ガイというひと | ナノ


体温に溶けていく鍵のぬるさに慣れつつあった。
ガイの家の扉を己の手で開けることにも慣れつつあった。
電気の点け方も、シャワーの出し方も、台所用品一式の置き場所も。
ガイの生活空間の中に入り、まるでガイの胃の中で生きているような気にもなった。
全てに慣れつつあったのだ。
全てを受け入れつつあったのだ。

それでも、私にあの言葉は言えない。

ガイの家の扉を前に、数日前勢いに任せて渡された鍵を見つめる。
妙にダサいストラップも見慣れれば可愛げを感じるようにもなるから不思議だった。
可愛く見えてきたとカカシに告げれば、それはそれは可哀想なものでも見るような瞳を向けられたことは記憶に新しい。
失礼な奴だと思いながらも、ふと我に帰るとやっぱりダサいことに気付いて妙に恥ずかしい気持ちになったりしたものだ。
その背中に憧れ、想いを寄せた男の生活空間。扉を前に、私は随分と大それた場所にいたことを悟る。
どうして私はこの場所にいられたのだろうか。
そんな根本的部分を思考し、当たり前のように行き着いたのだ。
ガイのためだと。
あの太陽のような笑顔を曇らせてはいけないと思っていたからこそ、突如として提案された無理難題に首を縦に振ったのである。

ガイが、とても優しい人だと知っているから。
そして、優しすぎることを知っているから。

一緒に死んでやると告げた背中は、恐怖に耐えているように見えて仕方がなかった。
自分の生死がかかる手術に臨むリー君は勿論一番辛いのだろう。
しかし、手術を受けろと背を押すことも並大抵の覚悟で出来ることではないし、ましてや愛弟子の生死を分けるともなれば辛くないわけがない。己の生死も賭けるのであれば尚のこと。
それでも、ガイは笑うのだ。
笑って、己を犠牲に差し出してもナイスガイポーズで他者の背を押し助けようとする。
優しすぎるが故に。

かつん、かつんと階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
ゆっくりと、まるで身重の女性のような足取りに溜息を吐くしかない。

ほらね。
そうやって人の辛さまで背負おうとするから、そんな顔をすることになるのだ。
階段を上って来たガイの顔を見下ろす。
下瞼に薄っすらと出来た隈が月夜に更なる影を落とした。
吐いた溜息に誘われて見上げられたガイの顔は、こちらの姿を見留めるとまたぱっとその表情を太陽のように明らめる。
まるで影など微塵も存在していないように。

「お帰り」
「おぉ!沙羅か、どうした?こんな時間に」

薄雲が月の下を悠然と過ぎていく。
出来た影が月明かりを遮る。しかしガイはそんなこと関係無いとでも言うように眩い大笑を放ち、空気を軽くしてみせた。
これもガイのオーラのなせる技なのだろう。
さも何事とも無かったかのように振る舞い、重い影を背中へと隠してしまう。
こちらが気付いてないとでも思っているかのように。
その何でもない行動が、思考に張り巡らせていた糸を事もなげにぷつんと切断していった。
肌がふるりと粟立つ。このふつふつと湧き上がる感情には覚えがあった。

これは、怒りだ。

ガイの示した愛を受け入れられなかった本当の理由。
それは、私がガイの愛に理解を示していなかったからではない。その愛自体を疑問視していたからだ。
疑問が不安になり、優しすぎる故の愛の形に怒りを覚えたのである。

どうしてガイばかりが重荷を背負わなければいけないのだ。
どうして自分も犠牲になるなどと言うのだろうか。
どうして、辛い時に声を上げてくれないのだろうか。
どうして、他者がガイの影を見抜けないと思っているのだろうか。

ガイは強すぎるのだ。
強くなるために。身も心も優しさという鎧で武装している。
こうして私が悶々と怒りを抱いている間も、きっとガイはそんなことを気にもとめずに他者を心配し続けるのだ。

「どうした?何か悩みでもあるのか?!悩みは青春のつきものだぞ!そうだ、オレが話を聞いてやろう!」

濃ゆい眉毛が目の前で名案を思いついたとばかりにうんうんと頷く。
ほらね。ガイはいつもそう。
いつも人のことばかり。
当たり前のようにナイスガイポーズを作ってニカリと笑って見せる白い歯に、いつか助言でもしてやろうかと思っていたおかっぱ頭。
いつも通りのガイが私の前にいた。

今さっきまでリー君の重荷を一緒に背負っていたのでしょう?
命まで賭けてるんでしょう?
それなのに、まだ誰かの重荷を背負おうとするの?
ガイの背負っている影を、気付かないとでも思っているの?

そう叫んでやりたかった。
けれど、喉元まで出てきた言葉が声にならなかったのは、あまりにも綺麗にガイが笑っていたからだ。

誰にも影を見せまいと、努力していたから。

私は、その努力が何よりも美しいものだと知っていた。
美しく、愛しいものだと。
だからこそ、私に出来ることは決まっていた。
何も告げず、側に寄り添っていること。
ガイが影を隠し続ける努力をするのなら、それを見つめ続けていよう。
見つめ続けて、それでも努力の裏にある影を理解し続けてあげよう。
それが、私に示せる愛の形なのかもしれない。

それでも。
時々ガイが重荷に潰されそうになっているのではないかと不安になる時がある。こうして、不安が怒りに転じる時もある。
だから、少しだけ。
少しだけなら、私の感情を十把一絡げにして呟く瞬間があってもいいのではないか。
そんな気持ちを込めてガイを見上げれば、きっとまた濃い眉毛をハの字に変えて頓珍漢な答えを返して来るのだろう。
それを冗談めかして聞き流すのも、また私の役割かもしれない。
でも、今だけは。
今この瞬間だけは御託を並べるよりも何よりも、声に出したいことがあった。

凪いだ風がまた木々を煽り、ざわざわと空気を揺らす。

「馬鹿……」

その風に乗せて吐いた言葉は、まるで喧嘩をふっかける幼稚な子供のよう。
案の定聞こえなかったのか、ガイは首を傾げこちらに左耳を寄せた。
既に掌の一部に成り果てた鍵を握り締め、それを勢いのままガイの胸元へと押し当てる。

「馬鹿だって言ったのよ!」

語気の圧力に押されたのか、思わず鍵を受け取ったガイはそのまま唖然と惚けるだけ。
そんなガイを放って、私はズカズカと階段を下りていく。
ガイは強い。その強さは優しさに裏打ちされたものだ。
けれど、その優しさも自分のために使わなければ意味が無い。
馬鹿と叫んだところで、きっとこの気持ちはガイに理解されないのだろう。
それでもいい。
いつか、ガイの側にいてたっぷりと教えてやるのだ。

私の愛の在り処を。

「沙羅!」
「……」

振り返ればガイの背に神々と輝く月がまるで太陽のように昇っていく。

「いつでも来い!」

頼もしいナイスガイポーズが、少しばかり闇夜に覆われていた。
理解されない溜息と呆れに小さく微笑んで見せれば、ガイは満足したのかふんと鼻でも鳴らすようににっかりと笑う。

どうか、あの笑顔の裏に隠された影を見つけてくれる人が多くいますように。
影を見つけ、それでも尚離れずガイの行く道を支えてくれますように。
そして、その役目を果たすのが私でありたいとも強く願う。
だからこそ、今はそっと見守っていることにしよう。

暑苦しいナイスガイポーズの視線を背中に、私は閑散とした夜道を歩き出した。
もう無い鍵の感触を、その手に思い出しながら。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
ガイ先生の背中に多くの感想を頂けたことが励みになり、今回その背中に続く続編を!との思いで執筆させていただきました。ガイ先生……素敵ですよね。