本当の、君の香りにあてられて(tnzn)

『何が起こっているのか、それは現状分かりません』
 今しがた、しのぶから告げられたことを反芻しながら炭治郎はとある病室の扉の前に立っていた。
 しのぶの話によれば、血鬼術を受けた善逸はここに戻ってきてからずっと眠り続けているらしい。話を聞くことが出来ず、ただ報告には彼が術を受けたとあり、なんらかの影響を受けている可能性は高いと言う話だった。
 故に、炭治郎は今とてつもない緊張とともに部屋の前に立っている。命に別状はないとも聞かされてはいるが、それ以上のことがあまりにも不明瞭だ。
 不安に何度も何度も扉の横へと視線を向ける。炭治郎が何度も向ける視線の先には善逸の名前が示されており、この部屋に彼がいると言うことは確かなようだった。
 しかし、この場で視線だけを彷徨わせながら立ち止まっているわけにもいかない。
 意を決して炭治郎は扉を開き、部屋へと足を踏み入れた。中は静かなものだ、取り立てて音もない。匂いの方もほんの少し鬼のものらしき匂いはあるが、とても落ち着いたものだった。
「善逸……」
 ベッドの上で眠り続ける善逸に呼びかける声も、浮かべる表情もこの上なくせつねげで苦しさと後悔すらも入り混じる。
 単独任務のおりに起こったこととはいえ、何も出来なかったという無力感が炭治郎を包んでいた。
 ベッドに寝かされる善逸は、かすり傷程度しか見受けられず本当にただ眠っているのみという姿だ。けれどこの数日、目をさまさないままだと言うのだから、炭治郎が火強王異常に心配してしまうのも無理はない。
 呼びかけても応えない善逸の寝顔をじっと見つめ、炭治郎はため息をひとつ落とす。
 
 もしも、このまま目が覚めなかったら。
 
 そんな風に考えずにはいられない。微動だにしない善逸を、炭治郎はただじっと見つめていた。
 どれくらいの時間が経っただろうか。炭治郎は善逸の横たえられたベッドの、すぐ傍に備え付けられた椅子に腰を下ろしてぼんやりと彼の様子を見つめ続けていた。
 すると、善逸の瞼がぴくりと動く。突然の変化に炭治郎は驚きと緊張とともに善逸のことを見つめた。
「たん……じろ?」
 薄らと開かれた善逸の瞳を覗き込むと、その炭治郎の姿に反応したのか、反射的に名前を口にする。
「ああ、俺のことが分かるか」
「うん……分かるよ。俺……どうしてたんだ……?」
 記憶が混濁しているのか、まだ身体をベッドに横たえたまま、ほんの少しだけ首を傾げた。
「俺も詳しくは聞いていない。しのぶさんは、善逸が単独任務の時に鬼の頸は斬ったけど血鬼術を受けたって話していたよ」
「そう、なんだ……」
 炭治郎の言葉にまるで他人事のように、善逸は歯切れの悪い相槌を打つのみだ。本当に覚えていないらしい。
 考えてみれば、善逸は戦っている際のことは記憶にないような物言いをすることが大半だ。眠っているようにも思えるし、振る舞いは別人ではないかとすら思えてくる。その様子を考えれば、驚くほどのことでもないのかもしれない。
「うん。大きな怪我はしていないみたいだから、血鬼術についてが確認出来ればすぐにいつも通りに戻れるそうだ」
「そっか」
 心なしかいつもよりも淡白に思える反応を返しながら、善逸は何かを考えている様子だった。
「善逸は今、おかしいと感じることは何かあるか?」
「いや……今のところは特にないかなぁ」
 炭治郎は安堵するとともに、消えることなく彼の嗅覚をほんの少しだけ刺激する鬼の匂いに嫌な予感がよぎる。
「少し待っていてくれ、しのぶさんを呼んでくるから」
「……うん」
 善逸の瞳は不安げに揺れたが、縋ることも拒絶することもなく、それはそれは素直なものだった。
 大慌てで炭治郎は善逸の部屋を飛び出すと、しのぶの部屋へと向かう。不在ではないだろうかと、不安を抱いていたがいつもの部屋へ向かうとそれが杞憂だったことがわかり、ほっと胸を撫で下ろした。
 扉の前に立ち、大きくひとつ呼吸をしてから扉を叩く。しのぶのいつもと変わらぬ穏やかな声が返ってきた。
「すみません」
「炭治郎くんですね。善逸くんが目を覚ましましたか?」
「はい。なので、しのぶさんを呼びに来ました」
「ありがとうございます、すぐに行きます」
 その言葉の通り、扉がすぐに開いて部屋の中からしのぶが姿を現す。彼女は行きましょうと炭治郎のことを促すと、善逸の病室へと足早に向かった。そして炭治郎もしのぶを追ってもと来た道を戻っていく。
「入りますね、善逸くん」
「はい」
 病室の扉を優雅に思えるような動作で叩くと、善逸へしのぶが声をかけた。善逸は短く肯定の返事だけを返すが、やはりどこか彼らしくないように炭治郎には思えてならない。
 この何とも微妙な違和感は、炭治郎を蝕んで主張を続ける。しかしこの正体を、未だ炭治郎は思い至れずにいた。
「善逸くん、私のことは分かりますか?」
 しのぶの問いかけに善逸は首を縦に動かす。神妙な面持ちを見せるのはしのぶの前だからなのか、それとも別の理由があるのかを彼女も炭治郎もはかりかねていた。
「いつもより少し静かな気がしますが、ひとまずのところは問題ないようですね」
 微笑むしのぶの言葉からは、炭治郎とほぼ同様の認識が紡ぎ出される。それでも炭治郎と同様にしのぶも、違和感を感じていることは確かだった。
 善逸は二人の様子に首を傾げる。
「なぁ、炭治郎。俺、本当に鬼と戦ったのかな? いつも戦ってないと思ってるし、今回も戦ってないって思うんだよ。だからさ、俺が血鬼術にかかっているって話がそもそも変なんじゃないかなぁ」
 少し間の抜けたようでもある言葉は、どうにも緊張感に欠けるものだ。そして今回の場合、善逸のこの言葉には、やはりいつものようにあまり信憑性がない。
 鎹雀の報告の方が普段の功績もあって信憑性は高いということは間違いなく、残念ながら今の善逸の言葉は取り合われるに至らなかった。
「でも、善逸からほんの少しだけれど鬼の匂いが残っている……血鬼術にかかっているのは、ほぼ間違いないと思うんだ」
「……炭治郎がそう言うなら、そうなんだろうな……」
「がっかりさせてしまってごめん」
 控えめに言っても意気消沈してしまった様子の善逸に、炭治郎は申し訳なさそうにしながら謝罪の言葉を口にする。
「気にすんなよ、炭治郎の言葉なら信用できるし」
 弱々しい笑顔を向けながら善逸は言葉を紡いだ。そのあまりの弱々しさに炭治郎は自然と善逸の方へと一歩近づいた。
「そういえばさ、炭治郎」
「うん?」
「この間、なんだか話があるって言ってた気がしたんだけど、俺その話って聞いたっけ?」
 善逸が尋ねてきた言葉に、炭治郎が耳を疑う。それは間違いなく先日に終わった話だったからだ。しかも、善逸へ炭治郎が告白をした時のはずなのである。
 こんな大事なことを忘れられてしまっているのかという、その衝撃は計り知れない。炭治郎は絶句し、善逸の問いかけに対して応えることも出来なかった。
「炭治郎?」
 善逸は悪気がある様子もない。ただ純粋な疑問を炭治郎に呼びかけぶつけていた。
 しのぶはこの様子をただ静かに観察している。その瞳に映すのはただ一点、善逸の様子のみだ。
「炭治郎くん。少し外で話しましょうか」
 善逸に向ける言葉を失い、口を開いては閉じるを繰り返していた炭治郎にしのぶは声をかける。
「また来ますね、善逸くん。ゆっくりしてください」
 その言葉を残してしのぶは病室を去り、彼女に連れられて炭治郎も部屋を出た。そのまま廊下を進み続けながらしのぶが再び口を開く。
「何か善逸くんにおかしなところがありましたか?」
「はい……この前にした話を覚えていませんでした。あと……」
「あと?」
「最近、いつも感じていた善逸の匂いと、今の善逸の匂いはほんの少しですけど違いますね……」
 炭治郎の言葉にしのぶは、興味深そうな面持ちで耳を傾げた。
「匂い、ですか」
「はい」
「その匂い……感じなくなってしまったものが意味するところは、ご存知ですか?」
 しのぶの問いに炭治郎は口を噤む。視線は右往左往しており落ち着きのない様子がありありと伝わるものだ。
「ご存知のようですね。言いにくいものかもしれませんが、教えていただけませんか?」
 重ねられるしのぶからの問いに、炭治郎はゆっくりと口を開く。
「多分、誰かを好きだと思う気持ち……じゃないかなと」
 確信を持つに至っていないところと、信じたくないという想いから炭治郎の口ぶりは自然と歯切れが悪いものになっていた。
「なるほど。それは、善逸が炭治郎くんに向ける気持ちが最近とは変わってしまっていて、術が影響している可能性があると……そういうことですね?」
「はい、想像でしかないですけど」
 しのぶは足を止めると考え込むように視線を床へと落としたが、すぐに顔を上げ真っ直ぐに炭治郎を見つめた微笑む。
「何か一つ感情が欠落してしまった、そんな状態なのかも知れません。炭治郎君、ひとつ頼まれてもらえませんか?」
「……? 何を、ですか?」
 炭治郎はしのぶの言葉の真意をはかりかね、疑問とともに首を傾げた。
「今の言葉よりずっと、炭治郎くんは善逸くんに今かけてしまってい気持ちがわかると思います。辛いかも知れませんが、一緒にいて気負わずいつものように善逸と関わって欲しいんです」
「え……」
「炭治郎くんに向けていた何か、それが今失われているということは、一緒に過ごすことで変わることがあるかも知れません。幸善逸から炭治郎くんを避けようとしている様子もありませんし。必要とあれば、遠出をしないという条件でなら外出もしていただいて大丈夫です。頼まれていただけませんか?」
 告げられた言葉に炭治郎は応えずにいたが、はっきりとひとつ頷いて、しのぶに肯定の意を示す。
「わかりました。俺にやれることはやります」
「ありがとうございます。術はそう遠くないうちに効力を失うと思います。それまでよろしくお願いしますね」
 炭治郎の答えと様子を確認し、しのぶは満足げに微笑んでから、彼女の自室へと戻っていった。
 しのぶの後ろ姿を見つめながら、炭治郎はほんの少し恐怖を覚える。しのぶに対して、ではない。善逸に対してだった。
 先日、告白しやっと恋仲になったばかり。そんな矢先の出来事でどうしたらいいのか、炭治郎はすっかり気が動転してしまっていた。
 きっと善逸が抜け落ちている感情は恋――恋慕の気持ちだと炭治郎は半ば確信している。甘くて、あたたかいそんな香は感じられず出会った頃のような友として同期としての好意と信頼ばかりが伝わってくるのだ。
 それはそれで嬉しいものがあるが、やはり複雑な想いを抱かずにはいられない。何と言っても今がまさに一番舞い上がり、一番初めの浮き足立って楽しい頃合いだったはずだ。それがこんなことになってしまうなど、困り果てるばかりだった。
 それでも任されたからにはやるしかない。炭治郎は己を奮起させ、善逸の病室へと戻るべく歩き始める。廊下の床の軋む音は、いつもであればどうとも思わないものだが、今この瞬間においては不安を煽る象徴のようにすら思えた。
 自身の抱く不安を振り払いながら、炭治郎は再び善逸の元を訪れる。
「入るぞ、善逸」
 扉を叩き、声をかけ、中へと入ると善逸は窓の外をぼんやり眺めていた、その視線は何を探すように右往左往して、揺れる瞳からは心細さが感じられる。
「あ、炭治郎」
 ベッドの前に立つ炭治郎の姿に、善逸はにこりと笑った。
「しのぶさんとの話、終わったんだ?」
「ああ」
「どんな話してたの?」
「善逸のかかった術の影響がなくなるまで、俺が善逸のそばにいるようにする、という話だったよ」
「そうなの……?」
「うん、そういう話だった」
 善逸の想像していたものと炭治郎の言葉は異なっていたらしく、首を傾げている。
「ま、炭治郎がいてくれて困ることどころか、助かることばかりだから俺としてはありがたいけどな!」
 しかし次の瞬間には、けろりと笑って炭治郎見上げた。ほんの少し前まで心細そうにしていたことが、まるで嘘のようだ。
「……なぁ、善逸?」
「どうしたの?」
 どうしても善逸がどこか無理をしているような気がしてしまい、炭治郎は口を開かずにはいられない。確信はやはり匂いだ、この部屋に入った時から表情は変わっても匂いはそのままだった。
 だからといって問いかけ手みたところで仕方がないことも分かっていて、それでもなお呼びかけずにはいられない。
「無理、してないか?」
 炭治郎は真っ直ぐに問いかける。
「……やだなぁ、そんなの。お前の鼻なら分かるだろ」
 困ったように笑ってから、次に姿を表したのは諦観だ。
「……ああ。何が、までは分からなくても……何かが足りないと思っているんだろう?」
「うん。ぽっかり穴が空いてるみたいな感じでさ……きっとそこには大事なものがあったはずなのに」
 善逸はあの心細そうな、物悲しい表情を浮かべてぼそりぼそりと歯切れ悪く言葉を口にする。
「変な感じなんだ」
 そう呟くと善逸は胸に手を当てて、大きく息を吐いた。憂鬱の象徴のような重たい息は、見えこそしないが床面にごとりと重たい音とともに落ちたような気さえしてくる。
 そんな善逸の姿に炭治郎はたまらず手を伸ばして、彼の金髪を撫でた。余程、予想外の出来事だったのだろう。善逸は身体を大きく振るわせてから、今度は緊張で硬くなってしまった。
「……なぁ、たんじろ」
「どうした?」
「その音……何の音?」
「と、言われてもな……」
「今のそれは、どんな気持ちの音だよぉ……」
 ほんの少し炭治郎と距離をとろうと、今までいたベッドの中央から隅へと移動する。そしてじっと身体を小さくしながら言葉を発した。善逸は心の底からわからないらしい、炭治郎の抱く彼への恋慕に近い情が。
 炭治郎はそのことに悲しさと寂しさを抱きながら、うっすらと微笑む。
「善逸に対して愛しいと、そして恋しいと思っているよ」
「……それは、どういう気持ち? あれ? 頭がぐちゃぐちゃして……」
「いいんだよ、無理しなくても」
「でも……たんじろ、悲しそうだし……寂しそうだし……」
「大丈夫だ。善逸が苦しむことに比べれば大したことじゃないよ」
 そういう炭治郎は言葉に反して悲しげな声色で応えた。善逸はその音から炭治郎の感情を確かに感じ取って、苦しげに笑い返す。
 二人の間には何とも言い難い空気が流れた。
「なぁ、善逸」
 善逸の方を向いて、改めて炭治郎は彼の呼びかける。炭治郎の声に善逸はじっと耳を傾けた。
「街に出かけてみないか?」
「え?」
「しのぶさんに許可はもらっているんだ。気分転換にもなるだろうし……どうだろうか……」
 恐る恐る炭治郎が口にした提案は、善逸にとっても悪くないものだ。言葉の通り気分転換にもなるし、善逸の現状を打破する結果が生み出されるかも知れない。
 それでもこのまま出掛けて問題ないだろうか、炭治郎に迷惑をかけてしまうことにならないだろうか、などと善逸の頭には次から次へと不安がよぎる。
 それでいいのだろうか、炭治郎はこんな状態で楽しむことが出来るのだろうかと心配になってきてしまうのだ。
「……炭治郎は、いいの?」
「え?」
「だって、俺と一緒じゃ……俺の気分転換にはなるかも知れないけど、炭治郎には迷惑かけてしまうことになるだろ……?」
「ならないよ」
 炭治郎は善逸の不安に対して、はっきりと言葉を返す。きちんと伝わるように、この意図がはっきりと彼の中に染み込むように。
「俺が、善逸と一緒にいたいんだ」
 微笑む炭治郎の顔を見る善逸は、不安と幸せとを混ぜ合わせたような、複雑な表情を浮かべている。
「……たん、じろう……」
 善逸の呼びかける声は、表情に違わぬ感情を映していた。それに対して炭治郎は、慈愛に満ちた視線を向けていて、善逸はその視線の奥にある想いをはっきりと認識することは出来ていなかったが、彼が自身のことを思ってくれているということだけは音で理解する。
「ありがとう、じゃあ……出掛けてみようかな」
 善逸は意を決して、炭治郎の提案を受け入れるとベッドからゆっくりと身体を起こした。
「このままじゃ出掛けられないからさ、ちょっと待ってて」
 そう言うと、すぐに身支度を整えるべく蝶屋敷で準備され着せられていた寝巻きを、徐に脱ぎ始める。炭治郎はその場でどうしていればいいのかわからず、視線を右往左往と彷徨わせた後に善逸から視線を逸らした。
「え、それ何の音……? 緊張?」
 予想外の音が耳に届いて、善逸は驚きとともに炭治郎に尋ねる。
「……そんな感じ、だ……」
「ふぅん?」
 炭治郎が緊張に等しい感情を覚えているのは間違いない。だが、それだけでは決してなく、純粋な恋の想いに止まらない欲がそこにあった。
 今の善逸にはそれは伝わっていない。実際、彼は炭治郎の反応に対して合点のいかない様子だった。
 それでも炭治郎を待たせることは忍びないと思っているのだろう。いそいそと着替えを済ませて、炭治郎の方を振り返った。
「お待たせ」
 にこりと笑う善逸の姿はたまらなく愛おしく思えて、それと同時に悲しさを抱かせる。だがそれをはっきりと示すわけではなく――それでもある程度は善逸に伝わっているだろうことも承知した上で――曖昧な表情で目の前の笑顔に応えた。
「行こうか」
 炭治郎の声に頷くと、二人は連れ立って部屋を出る。ちょうどすれ違ったアオイに、炭治郎が善逸と少し外出をする旨を伝えると、彼女はすんなりと承知して送り出してくれたのだった。
 
 蝶屋敷から歩くこと少し。屋敷の人間も欲使う店の立ち並ぶ通りがある。活気に溢れ、人の往来も多いこの場所は、いつもと変わらぬ賑わいを見せていた。
 炭治郎と善逸は肩を並べ、町の大通りを歩く。どこか緊張した様子の二人の姿は、すっかり街の人々の中に埋もれていた。
「すごい人だな……」
「だなぁ」
 炭治郎の鼻も善逸の耳も、多くの人々の存在を激しく感じ取っていて、そのあまりの存在感は彼らをげんなりとさせる。だがそれと同時に、活気のある明るい人々の姿に対して心躍る感覚があるのもまた事実だった。
「善逸、どこか行きたいところはあるか?」
「甘味! 甘味食べようぜ!」
 炭治郎の問いかけに善逸は瞳を輝かせながら答える。
「ああ、いいぞ。どの店にする?」
「うーん……そうだなぁ」
 善逸はそう言ってきょろきょろと辺りを見回し始めた。特に気に入ったところがある、と言うことでもないらしい。
「あの店! 団子が美味しそう!」
 ややもしないうちに善逸はひとつの店を見定め、炭治郎に提示する。彼の指した店は、その言葉の通り美味しそうな団子を看板商品として掲げた店で、甘味にそこまでこだわりのない炭治郎からしても興味のそそられるものだった。
「行こうか」
 促す炭治郎の言葉と進みを追う善逸の足取りは軽い。炭治郎の嗅覚にも彼の楽しげな感情が匂いとなって届いた。
 店は賑わいを見せていて盛況な様子だったが、存外すんなりと中へ通され席へと案内される。席を埋める客のざわめきこそあるものの、静かで落ち着いた雰囲気のある場所だった。
「すんなり入れてよかったな」
「だなぁ。もっと時間かかるかと思った……」
 向かい合って腰を下ろした二人は、互いに安堵の表情を浮かべる。待ち時間は少ないに越したことはない、目当てにも早くありつけると言うものだ。
 二人は揃って店の看板商品であろう団子を注文する。店員がいなくなってからずっと、善逸は炭治郎と店の奥へ視線を行ったり来たりさせていて、余程この店の団子に期待を寄せているのだろうことが感じられた。
「楽しみだな」
 善逸の視線が自身に向いた瞬間、言葉とともに笑いかけてみると一度視線を逸らしてから、何故か照れ臭そうにはにかんで返してくる。想定してなかった姿に、炭治郎の中で善逸へと愛おしさがぐんと増した。
「……! 何、その音ぉ……」
 面と向かっている以上、炭治郎の変化は善逸に筒抜けだ。あまりにも大きく彼に届く音が変化したためだろう、善逸はあからさまに怯えた様子で眉間に皺を寄せた。やはりまだ、色恋についての感情は善逸から抜け落ちたままらしい。
「ごめん、何でもないよ。善逸があまりに楽しそうにしているから」
「楽しい感じとは違う音みたいだったけど……まぁ、さっきも今も、そんなに悪い音ではないってのはわかったよ」
 そう言いつつも、知らない音であることに変わりはないから合図をくれ、などと告げてくるあたりに得体の知れないものへ少なからず警戒しているのは否めなかった。 
「あはは……気をつけるよ……」
「気をつけるじゃだめなんだよぉ」
「悪い……」
「……いや、俺もごめん。何でだろう、すごく落ち着かなくなっちゃって……」
 申し訳なさそうに視線を落とす善逸は、自身の行動や言動について困惑しているようで、声を発する姿もどこか苦しげに炭治郎には思える。
「無理はしなくていいよ。また嫌なことがあったら言ってくれ」
「ならさ……」
「うん?」
 気遣いでもあり、ある意味諦めでもあった炭治郎の言葉に対し、善逸は静かに言葉を返そうと口を開いた。彼の表情は俯き気味ではっきりとは見えないが、炭治郎の鼻に届く匂いには少し怒りの感情が混ざっている。
「我慢するのはなし! それと嫌なんじゃない、わからないだけだから!」
 少し語気を強くして善逸はいつもよりも、殊更はっきり主張した。
「だからさ、気にしないでくれよ」
 そう続けると、今度はにこりと笑う。
 確かに善逸の言葉の通りだ。血鬼術にかけられているから、善逸を傷つけたくないからと、言い訳をしながら妙に気を使ってしまっていた。これでは腫れ物に触るようにおっかなびっくり手を伸ばしているのと何ら変わらない。
「ごめん、俺は善逸に失礼なことをしていたな」
「だから気にすんなって。俺のこと色々考えてくれたんだろ? それはその……嬉しかったし」
 この言葉に恋心も下心もない――実際、そういった匂いは全くしない――のだから困りものだ。
「はぁ……善逸……」
「え?」
「そう言うところだぞ……」
「えぇ〜! 何それ、酷くない
 そんなやりとりをしているうち、二人の手元には注文した団子が届けられる。それは串に刺さっていて、団子の表面には薄らと焼き目が入っているのが見受けられた。さらには上から飴色をしたたれがかかっていて、香ばしい香りが食欲を掻き立てる。二人の目はすっかり目の前の団子に惹きつけられてしまっていた。
 善逸の瞳はまたきらきらと輝き、すっかり目の前の団子に釘付けだ。いただきますと、手を合わせるのもそこそこに善逸は目の前の団子にかぶりついた。
 するとその表情はみるみる幸せに満ち溢れ、黙々と団子に舌鼓を打つ。善逸の様子に小さく微笑んで、炭治郎も自身の分の団子を口へ運んだ。香ばしくも甘い味と香りが鼻を抜け、善逸の幸せそうな様子に改めて納得する。
 黙々と団子を食す二人だったが、ふと目を向けたときに善逸が口の端にたれをつけたまま、一心不乱に団子を食している姿が目に入った。
「善逸」
 炭治郎は自身の団子を一度皿に戻すと、善逸の口元へ手を伸ばし、口の端に残るたれを拭い取った。
「!」
「よし、とれたぞ」
「お前! 急に何すんの……びっくりしたじゃん」
「ああ、ごめん」
「いや……いいんだけど。ありがとう」
 恥ずかしそうに礼を述べる善逸に、どういたしましてとにこやかに返しながら、彼の様子のほんの少しだが確かな変化に喜びを抱く。照れ臭そうにする、ということは少なからず恥じらいがあり、喜びがあるということだ。それは現状抜け落ちてしまっているらしい善逸の感情に繋がるものがある、ということでもある。
 連れ出してよかった、炭治郎は心底そう思いながら善逸のことを見つめた。
「食べないのか?」
 もごもごとまだ団子が口の中に残ったままなのだろう、少し聞き取りづらい声で善逸が首を傾げながら尋ねた。
「え、ああ……食べるよ」
 慌てて一度おいた団子を持ち上げると、そのまま口に運ぶ。やはり甘い味がした。
 
「あの店はあたりだったなぁ」
 善逸は満足そうに笑う。二人は団子を食し終わって、再びあてもなく大通りを肩を並べて歩いていた。
「うん、とても美味しかった」
「だよな」
 善逸の笑顔につられるように、炭治郎もまた笑顔を浮かべる。満足感を確かに感じる、そんな時間だった。
「なぁ、炭治郎。この辺で行ったことないところってどこだっけ?」
 徐に善逸が問いかける。炭治郎は顎に手を当てて、ほんの少し考えるようにしてから口を開いた。
「この左手を少し行ったところに、すごく綺麗な花の咲く場所があると聞いたよ」
「そんなところあるの? どんな感じなんだろ、行ってみねぇ?」
「そうだな、話に聞く通りの場所なら禰豆子にも見せてやりたいし」
「決まりだな」
 善逸の言葉に炭治郎はしっかりと頷くと、記憶をたどり目的地へと歩き始める。少しずつ賑わいのある喧騒からは離れ、草木の鮮やかな緑が目に強く映り始めた。
 やがて、細い道を抜けると開けた場所に出る。二人以外には誰もいない美しい場所が目の前に広がっていた。。そこには多くの草木、そして花が咲き乱れ、目を引くのは多くの藤の花だ。
「すごい……藤重山ほどではないけど、ここの藤の花も見事だな」
「うん……」
 感動しきりの炭治郎に対して、善逸は呆然としていて反応のも薄い。
「善逸? どうかしたのか?」
「いや……なんか……違和感が……」
 炭治郎は善逸の反応を見つめながら、ふと思う。善逸の身体に残っている血鬼術と藤の花が、もしかすると反応しているのではなかろうかと。
「善逸、ここを離れよう」
「……いや、大丈夫」
「善逸!」
 強引にでも離れようと善逸の手を掴むが、その炭治郎の手を振り払い彼は動こうとしない。善逸の身体がぐらりと揺れる。
 堪らず炭治郎は善逸の身体を後ろから支えるようにして抱き締めた。
「……たんじろ?」
「心配なんだ。このままでいさせてくれ」
「……うん」
 遠いところに意識があるかのように、ぼんやりと空を見つめ、そして藤の花を見つめるばかりだった善逸が、ふと振り返って炭治郎へと視線を向ける。
 善逸の手が、彼を抱きしめる炭治郎の手に触れ、愛おしいと言わんばかりの手つきで撫でた。
「善逸……」
「あったかいな」
「ああ」
 ふわりと甘い香りが炭治郎の鼻を掠める。間違いない、これは求めてやまなかった善逸の――。
「ありがとな、炭治郎」
 善逸の声からも、態度からも、その全てから、いつもと変わらないものを感じる。善逸が目を覚ましてからずっと、気配も影も形もなかった感情が、ついに戻ってきた。そう確信させるには充分すぎるものが、ここにはある。
「……善逸っ」
 炭治郎は抱き締める腕に力を込めながら、善逸の肩に顔を寄せた。
「くすぐったいって、炭治郎」
 くすくすと笑いながら、善逸は炭治郎の腕をさらにしっかりと握る。まるで自分はここにいると、存在を示しているかのように。
 炭治郎は腕を一度解くと、くるりと善逸の身体を自身と向き合うように向ける。勢いの良すぎる動作に善逸が一瞬よろけるが、そんなことはお構いなしに炭治郎は再び彼を抱きしめた。
「今日はもう長男お休みなのかよ」
「うん、今は休みだ」
「そうかよ」
 善逸の言葉に甘えるように、炭治郎は彼の肩口に顔を埋める。炭治郎の行動を止めることもなく、善逸はただ彼の背に腕を回してしっかりと抱きしめた。
「この匂いが、この香りが、欲しかったんだ。大好きだよ、善逸」
「うん、俺も。大好きだよ、炭治郎」
 二人はこの瞬間に酔いしれる。誰もいないこの場所で、見ているのは藤の花と太陽だけだった。
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