幼かったころの、自分のまなざしと重なった。そうであってほしいと願うようなきもちだった。
「いとうさん、こんばんは」
初めて会ったとき、どこか目を惹く少女だとおもった。すれ違えばおもわず振り返ってしまうような。きれいなその後ろ髪に、ふれてみたいと手が伸びてしまうような。
まんまるのひとみ、しろい肌。袖口から見え隠れする、ちいさな手。少女を形作るすべてが、穢れを一切しらない。こちらに向けられる表情や声までも。きっとこの子は今までもそしてこれからも、きれいなまま、僕の目の前で窓枠に座るこの高杉という男に護られてゆくのだ。
「こんばんは」
「おはなし終わったんですか?」
「そうだね、もう大体はといったところかな」
高杉との密会は終盤にさしかかっていた。それゆえに彼はひとりそとで待つ少女を部屋へ迎え入れた。
「優美」
男が少女の名を呼ぶ。先ほどまで、ひとの頭のうちを紐解くような声音をしていたくせに、その名に込められたひびきには無駄なものが一切なかった。少女は声の出処に向けてぱっと花が咲いたようにわらうと、男のもとへ駆けて行った。男は窓枠に座ったまま、そばに寄った少女の腰にするりとうでを回した。
「晋助、さむかったの?」
「? いいや」
「あれ、そうなんだ。ここ、ちょっとさむいから、ぎゅーってしたくなって呼んだのかとおもったー」
「クク、寒かろうが暑かろうが俺ァおまえを呼ぶ」
「あ、そうだったね。えへへ、」
男のことばに、ほおを緩ませる少女の愛らしい表情は、たいせつにたいせつに、愛情をめいっぱいに注がれたために出来上がったものだろう。僕とは、大違い。
少女は問いのことばを否定されたものの、夜風の入るそこに居れば肌寒いだろうと懸念したのか、にこにことうれしそうな笑みを浮かべたまま高杉の肩に両腕を回しぎゅうとだきしめた。とたん、高杉の右目がすこし、ほんの少しゆれうごいたのを僕は見逃さなかった。
「あったかい?しんすけ」
「優美、離れろ」
「えぇ…… やだ…、」
「……」
「………だめ?」
「伊東の野郎が居るだろうが」
「いけないの?万斉さんやまたこおねーちゃんの前ではなにも言わないのに」
「…今夜だけだぞ」
「!ね、あったかい?」
「あァ」
「…よかったぁ」
僕と会話をしていたときまでの、殺伐としていたくうきが変わる。ふたりをまとうものはしあわせそのものと表現してもいいのに、どこかちぐはぐだった。彼は自分からその少女ふれ、そしてふれられたというのに、その結果は自分の本心とは反しているのか、困り、苛立っているようにもみえた。僕が彼等から目を離せないのは、高杉の見慣れぬ姿におどろいてしまっているからではない。
「伊東さんは?」
「え?」
「さむくない?」
「ああ…、うん。平気だよ」
にこりと笑う少女のかおに、違和感を感じてしまう。ああ、そうだ。違和感だ。それだから、目が離せないんだ。この少女が、高杉を見つめる目。なんだろう、何処かでみたことがある。何処だったろう。
あっという間だった。おおきな爆発音と、銃声が入り混じり、自分の左腕が目の先にあって、地獄に堕ちてしまうかとおもえば、右手にちからづよさを感じとった。そうしてしばらくぶりに彼女のかおと、だれかのスカーフが巻かれた二の腕が目に入り、気づけば銃弾の音がするほうへ身体が動いていた。
「いとう さん、」
数えきれないほどの銃弾や刀傷の痕跡と、血まみれの列車にようやっと静けさがやってくる。だから自分を呼ぶ彼女のこえが、ぼんやりとしてきた感覚を研ぎ澄まさずとも聞き取れた。
歩いているらしいが、その足取りはおぼつかないのが、とん、とん、と不規則に鳴る足音から分かった。それは僕のとなりでぴたりと止む。まぶたまでちからが入らなくなってしまったが、重みに負けず目線をゆっくり動かせば呆然と僕を見下ろす彼女の姿が目に入った。ゆっくりとしゃがみ込んだのを引き金に、僕の左腕をみつめる両目からぽたぽたと雫が流れていった。
「うれしいなあ」
僕がそうこぼすと、まんまるのひとみが動き、視線が合わさった。
「僕の為に、そんなにきれいな涙を流してくれるひとなんて、いなかったよ」
放心した表情で、くちを半開きにさせたままだった優美ちゃんのかおがみるみる歪んでゆく。そうしたことで、淵にたまった涙は、堰を切ったように溢れだした。
「そんなに、」
ぽつぽつ漏れる嗚咽と、かなしくて仕方ないと訴えてくるような表情に胸が締め付けられた。
「そんなに悲しいことを言ってしまうくらい、くるしかったんだね」
どうして、この子だけは護りたいとおもったんだろう。その答えが、今もらったことばにすべてつまっているとおもった。そう信じたかった。
「平気だなんて言わないで」
「…?」
「さむいって、そう…教えて、くれればよかったのに、」
血液を失いかけているからだは、両足からあたまのてっぺんまでどんどん冷えてゆくというのに、唯一残った右手だけがやけにあたたかい。何故だろう。そこに目をやると、僕の右手を包み込むふたつの手があった。
着物に、彼女のきれいな手に血がついてしまう。だめだ、と言い聞かせるのに 汚してはならないと分かっているのに。あまりにも心地がよくて、拒むことができなかった。あの男も、こんなきもちだったのだろうか。こんなふうに彼女が汚れることを恐れ、葛藤し、それでも手放せずに。縋っていたのは、彼のほうだったのかもしれないと、このぬくもりがそうおもわせる。
「うん…すまなかったね」
「…ちがう。それでもたぶん、いつかはこうしてた。伊東さんも、わたしも。それが今、 こうなっただけ」
「うん…」
そうだ、ほしいものを強請って、求めて、こんな方法しか見つけられなかったんだ、僕は。でもきみは、
「でも、 話してくれれば。すこしは…ほんのすこしくらいは今が変わってたかもしれないね。分からないけど」
「うん」
「きっとおはなしするくらいじゃ、満足できなかっただろうけど」
「そうだね…前の自分だったら……、でも今は、そうすることが正しかったんだろうなとおもうよ」
何故、いつだって、気づいた時には遅いんだ。
「欲しいものは、もうとっくに、手に入っていたのに」
「、…うん」
「死にたくない、」
「うん」
「……死ねば、ひとりだ。どんないとさえ届かない」
「うん…、」
涙を流してくれるひとが、肯定してくれるひとが現れたからではない。
「もう、一人は……」
泣きながら相槌をうつ彼女のそばで、ことばがするすると流れるように出てくる。彼女がとなりに居てくれてるからだ、きっと。自分でもおどろくくらい、すなおにことばが出るのは。
「うん、…ひとりぼっちは恐いね…、」
しろい両手が僕の手を握ったまま、祈るように彼女の眼前にかざされる。
「 いやだね….」
綺麗だなあ、どこまでも。まっしろな両手は、どんどん赤くなってゆくのに。孤独を好む芝居をしていたころに、もし彼女と出会っていれば自分の人生はどんなものに成っていただろうか。そんなことまで考えてしまう。
「君は帰れるんだから」
「…いやだ、」
「僕は、欲張って欲張って、ほんとうにほしいものが分からなくなって、見失ってしまうくらい、間違ってしまったけど」
「伊東さんも帰るんだよ」
「君がほしいものは…分かっているだろう。ずっと」
「あのとき 伊東さんがあそこに居たから。見つけてくれたから…だからわたしは、帰れるんだよ…」
屯所の前で、沖田くんに手を引かれながら 彼の名を呼びかけそうになっていた彼女をおもいだし、なつかしくなる。
「たくさん危ない目に合わせてすまなかったね」
見たくないものも、たくさん見ただろう。
「いいよ、今生きてるんだから。もういいから、」
「優美ちゃんが帰りたい場所へ帰れたら、僕は…うれしい」
「死んじゃいやだ」
噛み合わない、ただのことばの言い合いに僕はだんだんと笑みが溢れてくるのというのに、彼女のほうは切羽詰まった表情が消えない。
「伊東さんがいなくなってしまったら、…わたしはかなしいよ」
あの目は、何処かでみたんじゃない。あのときの、ほしい ほしいと、こどもが強請るような彼女の目が、幼かったころの、自分のまなざしと重なった。昔も自分は、こんな目をしていたはずなんだ。きっと。いつから僕は、彼女のように出来なくなってしまったんだろう。まるで、こどものころの無垢な部分をそのままに、成長した女の子だとおもう。この子に求められるあの男が、心底うらやましい。どうかこのきれいな目のまま、おとなになっていってほしいと願った。
「伊東さんも大丈夫になるの、見てるって ひじかたと約束したんだよ、ねぇ…」
「…はは、」
そういえば、優美ちゃんと僕は親戚だという嘘をとっさについてたんだなあ。血なんて全く繋がっていないのに、彼の呼びかたはいっしょなんだ。笑いがこぼれてしまったと同時に、真選組ではないふたり組みの息を呑む音が聞こえた。
「お願いです、このひとは、もう…」
裏切り者、処分。きこえることばたちに優美ちゃんが俯いていった。頻りに漏れる嗚咽。
「やだ……、いやだ、っぁ、あ」
彼女の泣きじゃくるその声に、殺されそうな気分にまでなってしまう。じくじくと痛む全身よりも、よっぽど痛みが突き刺さるように感じた。透明なそれはあまりにも綺麗だけれど、やっぱりうれしいと感じる自分がいるけれども。彼女には笑ってほしい。あの違和感を消し去って、心から。それを叶えさせるために、連れてきたんだ。
「ありがとう、…大丈夫だよ。もう温まったから」
あのとき、寒くないかと聞いてくれた彼女のことをおもいだしながら、優美ちゃんの手を離した。終わりはもうそこに視えている。今は命よりも、右手の温もりのほうがずっと惜しい。近藤に掴まれ、土方を握り、彼女にもらったこの温もりが。