例えば、それが他人から見たら狂気の沙汰だとしても、そこに確かに愛を感じるならば。


 トーマと恋人同士になってからしばらく。名前はふと気が付いた。恋人としての触れ合いをする時に、微かにトーマが躊躇していることを。
 最初は微かな違和感だった。唇を重ねる直前に、一瞬トーマの動きが止まる。抱き締めてくれる時、背中に回された腕が一瞬さまよう。それらは反射的なもので、そこに意志があるとは思っていなかった。
 けれど、それが何度も続いて今ではハッキリと確信を持てるようにまでなってしまった。
 トーマは躊躇している。それは何故? もしかしてやっぱり妹以上には見られないと思ったから?
 トーマ本人に確かめたくても、答えを聞くのがこわい。もしトーマがもう名前に恋愛感情を持っていなかったとしても、今更彼から離れるなんて無理だ。この温もりを知らなかった頃になんて戻れるわけがなかった。

「名前?」
「……え」
「どうした? 今日なんかボーッとしてるみたいだけど。熱でもあるのか?」

 気付けば息が触れ合う程の距離にトーマがいて、名前は数回瞬く。
 辺りを見回せばそこは見慣れたトーマの部屋で、名前は枕を抱えて彼のベッドに腰掛けていた。

「……本当に大丈夫か?」

 名前が反応を返さなかったことに、トーマは不安を感じたらしい。心配そうに眉根を寄せて、そっと名前の額に手を添えてきた。

「熱はないみたいだけど……」
「トーマ。トーマは私が好き?」
「好きだよ。なに、いきなりどうしたの」

 トーマの手の温かさに、なんだか泣きたいような気持ちが込み上げてきた。
 何かを考える前に口にした言葉に、あっさりと返された台詞。それが泣きたい気持ちに拍車を掛けた。

「……なんでそこでそんな顔するかな。俺は名前が好きだよ。すごく好きだ」
「トーマ、でもトーマは……」
「名前?」

 首を傾げるトーマから顔を背けて、名前は小さく息を吐く。心臓が壊れそうなくらいに脈打っている。でも聞くなら今しかない。

「ねえトーマ。私はトーマにとってちゃんと女の子?」
「それは……どういう意味で聞いてる?」

 抱えたままの枕をギュッと強く抱き締めて、名前はトーマを真っ直ぐ見つめた。震えてしまう声を必死で抑えながら。
 怪訝そうなトーマの瞳が微かに揺らいだことに、いっそう震えが増した。

「トーマ、最近私を抱き締めてくれる時とか、キス、してくれる時とか、一瞬私に触れるのを躊躇してる」
「……」

 驚いたように目を見開くトーマに、名前は唇を噛み締めた。やはりトーマはもう名前のことは女として見られないのだろうか。

「名前、俺はっ」
「嫌だよ……私絶対離れないから……! トーマのこと大好きで堪らないのに離れるなんてそんなの嫌だよ……!」

 枕を放り投げて、名前はトーマの胸元に飛び込んだ。トーマの背中に腕を回して、ギュウっと強くしがみつく。
 唐突なシアの行動にトーマは油断していたのだろう。シアが押し倒した形で2人の体はベッドに倒れ込んだ。

「名前、ちょっと落ち着けって。俺の話聞いて」
「……聞きたくない」
「……あのねえ、勝手に自己完結するんじゃないよ。バカだな……」
「トーマ……?」

 トーマの声音に自嘲するような響きを感じて、名前は顔を上げた。見下ろした彼の表情は、何だか少しだけ泣きそうに歪んでいる。
 名前の腰に回された腕に力が込められた。後頭部に添えられた手に促されるように、トーマの首筋に鼻先を擦り寄せる。

「ごめんな」
「……っ」
「このごめんは、おまえに誤解させたことな」
「ご、かい?」
「誤解だよ。俺が……俺が、どれだけ名前を好きか、おまえわかってない。おまえが思うよりずっと俺は、名前が好きなんだよ」

 絞り出したように言葉を紡ぐトーマは、愛しそうに名前の体をより深く抱き寄せる。2人の体の隙間すら埋めるかのような抱擁は、少しだけ苦しい。けれどそれが嬉しかった。

「私のこと、好き……?」
「好きだよ。昔からずっと、俺はおまえだけが好きだ」
「……でも、じゃあ……」

 涙が込み上げる程に安堵を感じながらも、不安はまだ名前の胸の中で燻っていた。
 好きなら、何故躊躇うのか。

「ごめん……こわかった」
「こわい?」

 後頭部に添えられていた手がそっと離れる。名前が顔を上げてトーマを見つめれば、彼もまた名前を見つめていた。まだ泣きそうな表情をしている。胸が鈍い痛みを訴えてきた。
 そんな顔をしないで。笑って。トーマが笑ってくれたら、それだけで幸せになれるのに。
 トーマの頬をそっと撫でれば、彼は口元を緩めて名前の手をキュッと掴んだ。

「俺は自分でもわかってるからね。おまえのことに関しては歯止めが効かなくなるって。実際俺は何度もおまえを傷付けただろ」
「それは……」
「名前が許してくれてもね、俺は俺を許せない。またおまえを傷付けたらって思うと……こうして触れるのが少しこわい」

 以前トーマは名前を守る為に、名前を閉じ込めた。外界全てのものから名前を隠すかのように。
 それは決して褒められるものではない。ただこの場合、名前が受け入れていたから、厳密には犯罪とは言えないかもしれないが。
 だからそれがトーマを苦しめていたということが、少しだけ可笑しかった。

「トーマそんなこと気にしてたの?」
「そんなことっておまえね……」
「トーマからされたことで私が傷付いたことなんて、一度もないよ。だって私はトーマが好きだから。トーマが私にする全てのことは、そこに愛を感じるもの」
「名前……」
「でも不安だった。トーマが躊躇してるってわかった時、トーマはもう私のこと女の子として見てくれてないのかなって」
「そんなこと……あるわけがないだろっ……俺にとって名前はずっと女の子で、妹として見たことなんか一度もない」

 恋い焦がれるような、切なげな眼差しを向けられて思わず唇から吐息がこぼれ落ちた。トーマは名前の指先にそっと口付けてから、名前をかき抱く。後頭部に添えられた手はもどかしげに髪を絡み取った。

「トーマ……私、トーマに触れてほしいよ。いっぱいトーマと触れ合っていたい。だから躊躇なんかしないで」
「名前……」
「トーマが好きなの。好きで好きで堪らないの。トーマが自分自身を許さないから私に触れてくれないなら、私は自分を許さないトーマを許せない」
「……おまえって我が侭だな、昔から本当……」
「うん。我が侭だよ私。我慢もしないの。自分を抑えてトーマが離れていっちゃう方がずっとこわい」
「俺が我が侭な名前に愛想を尽かしたら?」
「愛想を尽かしたら……?」

 強く抱き締める腕の力はそのままに、トーマの声音にからかうような色が滲む。
 名前は微かに微笑みながら、トーマの首筋に頬を擦り寄せた。

「トーマのこと、閉じ込めちゃうかもしれないね」
「そっか。それはそれですごく魅力的だけど」

 促すようにうなじを撫でられて、名前は顔を上げた。視界いっぱいに広がるのは、狂おしい程に名前を求めていると感じられるトーマの微かな微笑で。
 そっと重ねられた唇の隙間からこぼれた言葉に、胸が張り裂けそうな程の喜びを感じた。

「俺も本当は、すごくおまえに触れたくて堪らなかった。どのみち俺の我慢なんてとっくに限界だったんだよ……」



fin




甘い契りならば喜んで受けましょう





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