう問われた時の猜疑心に満ちた正の瞳を、沙羅は良く知っていた。
宮ノ杜に奉公を始めた時、財閥から使用人になった経緯は誰からも侮蔑の対象として見られていたのである。
沙羅のやること一つ一つには徹底的な確認が付いて回ったし、掃除一つとっても重要な部屋は三年の月日を経ても任されなかった。
それだけ沙羅は宮ノ杜の人間たちから嫌疑をかけられていたのである。
その中でも唯一千富だけは沙羅の行いを評価したが、玄一郎や兄弟たちに楯突くことは出来ない。
茶室やダンスホウルの鍵一本を渡すのにも細心の注意が払われたのである。
とはいえ、当の本人でもある沙羅はいくら嫌疑をかけられ不審に思われたとしても宮ノ杜に対して何かをしようなどとは露ほども思っていなかった。
何かをする前に玄一郎に潰されてしまうことを知っていたからだ。
相手は天下の宮ノ杜。
涼城家にいた頃から、宮ノ杜家の噂は聞いていた。
屋敷に住む人間の規模も性質も常人には分かりっこないと。
それは招かれた舞踏会に参加した時のダンスホウルの絢爛豪華な様を見て確信することが出来た。
招待される客人の層や、もてなしに出される軽食。一流の音楽。使用人の質に至るまで、宮ノ杜はこの日本という国を見渡しても頂点を独占していたのだ。
そんな宮ノ杜に沙羅は何かをする気などさらさらなかった。
自分一人が動いたとしても、宮ノ杜はびくともしないと思っていたし、なによりそもそも何かを企み玄一郎を貶める理由がなかったからである。
むしろ沙羅にとっては両親の愚行を止めてくれた人間として感謝までとは言わなくとも、私怨など何一つなかった。
ただ、あの宮ノ杜玄一郎たる天下人が涼城家を買い上げ、挙げ句の果てに一切を未だ落ちぶれ財閥当主に一任しているのは妙であると、沙羅は心のどこかで思っていた。
しかし今の沙羅は宮ノ杜家の使用人である。
目を伏せ口を閉じ耳を塞ぐ。それさえ弁えていたら生きていける環境であることを、沙羅は財閥の娘として悟っていた。
財閥の人間が何たるものかを心得ていたからこそ、沙羅は使用人をやっていくことが出来ていたのかもしれない。
けれど、あの春風の使用人は違うのだろう。
そんなことを、泣き腫らした瞳を擦り使用人食堂から出てきたはるを見て沙羅は雑感として思うのだった。

「沙羅さん……」

真っ赤に腫れた瞳は痛々しい。
薄っすらと目の下に出来た隈がここ最近のはるの辛苦を表していた。
どうしたの。そう声を掛けるのが人として、同じ使用人としても普通なのかもしれない。
けれどこの宮ノ杜家に新しく入ってきた使用人たちの涙というのは、古参からしてみたら別段珍しいものではなかった。
きっと兄弟たちからの罵声を浴び、傍若無人な態度に心身を擦り減らした故だと予想出来てしまうからかもしれない。
沙羅は目の前に現れたはるに対してなんと声を掛ければ良いのか迷った。
生来人を励ますのに言葉を重ねることを得意としていなかった沙羅は、ある意味涙に弱かった。
幼い頃祖父の葬儀で涙する母の姿を見た時もどうしたら良いのか分からず、なるべく顔を合わせないようにしていたほどだ。
沙羅にとって涙は、溢れた感情が具現化したものだと思っていた。
故にそれを止めることは誰にも出来ないと悟っていたのだ。
溢れたものは許容範囲を下回るまで止まらない。
止めるために他人が言葉を重ねたところで効果は無いと感じていたのだ。
その証拠に、沙羅の母が泣き暮れた時も誰の言葉も受け入れようとはしなかったし、涙も一向に引かなかった。
言葉は無力だと、沙羅は幼い頃に気付いてしまったのである。
だからこそ、はるを前に慰めの言葉を口にすることを躊躇った。
躊躇った末に、瞳を潤ませるはるに同情の一つでも湧いたのか、沙羅は「洗濯物を取り込むの、手伝ってくれる?」そう言葉にしていた。
慰めの言葉を紡ぐよりも何かをしていた方が気が紛れると、そう考えたからかもしれない。
消沈しながらも沙羅の後を付いてくるはるは、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら洗濯物を取り込んでいく。
ただ黙々と。
時折洗濯物が風に靡くばさばさとした音に紛れて、はるはずずずと鼻を啜った。
それを横目に、沙羅は静かに見守ることが必要なのだろうと、そう感じていたのである。
きっとはるを慰めるのは自分の役割ではないと分かっていたし、慰めの力は自分の言葉には無いと悟っていたのだから。
未だにほろりぽろりと流れるはるの涙を見留め、沙羅はまるで澄んだ海のような空のもとで降る桜蘂のようだと密かに思っていた。





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