いいひと | ナノ


「さて」

そろそろ行くか。
二度目の別れの言葉が響く。
突然の事に思わず声が零れそうになり、慌てて息を止めた。
とっくに魅入られているお客人の瞳を見つめる。
言葉にはしない。
せめていじらしく見えればいいなんて考えて、帰ってしまうのかと瞳にうったえた。
ここで帰るとは、本当に、なんとずるいお人なことか。
己の感情を自覚させておいて、その感情の意味するものを理解しておいて、放っておくなんて。
お人が悪いにも程がある。
言葉になどしてやるものか。
今まで張り続けた虚勢と、賭け事を好む粗野な性質が、まるで挑むかのようにお客人を煽った。
お客人の心が今の私の様に大きく揺れればいい。
揺れて、揺らいで。
凪ぐ暇など与えぬほどに、お客人のその余裕を己の手で乱してみたくなる。

まったく、変わり身のはやい。
己の心を明け透けにされ、隠すものが無くなった私は、こんなにも小悪な女になってしまうのかと、内心苦笑した。
けれど私は悪くない。
客と商売人という立場を先に崩したのは貴方なのだと。せめてもの強がりを唱えた。
先に仕掛けたのは貴方なのだと。
貴方が知らしめるように私自身にかけていた幻を剥いだりしなければ、こんなことにはならなかったのだと、灯る瞳から反らしたくなるのを我慢した。


「また来る」

強がる私の誘惑など痒くもないとばかりに、言葉を紡がれる。
その顔に浮かぶのがどんな意味を持った微笑みかなど、聞くまでなく明らかであった。
引き始めた血の気が、再び頬に集まる感覚を確かに感じながらも、去りゆく背中をひたと見つめる。



「あい」

また、お越しやす。


黄ばんだ暖簾の向こう、外とを隔絶する戸の先へと消えた背中に向けて、頭を垂れた。


▼あとがき
お読みいただきありがとうございます。
訪れる客の少ない薬屋で起こったちょっとした出来事。
失うばかりのイタチにこんな時間があればいいなと思いました。