ガイというひと | ナノ


あの日、俺の手に返ってきた鍵には人の温もりが宿っていた。
少しばかり汗ばむ沙羅の温もりだ。
無機質な鍵に宿るその温かさはとても心地が良かった。
無機質故に感情の無い物が、命を持っているような気がしたのだ。
それはきっと、ついさっきまでリーを手術へと踏み切らせるために背中を押し続けていたからかもしれない。

命に、温もりに敏感になっていたのだ。

だからこそ人肌の温かさを感じる鍵は、荒みかけた心を癒した。
開け慣れたはずの扉が沙羅の手に馴染んでしまったのか、形が変わっているような気がする。
そっと鍵穴に差し込みガチャンと開けば、それが己の家だと安心できた。
当たり前のように暗い室内に明かりを灯そうと手を伸ばした時、ふいに微かに甘い香りが鼻腔を掠めた。
何の香りだろうか。
己の家から香るとは思えない芳香に、すんすんと鼻を鳴らす。
ぱっと明かりを点ければ、いつも通りの我が家。
靴を脱いで鞄を置く。
香りはそこはかとなく、けれど己の家の中から漂って来るものであることは明白で。
踏み慣れた床の間をぺたぺたと歩いて正体を探る。
それがまさか昨日、いやもしかしたら今日までこの家にいた人間のものだとは思いもしない俺は、その正体に気付いて何故かほっと安堵したのである。
部屋の奥。シャワー室から続く部屋にそれはあった。
大判のバスタオル一枚に小さなバスタオルが二枚。
前日の雨のせいで外に干せなかったのか、それらは御丁寧に室内の物干しに掛けられていた。
少しばかり湿り気を残すバスタオルからは、家に入った瞬間から香っていた柔らかい洗剤と花の香りがしている。
自分では使わないような香り。
きっと沙羅が持ち込んだ洗剤の香りだろうと理解したが、自分が使っていたバスタオルから知らない香りが漂っていることに、何故かむず痒い思いがした。
しかしそれだけではなかった。
久しぶりに帰ってきた我が家を見渡してみれば、微かに至る所が変化していたのである。
自分ではあまり使わない調理器具が水切りされていたり、テーブルの上には小さな硝子コップに三本ほど花がいけてあったり。
それだけじゃない。
風呂場の横にある洗面所には、自分が使っていた歯ブラシの横にもう一本。見知らぬ歯ブラシが存在していた。

まるで住人がもう一人いるかのように。

そして極めつけはベッドだ。
やはり任務は誰とて疲れるもの。思わずばふっと腰を下ろしてそのままの勢いに横たわる。
一息つこうとしたその瞬間、あの洗剤と花の香りが己の体をまるで真綿で包むように包み込んだのである。
これには呼吸がくっと止まった。
反射のようにのそりと上体を起こす。
そうか、沙羅も此処で寝ていたんだったな。
そんな当たり前のことに気付いてベッドをひと撫ですれば、そこに沙羅の幻影が見えるような気がした。
あいつはどんな思いで此処に寝ていたのだろうか。
鍵を返された時、最後に馬鹿と告げられた声が今でも耳に残っている。
今まで馬鹿と言われたことは何度もあった。
それこそ幼い頃からずっと。
カカシのように天才でもなければ秀才でもない。馬鹿と言われる要素は十分に備わっていた。
けれどさっき沙羅が放った馬鹿という言葉は、今まで聞いてきたどれとも違う気がした。
張り上げた声に乗せた罵声だったにも関わらず、その言葉に何故か温度を感じたのだ。
それはきっと告げられたのが沙羅だったからかもしれない。
沙羅はいつの頃からか俺の背中にいた。
我ながら馬鹿の一つ覚えのように努力と口にし続けていることは理解していた。けれど俺にはそれしか無かったし、努力では誰にも負けられ無かった。負ければ、存在価値が無いと分かっていたからだ。
そんな俺を、沙羅は一度として笑ったことは無かった。
それだけじゃない。何の取り柄も無い俺を憐れみもしなかったのである。
ある頃からかそれは信頼という言葉で俺の中に根付いた。

こいつにならば俺の背中を預けられると。

そして私の背中は任せたと告げる沙羅に対して、この小さな背中を守り抜かねばと心に誓ったのだ。
再びばふっと横になる。ふわりと体を包む香りが心地良かった。
そうだ、これは沙羅の香りだ。
そう思った瞬間、くわりと大きな欠伸が飛び出し、任務に強張っていた体からゆっくりと力が抜けていくような心地がした。
その感覚はとても不思議なものだった。
不思議なものではあったけれど、決して不愉快なものではなかったし、むしろ安心できるものだった。
香りがそっと俺を抱いていく。
馬鹿と、あの真っ直ぐな声が胸に刺さってしこりのように残っていた。

きっと、沙羅は気付いているのだ。
俺が無意識に沙羅に重荷を背負わせていたことを。

本当ならばリーの相談は俺が受けるべきものだし、沙羅でなくてもナウくてムカつくとはいえカカシやアスマなんかに頼むことだって出来たのだ。
それを俺は、リーが訪ねて来るかもしれないからと言って鍵まで渡し沙羅を道連れにした。
沙羅ならば重荷を背負ってくれるのだろうと勝手に期待して押し付けて、俺は逃げたのかもしれない。
あいつの優しさと強さに信頼を置きながら、その実は甘えようとしていたのだ。

それでも、あいつは俺が帰って来るまでこの部屋にいてくれた。
重荷を投げ出すことなく背負い続けていてくれたのだ。
敏い沙羅のことだからきっと気付いている。
それでも何も言わないのは、あいつの俺に対する最大限の信頼の証なのだろう。
閉じそうになる目蓋にいけないと首を振る。
お腹も空いていたし、シャワーにも浴びたい。
生理現象は止められるものでもないらしく、俺は無理矢理香りから己を引き剥がすべくベッドから腰を上げた。
リビングに行って冷蔵庫を開ける。

「......」

まさかとは思いながら冷蔵庫の中の物に手を伸ばせば、それは作り置きされた料理の数々。
それも、どれもこれも一人分には少しばかり多い。
ふっと口元が緩んだ気がした。

「あいつにはかなわんな」

重荷を背負ってくれただけじゃない。
こうしていつ帰ってくるかもしれない俺のために用意していたのだろう料理の数々。
本当に頭が上がらないとはこのことかもしれない。
俺は、全てを受け止めてくれた沙羅に感謝した。
温めた料理は五臓六腑に染み渡り、仄かに香る甘い花の名残はそっと俺を抱き留めた。
今日は久しぶりに良い夢が見られるかもしれない。
そんなことを思いながら、深い深い眠りについた。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
今回は「愛の在処」の続編として、ガイ先生視点で物語を書かせていただきました。夢主が去った後、こんな風に思っていたらいいな……と思わずにはいられません。