ただ単調に過ぎていく代わり映えのしない世界に、新しい色や元々関係がないと蓋をして見ないフリをしていた感情を思い出させてくれたのは誰でもない、彼女だった。


  ……


 小春日和の続く中、本当の春はもうそこまで近づいていた。
 相変わらず忙しそうな彼女との予定が三週間振りに漸く合い、今日となったはいいが。



『すみません、寝坊してしまいました』

 待ち合わせの場所に予定よりも少し早めに着き、暫く行き交う人々の観察をしていると、彼女から連絡がはいる。電話越しの焦りが滲む声に少しばかり笑いそうになってしまったことは内緒にしておこう。
 彼女と過ごすようになってからというもの待っている時間も、共に過ごすくらいに重要なのだと思えるようになった。彼女だからこそ、待つ時間さえも愛おしいのか。

「大丈夫だ。それより名前、焦って転んでしまわないように気をつけてくれ。しっかりしているように見えて少々うっかりしているからな」
『……はい』

 彼女の声のトーンが少しばかり低くなる。
 また自分が彼女の気を落とすような事を喋ってしまったのだろうか。そんな不安にかられ、考え直しもう一度言葉を紡ぎ直す。

「すまない、今の言い方では語弊があるな。つまりだ、私は君のことを心配していると……いや、今のは気にしないでくれ」
『……』

 こちらの方が幾分か恥ずかしい。沈黙はまっすぐに突き刺さる。心配をしない方がおかしいだろうと伝えるに伝えづらい。彼女は沈黙してしまい、背景のガヤガヤとした雑音が耳に入る。もう外にはいるのだろうか、それならば何も気にかけることなどないだろう。

「待ち合わせ場所に着いたらまた連絡をくれないか。時間は適当に潰しておく」
『は、はい! 気をつけながら早く着くようには努力します』

 そう言うと一方的にぷっつりと電話が切れてしまう。ツーツー、と無機質な音が耳に響く。だからその努力は、と元の待受に戻ってしまった画面を見ながら呟く。

「私らしからぬことを言いかけてしまった」

 慌ててかき消しても遅かっただろう。急に声のトーンは明るくなり、張り切る彼女の姿がその声からは感じられ、閉じた瞼の裏に光景が浮かぶ様だった。
 彼女が張り切ると別の方向にばかり力が向けられる気がして悩ましい。彼女が姿を見せるまで心配は消えないという事か。
 携帯をしまい、何を見るわけでもなく前に目を向ける。様々な年代、とはいえ若者の方が若干多いだろうか、が集まるこの場所で待ち合わせしたことは正解だったのだろうか。見つけ難くはないだろうか。
 不思議な事でこの往来の中には女性もいるが、この世界においては名前だけが特別に見えて、その他は全て同じように感じてしまう。
 好意を向けるということは、そういうことなのだろうか。


名前……


 ぽつり、彼女の名前を口にしてみると胸がくっと、何かに掴まれたように軽く痛みを覚えた。らしくもない、とため息を零しその痛みを追い出すように頭を振った。
 会うのがほんの少し延びるだけだというのに、なぜか時間の流れが酷く遅くなってしまうような感覚に襲われた。


  ……


 待ち合わせ場所に彼女が現れたのは約束の時間からきっかり十五分だった。ずっと立ち尽くしていたことは言わないでおこう。

「お待たせしました」

 走ってきたらしい彼女は、頬を紅く染めながら肩で大きく息をしていた。だからそんなに、と言いかけた言葉を飲み込む。

「さて。今日の予定はまず、雑貨屋だったか」
「……今日はこう、何か一言はないんですね」

 少し、いやかなり不思議がりながら私の顔をじっとみる。
 瞬き少なくみつめられる事にはまだ耐性がついておらず、少したじろいでしまう。
 浮かぶ嫌みたらしい(とよく言われる)言葉を跳ね退け、選んでみるとすぐこれだ。好き好んで毎回一言を選ぶ訳ではないというのに、全くもって難解だ。遠回し過ぎるのだと言われるがまだまだ直りそうもない。

「そう毎回口煩く小言を言うつもりはない」
「……最近、変わりましたね。いえ、嫌みではなく。少し前までみたいに口喧嘩するのも好きでしたけど、今のケントさんは少し円くなった気がします」

 今なら勝てそうな気がします、と彼女は笑いながら私の少し先を歩いた。いつも言いくるめられて憎らしげに頬を膨らませているのは誰なんだ。
 雑貨屋に着くと、やれあのマグカップが可愛いだのシンプルな皿が欲しかっただのと主に日用的なものを彼女は必要としている様子だった。その後、部屋に飾る写真立てが欲しいのだと主張され階を調べて移動する。
 気に入った物が見つかった様子で、その後の予定も嬉しそうに顔を綻ばせる彼女の隣を歩く。昔の私ならば、全く理解できなかっただろうが今は少しだけ、彼女の気持ちが分かる気がした。



 帰り道。彼女の手には色は違うがデザインが同じマグカップ二つと写真立ての入った紙袋が提げられている。一方の私の手には、今日の夕食になるであろうシチューの具材が放り込まれたビニール袋を提げていた。
 彼女が少し前を歩く。その後を少し遅れて私が歩く。並んで歩くのもいいが、こうして後ろから彼女を見ているのもそれ程悪くはない。
 隣に居ることが当たり前になった、彼女との日常。
 私が前よりも、名前の事を君とは言わず名前を呼ぶ回数が増えた事を、彼女は気付いているだろうか。
 名を呼び、反応が返ってくる。その事にこんなにも嬉しくなることがあるとは思わなかった。愛しさで胸が詰まる想いをしようとは、思いもしなかった。

 それならば、何度だって呼ぼう。
 何度だって名前を呼んで、確かめよう。

 大好きな名前を。
 大切な名前を。


 君の、名前を。


 声が嗄れたとしても。
 例えその一呼吸が最期になるとしても。

「名前、」
「はい、」

 彼女はくるりと軽やかに振り返り、花が咲いたような飛び切りの笑顔で返事をした。
 その瞬間にトクンと大きく強く胸が鳴り、世界中の時が停まるような錯覚を覚える。
 なんでもないと、元通りに時が刻み始めたように緩やかに歩を進め彼女の隣に並ぶ。
 彼女にはどのように映っているのだろう、頬が緩んでいる気がしてつい隠したい衝動に襲われて、口元を隠すよう手を添えながら視線を逸らしてしまう。
 そんな私を覗き込むようにして、変なケントさん、と笑う彼女にどうしようもないくらいの愛しさが溢れた。

 毎日新しく色付く世界で、私は何度だって君の名前を呼ぶだろう。
 そうして何度でも確かめるのだ。



 最愛なる、君の名前を。





何度だって名前を呼んで





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