鬼兵隊のふねはきまぐれにあちこちを飛びまわる。それもたぶん晋助がきまぐれだからだろう。でもその裏にはちゃんと考えてることがあって、わたしはそんな晋助のそばにずっとずっといたいと願っている。
「でーきた!」
解きおわった漢字のドリルを手に立ちあがって窓際にすわる晋助のもとへ歩くと、近づくわたしを一瞥した晋助はてのひらの本をとじた。晋助はいつもタイトルからむずかしさが漂う本をしずかに読んでいる。活字を追う目線ははやいような遅いような、でもなにかを刻みつけるように一冊一冊をたいせつに読了している。
「見直しはしたか」
「した!はやくはやく!」
「せかすな」
わたしが書いた文字を晋助がひとつひとつ辿ってゆく。このときの横顔がわたしはだいすきで、いっしょうけんめいやったものを晋助も同等にみてくれることがうれしくてたまらなかった。
「相性のあいはこの愛じゃねえ」
「だめなの?」
「だめだ」
「すきなのに」
晋助にならった愛という文字。ひとをあたたかくおもうきもちのことだと、教えてもらった。わたしがこうやってことばを勉強するのは、晋助とおんなじ本を読んでみたいからだ。本は物知りの晋助よりも、たくさんのことを教えてくれるらしい。そしていろんなひとが生みだすいろんな世界をのぞけるそうだ。いま晋助が読んでいる紙の綴じとちいさな文字のならびは、どんなところへ招待してくれるのかな。晋助といっしょに旅してみたい。
「わたしもはやく本読んでみたい」
「漢字もまともに読み書きできねえ奴にはむりだ」
「……けちんぼ」
「…………」
「ばか!」
「…ばかって漢字で書いてみろ」
「書けるもんそれくらい!」
えんぴつを手にして紙のすみっこに文字をはしらせた。鹿馬。あれ。なんだかちがう。
「そりゃかばだ」
「う〜〜っ」
「お前にはまだ絵本がお似合いだな」
「わたしもうこどもじゃないのに、」
「絵本も立派な世界だ、ばかにすんなよ」
「そうなの?」
「そうだ。こういう本はいまを知るためのもんだが、絵本は成長したとき支えになる」
「ふうん…」
晋助はたちあがって部屋のすみに置かれたおおきな本棚から、なにかを取りだし戻ってきた。わたしに差しだしたのはおおきい割に綴じがすくない一冊。100万回生きたねこというタイトルのそれを両手でうけとる。わたしがはじめてよんで、はじめてページをめくって、初めて涙した絵本。それに。
「これ、はじめて晋助に買ってもらった」
「覚えてるだろう、こっちのほうが、ひとには響くんだよ」
一匹のねこが最後にたったひとつを愛して死んでゆく、せつなくてやさしいおはなしだったのを覚えている。じわじわと染みるふかい絵本だった。
「お前の世界は、まだこれで充分」
晋助のほそくてきれいな人差し指が、しろい表紙をなぞる。そこには黒のマジックででかでかと書かれた、へたくそな文字がある。わたしはそれをみてどうしてか喉の奥がじいんと鳴った。もうあれから幾年もすぎた。変わらずそばにいられることがうれしくて、これからが不安で。絵本のねこのようにいろいろなひととの人生よりも、わたしは全てを晋助と生きたい。そうこどもながらに願って、しずかに泣いた古いきおくはとてもたいせつにたいせつにどこかへ閉まっている。
高杉優美。はじめて教えてもらい書いた文字は、わたしのなまえと晋助の名前。うれしさからかふるえているむかしの筆記をみつめた。わたしの世界はこれだけでいいのかもしれない。晋助のゆびがそっと、わたしたちの名にふれた。