晋助のそばにいられる。ごはんをいっしょにたべることができる。おなじ景色をふたりで見ることができる。背中に向かってなまえを呼べば、振りむいてくれる。そうして、わたしのなまえも呼んでくれる。

そんなひとつひとつの幸福が、ちゃんと自分のものであるのに。それが永遠のものだという、約束までしてくれるというのに わたしは忘れてしまいそうになる。晋助といっしょならば、しあわせなんて、ちいさなスプーンで掬えるくらいで充分だということを。
いつからか、もっともっとと望むことをとめられなくなってしまった。それが、怖くてたまらない。




「欲張ったら、いつかわたしもおんなじようになってしまうのかな」

晋助はいつだって、ことばはもちろん、声音やしぐさまでも使ってわたしの栓をやさしいちからで緩めてしまう。

「何の話だ」
「…いとうさんの、こと」

わらう晋助からかおを逸らして、わたしは卓袱台の上の風呂敷に視線をもどした。切なくなってしまうほどのその表情に、涙はなんとか堪えることができたけれど。
きもちは押し留められなかった。一度くちがその不安について話しだすともう止まらなかった。

うしろからわたしのくびに回ったままの腕に、そっと手を添える。着物の袖口がくたりと捲れていたから、肌へ直にふれることができた。
手首はきゅっと締まっているし、着痩せすることもあってどことなく晋助は細身に感じるのに、それでもこの腕は、わたしにはない力強さをもっている。いつだってこうしてだきしめてもらった。晋助の腕に、守ってもらった。

「わたし、晋助とこうしてるとしあわせ」

存在をたしかめるよう、ぎゅうぎゅうに抱き合うことも。心地よい感触に焦がれて肌にふれることも。わたしが晋助を見つめると、晋助もわたしを見つめ返してくれる。そんなもったいないくらいのしあわせを、晋助が当たり前にしてくれた。



「すっごくすっごくしあわせ。もうこれ以上のことなんて、なんにも要らないって…  昔はそうおもってた」


「たまに、たまにね……足りないっておもうの。もっと晋助がほしくて、くるしくて泣きたくなる」


「わたしが欲張りになったから ばちが当たって、今あるもの全部をなくしちゃいそうになったんだろうね」


「伊東さん、 には、 最後まで伊東さんのことを見捨てなかったひとたちがいたけど」



怖くてたまらない。満たされないのならいっそ壊してしまえと。そんな感情が生まれてしまうかもしれないことが。

「わたしはちがう…きっとひとりぼっちになってしまう、」
「ならねェ、俺がいる」

パッと突然電気がついたときのようなきぶんになって、例えだからもちろん部屋の明るさが変わることはなかったけど、空気は一変した。
わたしが話し続けているあいだ、ずっと黙っていたうしろの晋助が寄越したのは力強い否定のことばだった。普段のわたしならそれをしっかりそのまま受とった後、じゃあずっといっしょにいてね、なんて負けじとつよく返したとおもう。
けれど今は、すなおになれそうにない。

「独りになんざならねぇ ましてや、お前は奴と同じことを仕出かしたりもしねェよ」

わたしの奥底までをおどろくくらい見透かした晋助が、そう言ってくれるのに。胸のなかでどんどんおおきくなってしまった、ぐにゃぐにゃと巣食う怖いものはまだ消えてくれない。どうすればいいのか分からなくて、口調は切羽詰まってしまう。

「しないんじゃなくて、出来ないっておもってるんじゃないの?わたしが、…お侍さんじゃないから」
「違う」
「じゃあどうして、」
「言っただろう」

だきしめられていた身体を離された。それにさみしさを感じるよりも前に、晋助がわたしの肩を掴んでぐっとちからを入れた。そのままからだが向き直ると、わたしたちは今度こそお互いを正面から見つめあった。動いたことで畳と擦れた脚が、掴まれた両肩があつい。
ひとつだけの目が、わたしをまっすぐ射抜いている。

「おまえは、きれいな目をしていると」



視界がゆらいだ。
それは、晋助とわたしが初めて出会ったとき、晋助がわたしにくれたことばだ。月がとてもきれいな、さむい夜だった。しろい息、こごえて動かなくなってしまった手足、まっくろな空と、まっしろな地面。初めてもらった、あったかさ。
そのひとつひとつをおもいだすと、感覚が鮮やかに蘇って、すぐにでも泣いてしまいそうになる。かなしいからじゃない。
あのときに在ったもの全部が、わたしと晋助を繋げてくれた。

「…忘れちゃってるかとおもってた。そんな昔のこと」
「侮るんじゃねーよ。おまえこそ、あの頃の記憶は芋のことばかりなんじゃねぇのか」
「ちゃんと覚えてるもんばか、……晋助のばか、」

涙声になって出たわたしの渾身のわるぐちは、わるぐちとしての効果を全く成していなかっただろうと自分でも分かる。

「そうだな、俺も優美も」

弱々しく言ったばか に対して、いつものように鼻で笑われることも言い返されたりもしなかった。ただ、晋助はわたしの言ったばか、にわたしまでも加わえてしまったけれど。それを拒むことはできそうにない。

「ばかだよなァ、忘れるわけがねェのに」

晋助がゆるやかな動作でうつむきながら、目をそっと伏せて、言った。普段ならば言い返してしまう馬鹿 ということばにまで、しあわせをもらってしまう。それはじわりと染み入って、黒いものも、あんなに怖かったものもすっと溶かすように消していってしまった。
ふたりして忘れたとおもってたなんて、そんなはずがないのに。ほんとうだね、 ばかだよねえ。

差し伸べてくれた手も、ぬくもりもことばも、あの始まりで晋助にもらったもの全部。わたしの、目には見えない宝箱に、色褪せないままずっと仕舞っている。だれにも覗かれないよう、盗まれてしまわないよう、大事に大事に。

「おまえはあの頃となにも変わっちゃいねえ。だから、おまえが怖がるようなことになんざなったりしねえよ。何度でも言ってやる」

晋助は、始まりのきおくだけを頼りにそう言い切った。わたしが怖がることを、晋助とさよならするかもしれないという想像をあっさり消してくれた。

「馬鹿なのはお互い様だったがな、欲張ったのも、 間違えたのもおまえじゃなく俺だ」
「ちが、」
「俺が決断しなきゃならねーことを先延ばしにして、逃げ続けた結果だ」

ちがう 逃げたのはわたしだと、晋助の答えを聞くのが怖くて飛び出していったわたしのほうだと。
ずっと過去のわたしを庇ってくれる晋助に、そうじゃないよと返すためくちを開くと、なまえを呼ばれた。

「なァ優美」

肩に置かれていた手のかたっぽが、まだ少し水気を含んでいるわたしの髪にふれた。さっきまでうつむいていた頭が正面をむく。ぴたりと合わさった、きれいな晋助の瞳に、わたしは伝えようとしていたことを飲み込んでしまった。
晋助のことばを、聞かなきゃいけないとおもった。

「あの時のように、まだ俺のことを好きだと言えるか。それとも、 俺を恨んでしまったか」
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