「あ、ねこだ」

ちいさな裏路地、それでもふたり並んで歩くには充分な幅のある、石もきれいに敷かれた道。ほんの少しうす暗いだけの、なんてことはないこの風景に溶け込んでいた、気ままそうな黒い野良猫を、歩くすがら優美が見つけた。

表の通りや人目を避けて歩くことに、優美を巻き込むのは良い気がしなかった。それでも、はぐれない為にと理由をつくってつないだ手に、時々やわらかなちからを送ってきたり。ふと右の肩下に視線を落とし、それに気付いた優美と目が合えば、こうして手をつないで歩けるのがうれしいと言わんばかりに頬を緩めてみせたり。
そんな優美のようすだけでも、後ろめたい気は徐々に和らいでいった。

「ねこさん、こんにちは。おひるね中ですか?」
「…構いてェなら行ってこい」
「いいの?やったあ」

そとのものに対する好奇心を遮ることも、立ち止まった優美を促す気にも当然なれず、ただ成り行きを見守る。忍び足で猫の斜め前まで歩み寄った優美は、しゃがみこんで視線を合わせようとぎりぎりの高さまで屈む。小声で優美に話しかけられた黒猫は、へたりと寝転んだ姿勢のまま、ゆっくりとつむっていた目を開いた。

「きれいな毛並みだねー」
「ここらの人間が餌を与えて世話を焼いているからだろうよ」
「じゃあそれで人馴れしてるのかな。全然逃げようとしないね、このこ…あ、」

見ていて気持ちのいい、きれいな伸びをしたかとおもうと、つづいて猫はすたすたとしなやかに歩く。そしてその前足は、優美の足元のそばでぴたりと止まった。

「……!はうぁ…かわいいねえ、よしよし」

ちゃっかりと差し出した頭を、毛の流れに沿って優美にそうっとなぞられ、喉元をくすぐられた猫が、きもちいいよとでも言いたげに目を細める。
手持ち無沙汰になった自分の右手を眺め、息を吐いた。おなじくとなりにしゃがみ、なんとも至福なようすの猫と優美を横目に眺めていれば、いつかの思い出が目の奥に呼び起こされた。




俺のほうから優美の後を追いかけることが増えていったきっかけは、優美が十三になった日の、あの出来事。それによって出した、俺の答えのせい。

恐れを抱いたのは、優美の身体の変化でも、変わらない無邪気な中身に対してでもなく、自分の変化。そして、恐れた為に張った予防線は、それすらも恐れになった。たとえほんの少しの、頼りない一線だろうと、俺のつくったものならば、優美がそれに気付かない訳がなかったのだ。
拒まれ、傷つくことをおなじように恐れたのか、歳を重ね単純に自立心が生まれていたこともあったのか。自分と優美のために用意した部屋から、見知ったせかいから離れ、ふらふらと船のなかをひとり歩くようになった優美の背中に手を伸ばし、忠告した。

「あまり俺から離れるなよ、優美」
「どうして?晋助から離れたら、どうなっちゃうの?」

本当に、どうなってしまうんだろうな。
おまえのことを縛り付けて、俺から離れようとする足なんざ奪って、誰の目にも入らないよう、おまえを永久にどこかへ閉じ込めて。
相も変わらず無垢な目で、悪意を知らない声でそんなことをたずねる優美に、この頭のうちを耳打ちしてやれば、おまえはどんなことばを返すんだろうな。

「ねこになるんだよ、俺もおまえも」

やさしすぎる程に濁した答えだったはずだ。案の定優美は目をきらきらと輝かせ、想像のせかいに夢を膨らませる。いつまでも、そのままでいてほしかった。爛々と輝く両目のまま。俺を追いかけてくる足音が、変わらず鳴り響いてくれるままで。




黒猫の背をそっと行き交う優美の手を見つめる。つやのある毛並みの上で、まっしろな指が映えていた。自分も猫になれれば、猫だったならば、その白い肌へ、きれいな皮膚へ、躊躇することなく本能のまま、爪痕をつけられるだろうか。傷つけることができるだろうか。

「ねえ晋助」
「何だ」
「わたしねー、ねこになって生きてみるのもいいなあって、そうしていろんなとこを冒険してみるのも、たのしそうだなって……前はそうおもってたんだけど」

ねこになるんだよ、俺もおまえも。
あの答えは、真実を濁した喩えであり、夢見がちな優美のためにつくってあげた空想でもあり、

「でも、わたしはこれから晋助にたくさん うんとたくさん、すきーって、だいすきだよーって言いたいんだ」

そしてほんのちいさな、馬鹿げた願望でもあった。
のみ込まれてしまいそうな夜のあいだを、優美の腕の中で過ごしたかった。そのまま心ゆくまで、朝寝をつづけてみたかった。そんなあたたかすぎる夢も、叶うだろうかと。

「だから、しばらく晋助と会えなかった間にわたしたちがねこに成らなかったのは、わたしがそうしたいって、お願いしてたからなんでしょ?」
「…は?」
「え、?だってわたしと晋助は、離れたらねこになってしまうんだって、…」
「…あァそうだ。優美の言った通りだよ」

俺がねこに 獣に、ならなかったのは、おまえが会いたいと願ってくれたからだ。
もしも、おまえとさよならをすることになれば、俺が本当の獣に成ってしまうのも。優美が言った通りで間違いないんだ。

ほんとうの意味を、おまえは知らないままでいい。おまえが信じていることのままで、優美はそれでいいんだ。

「やっぱり!だってね、わたしずっとお願いしてたんだもん。晋助が叶えてくれたんだね」

約束した、何だって叶えてやると。おまえのそばに居られるなら、自分のなかにいる獣くらい躾けてやるさ。

そう決心をした矢先であるにもかかわらず、俺とつないでいた優美の手に撫でられ、優美に笑いかけられるこの生き物のことを、微かに羨んでしまったのも事実で。それは黒猫のひげを軽くつついたちいさな攻撃で、消し去ることにした。

「あっ!」
「…何だよ」

咎められるのかと身構える。猫も、俺に寄越したのは優美に構われたときとは打って変わって、ぎろりとした鋭い視線だったが、負けじとそれに睨み返す。好き勝手優美に撫でられやがってこれくらいで済んだのはむしろありがたいことと思え。

「うらやましい…!今やったの、わたしにも!」
「……今のって何だ」
「ほっぺた、つんつんって!いいなぁ。ねぇ晋助わたしにもしてー」
「………ハッ」
「え、な、なにが可笑しいの?」

結局、うらやましいと感じるのは互いにおなじで。違ェのは、すなおにうらやましいとくちに出来るとこだけだ。

「……優美、」

しゃがんだままとなりへにじり寄ると、石畳みと草履の裏が擦れて音が鳴った。きょとりとまばたきを繰り返す優美のかおに影が差す。

「しんす、…っん」

あたまのうしろを引き寄せ、くちびるを重ねる。名残惜しいが一度だけに留めることにして、すぐにそこから離れ、しかしゆっくり動き、かおとの間に距離をつくった。視線が合い、一瞬間が空いたのち、目の前にはみるみるとほころんでゆく口元。それと同時に姿をみせる、右頬のえくぼ。
そこを、人差し指で突っついた。黒猫にしたのとおなじよう、しかしいっそう柔らかく、やわらかくした、ちからで。

昨夜手を上げたのは、左頬だった。無意識にそうしたのかもしれない。
この、昔からずっと変わらない 優美の右頬のえくぼが、俺はすきだったから。

「晋助、すきー」
「…そうかい」
「にゃあ、」
「あっごめんね、ねこさん。よしよし」
「……オイ」
「? なあに?しんすけ、」
「…いや、何でもねェよ」

鳴き声を、構えという要求と受けとった優美が、ふたたび黒猫の喉元をくすぐる。俺には、おまえらだけで勝手にいちゃついてくれと言ったように聞こえたんだが。

笑うおまえはなにも知らなくていい。ほくそ笑む黒猫と俺が、ひそかに火花を散らしていることなんて。
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