二度目の平手打ちに苦いきおくが呼び起こされた。まだガキだった頃の優美が、自らその身体に刃を突き刺そうとした、忌ま忌ましい記憶が。
あのとき恐ろしい結果とならずに済んだのは、すんでのところで優美に喰らわせた俺の平手打ちのおかげだ。

その最初に比べれば、今回の出来事はなんてことない、年月を重ねてゆけばいつの日か、思い出話に出来るくらいのものにきっと成るだろう。こいつが生きて、俺の前に戻ってきたのだ。だからなんてことはない。
それでもまた、掌に込めた力を加減することはできなかった。きっと優美にとっては、とおい昔の思い出であり、だが俺にとってはつい昨日のことのようで あのときの色も、温度も感覚も、すでに片一方だけとなっていた目が鮮明に脳裏へ焼き付けた。まるで忘れることを許さないとでもいうかのように。

忘れるわけがない、忘れたくてもできやしない。あのときの優美を、俺は決して忘れてはならない。苦々しく、そしてこの存在のそばを離れられないと悟った、そんなきおく。






あれからしばらくして、優美はねむってしまった。泣きじゃくる姿に堪らず腕をのばし、引き寄せ、俺は優美をひざの上に乗せたままゆりかごのように自分の身体を左右にゆらしてやった。背中を支えた手のひらで、ゆっくりとしたリズムを作りそこをよわい力で叩く。すると、しゃくり上げていた声はだんだんと止んでいき、優美のまぶたが徐々に落ちてゆくのが かおを見ずとも感じとれた。
むかしとおなじようにこうして宥めてやれば、夜泣きが落ち着くこともやがて寝入ってしまうことも知っている。知れるくらいの月日を、俺たちは共にしている。

耳を澄まさなければ聞こえないほどの微かな寝息が、こいつが生きていることを証明している。背中を撫でたときの、たしかにあった感触には安堵よりも切なさすら覚えた。この頼りない身体は、きょうだけでどれほどの現実を受けとめたのだろうかと。

今は一寸でも距離ができるのは癪であったがほんの少しだけ身体を離し、ちからが抜け俺の肩に項垂れるかおをそっとのぞきこんだ。久方振りに目にした優美の寝顔に、なんともいえぬため息を吐いた。

「優美?」

ささやくように呼びかけても、返ってくるのは規則正しい寝息だけ。
完全に意識がおちたのを確認し、離れるのは不本意だが仕方なしに身体を横抱きにすると、優美が先ほど一瞬だけ腰をおろした座布団にねかせてやった。
一応は敷物といえど、座るためにあるものだ。ねかせられた部分は頭部くらいで、くびから下はほぼ畳の上であるが致し方無い。ガキの頃より育った身体はもう、座布団如きのおおきさでは当然その身をすべて収めることができない。そんなことにどうしようもなく胸が締めつけられる。

きっとこいつはすこしずつ 俺の与えたもの、みせるものを毎日噛みしめるように。長いときをかけてここまで育ってきたのだろうが、俺にとってはその数年などあっというまだった。

だっこ、とねだられれば今もまだこの身体を容易く抱きあげることができる。それでも、もう足元から俺を見上げ、生えかかった歯をみせては無邪気にわらう、ちいさかった優美ではない。ここにいるのは、あのころと変わらず俺の隣にいたいと望む、だがわずかばかりに 女と成った、優美だ。




「俺はきっと、此の先お前がふつうに生きて得られるしあわせとやらを、与えてやれねェだろうよ。だが、代わりといっちゃあなんだが約束をしてやる。おまえの望むことをなんでも 何度でも。全部を耐えなくていい。ガキのうちから我慢ばかり覚えるな。しばらくはそれで…すまねェが辛抱してくれ、

この世界を終わらせたいつの日か、必ず俺がすべて叶えてやるから」




戦が終わり、俺はなにもかも壊す道を、優美はそんな俺と共に生きることを選んだ。そのときに伝え、誓った言葉たちを再びくちにする。一言一句も溢さず、おなじように。

あのころの優美はまだ、両指の数にも満たない歳だったのでどれだけ理解をしてくれたのか、それは分からない。今の優美なら幾分か自分で噛み砕けるのだろうが、如何せん寝入ってしまっている為また伝わることはないだろう。

理解してくれたその先のことを、どうこう望んでいるわけではないので、別段構わなかった。優美に言い聞かすために声にしたわけでもなかった。だが俺のほうは、最初に伝えたときの感情を呼び戻す必要があるとおもったのだ。

この ちいさくて、やわらかくて、いとおしいものを護りたかった。やわらかい色の花が咲いたような笑顔を、どうしてもそばで 護りたかった。








「選ぶも何も、お前はたったひとつの生き方で進まざるを得なかったのだろうなァ」

なぜなら、生きる術をなにひとつ知らなかった優美に、俺が与えた道は一本だけで、問答無用でそれを選ばせたのも俺であるから。唐突に三味線の音とともに漏れ出た声は、今しがた部屋に戻ってきた男の耳へ届いたらしい。

「歌詞のインスピレーションでも浮かんだでござるか」
「言葉遊びに出来るくらいのものだったら少しは清々しいことだろうよ」

万斉は俺の返しにふむ、と考えるような仕草をみせると未だ目を覚まさない優美のそばで片膝をたてた。傍にその手にもった救急箱を置き、腫れてしまったほおを指の先でひと撫でする。一連の動作に、おそらく氷嚢が用意されているしろい箱の差し入れによって生まれたわずかな感謝の気は、一瞬で苛立ちに覆い尽くされた。

「血ィ落としただろうなテメェ、銀時とやり合ったそうじゃねえか」
「当然でござるよ」
「いや、んなこと関係ねぇ。そいつにさわるな」
「すまない。晋助には到底及ばぬが、拙者なりにも肝を冷やしていた故今夜だけは大目に、」
「誰が肝なんざ冷やすか」

万斉がめずらしい物言いをしている。今回の件で優美の最悪の事態を想像してしまう状況もあったらしい。腹立たしいことだ。俺が叩いた反対側のほおには、すでにガーゼが貼ってあった。あごには絆創膏。
誰が施したのかなんて愚問だ。その前に先ず、誰であろうと気に食わない。俺以外の野郎が優美にふれたこと、痛々しい怪我までしたというのに、その場で護れなかったことが。

「のたうち回るだけだ。肝じゃなく、黒いもんが」

うでに巻かれた見慣れぬしろいスカーフも、そこに滲み出ている赤色も狂おしいほどに腹が立った。優美の言った通り、自分は迎えにすら行かなかったそのくせ、一丁前に醜いきもちが湧き出る。

「選べと強要された行く末で、あんなにも屈託の無い笑みが生まれるものか」
「…あ?」
「又、勝手に手離された結末で優美はおなじように笑うことができるだろうか」
「なにが言いてェ」
「ふたりを見ているとよい歌詞が生まれる」
「果てしなく似合わねーな」
「全くもってその通りでござる。彼女くらいだ、果てしないほどに純粋というものが似合うのは」
「…そうだろうなァ、どの家庭の娘にも負けねェだろうよ」

俺や万斉にはあまりにも似つかわしくない単語がでる。万斉はそれが可笑しかったのか、く、と喉をしずかに震わせた。家庭  それは優美が、ふつうに生きて得られるしあわせ、その中に入っているもののひとつだろう。

伊東から優美の居所を聞いたとき、誓いも覚悟もそろそろ消えてゆく潮時だと感じた。ここまで育った。もう俺がいなくとも生きてゆく術はいくらでもあるだろう。なにより、碌でもねぇものばかり見せてしまうかもしれないこんなところよりも、地に足つけて、キレーなもんみて笑って、そんな生き方をさせるべきではないかと考えた。
日増しに整ったかおつきになってゆく優美を街へと連れ出せば、集まる男共の視線に気付かないわけがなかった。俺の欲目ではない。誰がみても愛らしく、うつくしい少女になった。
それなりのところへ養子にでもなることが出来りゃ見合いの話も難なく舞い降りてくるだろう。俺のことを忘れてどこかで笑っていてほしい。しあわせになってほしい。

そんな選択、我慢ならなかった。耐えられるわけがないとおもった。吐き気がする。こいつは月から来た姫でもねェのに。
それは怖いことだと優美を泣かせてしまうなら、結局意味を成さないことだ。それよりも泣こうが笑ってようが、俺のそばから離れないでほしいというただのエゴが上回った。

「晋助もおなじでござるな。護るものは何一つ変わっておらぬようだ」
「…誰と比べてやがる」
「愚問ではないか」

男などいつも勝手な生き物で、俺も例外ではない。優美が俺のことを人間だと、そう言ってくれた。勝手であり、且つ俺は人間だから、こうして戻ってきてくれたことに安堵している。やはり、手離したくなんかない。

「俺の護るものは今も昔も何一つ変わらん…と」
「……」
「最後まで聞きたくなってしまったでござるよ」
「黙れ」

三味線を手から離し窓の縁を降りる。未だ座布団を枕にしてねむる、ちいさな姿のそばに近寄った。寝息もきこえず、めずらしく寝返りも打たないようすだが、わずかに肩が上下していた。
優美の寝息は昔からおどろくほどしずかで、そう分かってはいても極たまに良くない事態を想像しては不安になってしまう。しかしその分、俺を蹴り飛ばすくらいの寝相の悪さで安心ができる。そんな姿がどうにもいとおしくて堪らねェ。

「奴等はしらねーが、俺達に最後なんてありゃしねェよ」
「それを伝えるべき相手は拙者ではないように思うが…しかし安心できたでござる」

満足そうに笑みを浮かべた万斉は、三味線を背負い、歩をすすめ俺達の前で立ち止まった。腰を折ったが、ふたたびその手がほおにふれることはなかった。

「今日だけで随分走ったでござろう。しばらくはゆっくり歩み、おとなになってゆけばよい。その手助けをするのは大人たちの役目でござる」

万斉が刀の柄を重々しく握りしめる。その様にどうにも苛立ちをぶつけることが出来ず、部屋から出て行く姿をただ見送ることになってしまった。
手助けとやらの中に、優美だけではなく俺のことも含んでいるような気がした。

「…碌でもねェ大人ばかり見てきたろうに、どうしておまえは」

こうも真っ直ぐ、きれいに育ったのだろうか。

「優美、」

噛みしめるようにその名を呼んだ。俺以外が呼ぶことを許したくないほど、独り占めしたい名前。それを実現できるせかいを、馬鹿馬鹿しいくらいに エゴの塊みてーなせかいを作ってやろうと。本気でおもえるほどの存在。
涙の跡が残る、痛々しく腫れたほおに指を滑らせながらくちを開く。

「…痛いの痛いの、飛んでいけ」

こんなまじないみてーなもの、俺はどこで知ったんだっけか。自分の親にもされた覚えがない。先生だろうか。拳骨を喰らった後にでも、施されたのだろうか。



違ェな。たぶん、街中辺りで親子のやり取りをたまたま目にしたのだ。優美をだいじにしたくて、育ってく過程くらいはふつう を経験してほしくて。ふつうの光景を、記憶に入れ込んだ。
だが、今の優美に必要なものはこんな気休めでないことなど分かっている。氷嚢でもない。もうこどもではない優美が、ほしがるもの。

そっと、優美の左頬に唇をおとした。
そうして腕に巻かれたスカーフをゆるりと外し、それを窓の外に広がる闇夜へ投げ捨てた。ひらひらと舞ってゆく白を見届けることもせず、俺は優美を起こさないようしずかに窓を閉めた。
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