華ヤカ哉、我ガ一族 | ナノ

第拾弐話 誰モガ知ル真実


「ん……」

柔らかな暖色の照明すら瞳を刺す刺激になる。
眼球の筋肉が引き攣られるような瞼の重さに抗うようにして、正はそっと瞳を開けた。
見慣れぬ天井に、慣れぬベッドの感触。
正は己があの後どうなったのかという記憶が無い。
色々なものが胸の中でとぐろを巻き、憤怒やら何やらに体を乗っ取られる感覚のまま視界は暗転していた。
そうだ。勇は、そしてあの澄ました顔の使用人沙羅は。

「いだっ……」

はっとして起き上がろうとすれば、案の定ずきんとこめかみを走る刺激に瞳を閉じて眉根を寄せる。
今一度恐る恐る薄眼を開けて見渡せば、そこは客間の一室だった。
きっと酔い潰れた自分を誰かが此処まで運んだのだろう。そう思った正は出来るだけ頭を揺らさぬように上体を起こした。
時間感覚のずれをきたした頭は今が何時であるのかを把握するために、部屋に置かれている振り子時計へと目をやる。
既に10時を過ぎていることに明日が思いやられた。
このままではまずいな。兎にも角にも早いところ休まなければ体から酒が抜けきるどころか、翌朝起きられなくなってしまう。
そう朧気な思考で考えた正は、まだ重だるい体を引き摺って立ち上がろうとした。
が、当然の如く力の入らない体はベッドから立ち上がることを許さない。
小さな吐息に酒臭さを感じて辟易とする。
もしかしたら正の一番後悔する瞬間とは酒を飲んだ後かもしれなかった。
正にとって酒とは、行き場のない慟哭を彷徨うような感情を少しでも外へと逃してやるためのもの。例えばそう、破裂する前の風船から少しずつ空気を抜いていくように。
人の身には持て余してしまいそうな感情の昂りを鎮めるのに、酒は丁度良かった。
飲んで寝て、起きれば少しは冷静さを取り戻していることを、正は経験上理解していたのだ。
とんとん。
控えめに扉を叩く音に視線をやる。
きっと千富が起こしに来たのかもしれない。
そう思い、乾いて張り付いた喉からぶっきら棒に「入れ」と声を絞り出す。
徐に開かれた扉の先にいたのは、正の想像もしていなかったあの澄ました顔の使用人。
沙羅はトレーに水差しとコップ一杯の水に薬を用意して正に近付いた。

「起きてらっしゃったんですね。お水をお持ちしました」

そうしてベッドに座った正よりも視線を落とし傅く沙羅はコップを正に差し出す。
この時、正の心中は複雑だった。というのも、よくも白々しい態度で自分の前に顔を出せたなと思っていたからだ。
いくら酒のおかげで冷静になったといえど正にとって沙羅は、勇に口を割った犯人として認識されるに変わりはなかったのである。
差し出された水を無言で奪い煽り飲む。
飲み切ったら一言、正は何か言ってやろうと思っていた。皮肉なりなんなり。
いつもの正ならば開口一番罵声を浴びせることをしそうなものではあるが、この時は頭ごなしに叱責することはしなかったのである。そこに自分が口止めをしなかったという落ち度を見出していたからだ。
だから煽った勢いのままに皮肉を一つ二つ言うぐらいならば許されるだろうと思っていた。
冷えた水が喉を潤し、さぁ言うぞ。そう思った矢先のこと。
ごくりと水が胃に流れ込んだと同時に、言ってやろうと用意していた皮肉やらが一緒に飲み下されてしまったのである。
これには正も我がことながら驚いた。
薄く開いた唇からは喉が潤ったという歓喜の吐息しか漏れない。
意気込んだはいいものの肝心の言葉が飲み下されてしまっては元も子もなかった。
次を用意していなかった正は、それでも酒が残る頭で考えふと思ったままに言葉を紡いだのである。

「私が大佐の酒に薬を盛ったことを、使用人たちは知っているのか?」
「いいえ、存じ上げないと思います」

空になったコップを受け取った沙羅はまるでなんてことないように受け答え、水を注ぎ足し今度は薬と共に正へと差し出した。
そのあまりに普段と変わらぬ様子に、正は勿論違和感を覚える。
誰から漏れたのかなんていう瑣末なことを今更追求してもどうにもならないことだったが、この時の正は目の前にいる沙羅が口を割ったのかもしれないという事の真相を追求したくて仕方がなかったのである。
既に使用人に成り下がったとはいえ、一度は財閥の令嬢であった人間がそんなにも口が軽いものかと幻滅したくなかったからかもしれない。
先のベランダでつまらなくなったと言ったことは本心だった。
少なくとも、ただ人に虐げられ頭を下げるだけの人間では無かったはずだ。
そんな意思を持っていた人間が易々と口を割るものだろうか。
渦巻く疑心暗鬼には果てが無い。
それでも勇が酒での報復をしてきたということは、薬の存在にも気付いているということなのだろう。
ならば口を割った犯人は目の前にいる沙羅の可能性が濃厚であることを、正は思い込みの激しい思考で考えていたのである。
受け取った薬を水で流し込めば少しばかり胃がすっきりとするような気がしたが、飲み込んだまま消化されない皮肉やらは未だに消化器官を漂っていた。
相変わらずの澄ました白蓮の瞳が迷うことなく後片付けを済ませていく。
トレーを持ち一つ首を垂れれば、その足は客間から出て行くために方向を変えた。
普段ならば迷いない歩幅で下がる沙羅だったが、この時は何故かふと足を止めたのだ。
待てと口に出しそうだった正の息はふっと行き場を無くし口内を漂う。
徐に振り返った沙羅は、まるで闇の中にぼんやりと灯る洋燈のような瞳で告げたのだった。

「先ほどの薬のお話ですが」
「なんだ」
「薬に関しては誰も存じてはおりませんが、あのお酒を用意されたのが正様であるということは、屋敷の者であれば誰もが知っていることかと思います」

まるで絹の上を滑るような声は正の酔った頭にもするすると入ってきた。
そしてもしかしたら自分はとんだ勘違いをしていたのかもしれないと悟ったのである。
薬の有無など知らなくても、酒を用意したのが正だと分かれば勇には格好の餌食である。
報復するには十分な餌を撒いてしまったことになっていたと気付いた正は、目の前で白蓮の瞳を称える使用人沙羅を見上げるのだった。

「お酒が弱いとはいえ、一口で倒れては不思議に思うのは無理もないことかと」

勇が誰かから薬のことを聞いたのだと思っていた正は、まさか勇が自分で気付くとは思ってもいなかったのだ。
しかしよく考えてみれば、確かに不思議で不自然。
もし自分が盛られる立場だったのなら不思議に思うことは必須だと正は思った。
勇も、そうだったのである。
ただ不思議に思っただけ。そこに正が酒を用意したという情報が手に入れば、標的は丸裸も同然だったのだ。
沙羅を犯人だと思い込んでいた正は、まさに天井が降ってくるような心地がした。
正は思い込みが激しい。
だが訂正も早かった。
違うものは違うと受け入れる度量が備わっていたのである。
そうしなければ時代に置いていかれると知っていたから。
見上げた沙羅の人形のような佇まいに、正は思い込みの訂正を加えるのだった。
そうだ、こいつはそんなたまではないと。
そこに口を割るなど出来ない立場にいるのだからだという、少しばかり差別的な思考が入っていたことは、また別の話である。





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