歯をくいしばれ。そう忠告してくれたものの、くいしばる暇をちっとも与えてくれなかったじゃないか。
びりびりと熱をもった左頬の痛みに気づくのと、くちの中に広がる血液の味に不快感を覚えるよりもまず、そうおもった。非難しているわけではなかった。現実逃避にちかいものだった。考えるべきことや感覚が、とおのいていたのだ。
ふしぎと、痛みに涙はでなかった。まだ耳のなかに残る叩かれたときの音が、わたしの思考を停止させる。おなじく固まってしまったからだもそのままに、ただ視界にうつる畳のもようをぼんやりみつめていると上から晋助の声がおちてくる。
「一発だけだ」
なんのことか分からず、体勢は変えずにかおだけを晋助の素足から着物の裾へ、帯からまたその上へと順番におそるおそるあげていく。
「おまえだけが悪いわけじゃねぇ、今回のことは…… 俺にも原因があらァ。だから一発だけだ」
続いてふってきたことばに、どくんと、いっそうおおきく鳴ったしんぞうの音に後押しされるようにわたしは目の前の着物の衿から、もっと先の上を向いた。晋助の、かたっぽのおめめがまっすぐにこちらを見下ろしている。
「今から俺の言うことに反論があろうがなかろうが、俺のこともおなじように殴っていい」
「おまえの気の済むまで、おまえが痛ェ分よりも倍にしてやり返していい」
自分の眼が揺れ動いたのが、自分でも感じとれた。
「何故叩かれたか、分かってんのか」
「勝手なことして……それなのに、勝手なこと、さっきも言って…だから、」
「そうだ。それもよりにもよって奴らの世話になりやがって」
「お前ェがここにいられるのは狗共に救われたからじゃねーよ」
「護ってもらおうが、戦場はいつだって生きるか死ぬかだ。お前は運がよかった、だから今生きてる。それくらい、死ぬのは唐突であっけねェものだ」
「甘ったれた考えはとっとと捨てるこった」
くちびるをきつく噛み締めても、ほおと、胸のまんなかから生まれた痛みが上回ってなんの気休めにもならなかった。のどのおくが熱い。
「おまえが帰ってくる気があるならば、二度とこんな真似するな。もう二度と、」
「俺をひやひやさせるな」
晋助こそ、勝手なことばかり言って。自分にも原因がある?そうだとおもってくれたのなら、わたしの言いたいことをまず言わせてほしかった。先に晋助の言い分を聞いて、わたしは伝えたかったことも否定したいこともあたまの中でぐるぐるになってまとまらなくなってしまった。甘ったれるもなにも、望んで生死を分けるような状況下にとびこんだ訳がない。わたしが世界で一番だいすきなひとは、わたしがそれこそ紙の端でゆびを切っただけでもいいかおをしないのだから。
勝手だ、勝手すぎる なんなの、最後のことば。冷たくされて、怒られて、最後に爆弾をおとされた気分だった。
「だったら、 」
「そんなこと言うんだったら」
胸のまんなかに、ちいさな穴の空いたコップがある。やがてその穴はおおきくなっていき、ついにはそこからお水がどっと湧き出てしまったような。そんな感覚。わたしの器はもう、きょうのことで限界を迎えていたのに。まるで、心配させないでほしいなんてことを言われて、
そんなことを言うのなら、
「さわってよ、だきしめてよ、それが出来ないなら突き放してよ でも迎えにきてよ、離さないでよ、だって晋助言ったもん」
「ずっといっしょだって、
わたしと晋助は離れないって、 言ったあ、」
声はだんだんとおおきくなっていったけど、最後のほうはもう、震えと嗚咽が混じってちゃんと伝わったかどうかわからない。でもきっと、大丈夫だとおもった。だって晋助は、わたしの伝えたいことを、わたしが満足するまで何度でも聞き返してくれるから。
蹲って泣き喚くのにせいいっぱいだったわたしは、いつのまにか、ずっと焦がれて仕方なかったぬくもりに抱きしめられていることに気づけないでいた。痛みはとうに消えても あたまをそっと撫でてくれただいすきな手に、ようやく帰ってこれたと安堵しても、涙は止まらなかった。
そんなわたしに晋助は、いつものように泣きやめと言わなかった。はじめてのことだった。
なにも言わずあやしてくれたのも、しばらくの間おそとへ出たのも、長く晋助のそばを離れたのも、
「悪かった 優美」
仲直りを晋助からしてくれたのも、はじめてのことだった。