紫苑のまぼろし | ナノ


邂逅


室内に差し込む光の眩しさに瞳を細める。
暫くして明るさに慣れた瞳が捉えたのは、天蓋付きのベッドに上体を起こして座り微笑む老婆の姿だった。
初めて見る人物だ。
目の前の現実にすーっと血の気が引いていく。早鐘のように打っていた鼓動は、たちまちその速度を落とした。

「シカマル君、いらっしゃい。こちらへどうぞ」

気品に満ちながらも老婆特有の嗄れた声。その声に導かれるように室内へと足を踏み入れる。
一歩一歩と距離を詰めると、老婆の皺くちゃな唇が緩やかに弧を描いたのだ。
まるで、彼女のように。
そう、俺が唯一見惚れた美しき曲線の化身のように。

予感は、まだ腹の奥底で燻っていた。

「!」

言われるがまま老婆の元へと歩を進めた先、視界の端に捉えた衣装ケースの上に見つけたそれを前に、俺はただただ言葉を失っていた。
木目の剥がれかけた衣装ケースの上。そこに一つだけ立てかけられている一枚の写真立て。
写されていたのは、まごう事なき彼女の姿だった。

「それは私の若い時の写真よ」
「え?」
「もう随分と昔のものよ。お見合いのために撮ったものなの。あの頃は古い仕来りに縛られたこの家が嫌いでね。よく家を抜け出して紫苑の社で動物のお友達と遊んでいたのよ」
「……」

くすくすと掠れる微笑みに、口元に充てがわれた上品な柳のような手。水分を失って張りを無くしていても、その手の曲線は俺の知る一番美しいものだった。

「私の病気はあまり良くなくてね。近頃まで床に伏せっていたの。今もこの有様だけれど」

子供のように笑う姿に、俺の中にいた彼女にかかる靄が少しずつ晴れていく。まるで雲間から差す光のように。

「その時にね、あの頃に戻って家を抜け出す夢を見たわ。何回も、何回も」

幼子に夢物語を語るような口ぶりに、じわりと目尻が熱くなる。嗄れていようとも、聞けば聞くほど、雨粒のような曲線を描くその声は鼓膜にしっとりと馴染んだ。

「誰もいない。紫苑が綺麗に咲くところよ」

思い出を馳せるように遠くを見つめる瞳は、きっと俺と同じ時間を想起しているのだろう。
あの、刹那的逢瀬の時を。

「するとね、そこには先客がいたの。気怠そうな瞳をして、でも何かに悩んでいて。私のお友達に周りを囲まれて困っていたわ」
「あんた……」

言葉など要らなかった。
一歩、一歩。
俺は、予感を超えた確信に近付いていくだけ。

「沙羅よ、シカマル君」

その笑顔は美しき曲線の化身、そのもの。
微かな糸を手繰り寄せ、望んで、只管に待って。
やっと出会えた彼女に、俺はベッドまで歩み寄ったその場で耐えきれずに膝から崩れ落ちた。

あの場所で俺はあんたを待っていたんだ、ずっと。

そんなことを当てつけに言おうと思ったが、漏れ出る嗚咽に言葉が挟まれる余地などなかった。
あの世界が夢ではなかったこと。今も彼女が目の前にいること。
俺にとっては、それだけで十分だった。
女に涙を見せるなんてカッコ悪い。そんなことを常日頃から思っていたが、やはり彼女の前ではそんな考えも必要のないものだと悟る。
老婆の。いや、彼女の優しい手がいつの日かのように俺の頭を美しい曲線を描いて柔らかく撫でつけていた。
子守唄のような声が、再びあの頃の逢瀬を語り出す。そっと身じろぐ彼女の様子に顔を上げれば、よく見知った番傘がその手に握られていた。

「雨が上がった次の日。本当は貴方にこれを返そうと思っていたの。でも、傘を返してしまえば貴方との繋がりが無くなってしまうと思ったら怖くなってしまった」

だから返すことが出来なかった。そう語る姿に、どうしようもなく愛しさが込み上げてくる。
込み上げた感情のまま、俺は彼女を壊さぬよう強く、それでいて出来うる限り優しく抱き締めた。
体はあの頃の張りある曲線を失っていたが、俺はその美しさを今でも思い出すことが出来る。
それでいいのだ。
美しき曲線の化身。
彼女の頬を流れる涙も、泣き笑いに歪む口元も。俺にとっては、彼女を構成する全てがいつまでも美しい曲線で出来ているのだ。

「貴方に、これを返したかったの」

泣き濡れる姿の彼女は、あの頃のまま。

「俺も。あんたにハンカチを返さないと」

そう呟く俺に、更に彼女はその頬を涙で濡らした。
あの日の雨のように。
そして、雨が上がった清々しい朝のように笑うのだ。

「貴方に会えて良かった」

その嗄れた嗚咽の混じる声音で。
俺は今、美しき曲線の化身と再会した。