職場のハゲ課長に何も言われなくて済む久々の休日。
家に戻るなり、一二三からの質問攻めがすごかった。
朱智斗さんとどう過ごしたのか。何をしたのか。何もしなかったのか。朝はどうだったか。お互いどんな様子だったか……。
俺はつぶさに状況を説明する羽目になった。
あくまで状況説明だが、いちいち「その時どう思ったの?」とか「どう感じたの?」とか、子供みたいにいちいち、いちいちいちいち聞いてくる。言う訳ないだろうと返せば「つまんね〜」と勝手につまんなくなって……。俺が話下手みたいになるじゃないか! 実際上手くはないけれど……。
「なーんだチューくらいしてこいよ〜、チュー」
「ばばばばば馬鹿言えおまえ!! 酔ってるところにつけこむような、そんな……」
「お互いいい年なんだし、良いじゃん」
「た、確かにそうかもしれないけれど、まだ付き合いたてだしだな」
「だからこそじゃんか!」
身を乗り出して訴えてくる一二三の圧が凄い。
「お互いもうすぐ30代だぞ! ちょっと強引にでも押して押して発展させなくちゃ!」
「うるさいなぁ! あ、焦ったっていいことないだろ!?」
「ちょっとは焦れよ〜!」
一二三の言い分はこうだ。
「もともと部下や後輩からの信頼あって、最近昇進決めて、ノリに乗ってるじゃん朱智斗っち。今が人生の繁忙期だろうに独歩に告白してきたのって、それなりの覚悟や決意あってのことじゃない? 同じ職場の繋がりよりも独歩を選んだのって相当好きだからだと思うんだよね〜」
朱智斗さんは俺が思っている以上に、俺を想ってくれている、ということらしい。
まさか、いや、そんな。
同僚にこそ話しにくいこと打ち明けにくいことを見せられる相手にたまたま俺が当てはまっただけに過ぎない。
そう。運よく、俺が……。
だとすれば、俺よりも朱智斗さんに相応しい人はいくらでもいるんじゃないだろうか?
――前にも考えたことがあるな、コレ……。
実年齢よりずっと無垢に振る舞われるのもあって、俺は朱智斗さんにアクションを起こせなかった。下手に触れたら拒絶されてしまうんじゃないか、傷つけてしまうんじゃないか、いけないんじゃないか、いろいろ……。
でも一晩彼女の家に泊まれたのは事実だ。既成事実だ。
でもでも、別に朱智斗さんの家に泊まる男性は俺だけじゃない……。
「……俺なんかで本当に良いのかな」
ぽつりと溢した瞬間、一二三に軽く小突かれた。
「朱智斗っちが選んだんだから良いんだよ!」
一二三はそう言ってくれるけれど、俺は少しずつ、自信を失っているのを感じた……。
朱智斗さんが「犬を飼い始めた」という。
名前はもふすけ。小さな柴犬……豆柴というやつだ。お泊りから一週間過ぎた頃である。
もふすけは朱智斗さん曰く物覚えが良く賢いらしい。親ばかだと自負していた。
そして俺は、そんなもふすけに会いに、また朱智斗さんの家へと訪れていた……。
だがいるのは俺だけじゃない。Buster Bros!!!の山田二郎くんが一緒だった。
しかも犬好きなのか、なんだかもふすけとの距離も近い。
「お〜し、もふすけ! 今日も散歩いっぱいしたなー!」
「ありがとね〜次郎くん」
「良いんすよ、便利屋山田屋ご愛顧ありがとうございますっす!」
紅茶を淹れてくれるオフの朱智斗さんをぼんやり見つめながら、俺は考える。
どうして二郎くんも一緒なんだろうか……。
俺だけじゃ駄目だったんだろうか……。
「っていうかあの、俺いて大丈夫っすか?」
「!」
よく気づいた二郎くん。思わず俺は心の中で拍手した。
しかし人の良い朱智斗さんは「いいんだよ〜」とかわしてしまう。
「出張の間、もふすけ見てもらったお礼もあるしね〜」
「もふすけお利口なんで大丈夫でしたよ!」
「良かったよかったぁ」
もふすけがふと、二郎くんから離れて俺の方へやってきた。ふんふんと俺の匂いを嗅いでいる。下手にこちらから触りに行ったら脅かしてしまうだろうと思って様子を見ていたのは正しかっただろうか。
そこに朱智斗さんもやって来る。
「独歩くん、もふすけにおやつあげてみて!」
「え? い、いいんですか」
「良いからいいから〜」
骨型のビスケットを3枚ほど渡される。まだ俺の匂いを嗅いでいるもふすけにそっと差し出してみると、短い尻尾をふりふりさせてビスケットにターゲットを移した。ふんふん鼻を動かしてはいるが食べようとしない。ちょこんとお座りして、尻尾をふりふりさせながら俺を見上げてきた。
かわいい。
「いいよーって言えば食べるっすよ」
「い、いいよ、もふすけ」
「ワン!」
二郎くんの言う通り、合図を出したらもふすけはビスケットを食べ始めた。手のひらをぺろぺろ舐められてくすぐったい……。食べ終わったもふすけの胸毛をそっと触ってみると、大人しく撫でさせてくれた。
本当にお利口さんのようだ。
「どう、もふすけ良い子でしょ?」
「はい。すごいですね、もうこんなにしつけが行き届いて……」
「保護された時にもう良い子だったから、前の飼い主さんが良かったんだろうねえ」
もふすけを撫でながら、朱智斗さんが言う。
そっか、もふすけは保護犬だったんだ……。きっと飼い主にやむにやまれぬ事情があったのを、朱智斗さんが引き取ったんだと思う。その辺りもいつか聞けたらいいな。
「前の飼い主、もふすけ置いて引っ越しちゃったんでしたっけ」
「そう」
って、二郎くんは知ってるんだ……。俺がこれから聞こうと思ってたのに!
もふすけは器用にソファーに上ってくると、俺の膝に落ち着いた。気を許してくれたみたいでほっとする。もこもこふわふわの毛玉のもふすけは、気ままにくつろいでいた。
「こんな可愛い子を置いていけるなんてビックリだ……」
「そうっすよね!」
「だよねー! まあ私が大事にするけれど!」
ぽつりと溢した言葉に、思わぬ熱意有る返答が返ってくる。
朱智斗さんと二郎くんに挟まれる俺ともふすけ。両脇から二人がわちゃわちゃと撫でまわしてくるのを思う存分受け入れるもふすけ。俺の膝の上でふわふわふわふわ揺れるもふすけ。特別犬が好きとか嫌いとかなくて良かった、普通に可愛いと思える……。
「俺ももふすけ大事にしますよ朱智斗さん!」
「ありがと〜二郎くん! これからも度々お世話頼むと思うから、よろしくね」
「はいっす!」
二郎くんに先を越されたけれど、俺も一応宣言しておく。
「俺ももふすけのこと出来る限り可愛がってあげたいです」
「ありがとう、独歩くん!」
「わわっ」
朱智斗さんは嬉しそうに微笑んで俺に抱き着いてきた。もふすけを膝に乗せたまま、何とか朱智斗さんを受け止める。
すると二郎くんが驚いて目を丸めていた。
「朱智斗さん、そんな風に誰かに抱き着くんすね……!」
「あ〜これはねぇ、私と独歩くんの仲だから」
あっさりとそんなことを言うものだから、二郎くんだけでなく俺まで真っ赤になってしまった。
二郎くんは、なるほど、とか、そうなんだ、とか、ぶつぶつ呟いて、俺と、俺からすぐ離れた朱智斗さんを見ている。
「お、おめでとうございます!」
「ありがと二郎くん!」
「お、俺オジャマなのではないっすか」
「だいじょぶだよ〜。ね、独歩くん」
「あ、は、はい」
でも多分二郎くんは相当いづらいと思います、朱智斗さん……。
そのあと、もふすけを撫で繰り回した二郎くんは「お邪魔しました!」と元気に帰っていった。
撫で繰り回されたもふすけは、朱智斗さんの膝へ落ち着いていた。
「急に“犬飼い始めた”とかビックリしたよね、ごめんね、独歩くん」
「やむにやまれぬ事情がおありなら仕方ないです、朱智斗さんにアレルギーとかなくてよかったです」
「それこっちの台詞だなあ」
申し訳なさそうに微笑みながら、朱智斗さんは優しくもふすけを撫でている。
「独歩くんにアレルギーあったら、独歩くんに会いづらくなっちゃうじゃない? なのに勢いで犬お迎えして……ごめんね。あと、ありがとう」
「朱智斗さん……」
朱智斗さんのためなら薬飲んででもアレルギーに対処してお会いします……!
もふすけがいる手前、こう、恋人らしいことは手を繋ぐくらいしかできないけれど、それでもこの胸の高鳴りはたまらなく愛おしかった。
朱智斗さんと繋いだ手から伝わる熱ももふすけも大事にしよう。
俺はそう固く誓った。
朱智斗さん。俺の恋人。
もう付き合って三か月。
いつの間にか増えた朱智斗さんの家族もふすけ(豆柴)。
この頃残業が続いて、直接会う機会が減っていた。
会わないというのは単純に辛い。
メールでのやり取りが、どんどん単調化していく。
朱智斗さんも忙しいのか、業務的な俺の返信を指摘することなく、
『体、大事にしてね』
と、毎回。
大事にしたいのは山々だが、こんな生活じゃ大事にできない。分かってるはず。それでも彼女は言う。
彼女の思うような生活ができない。俺が俺を第一にする生活なんてできない。できるわけないだろ。
……情けない。どうして俺は苛立っているんだ。
大事にしようと思った人のために何もできない。悔しい。歯痒い。情けない。
『朱智斗さんも無理はしないで』
ハゲ課長の怒声の後に、せめてと返信した短文。
それだけじゃ物足りないと俺自身思っているのに、彼女はどう思っているんだろうか……。
もしかして俺に愛想が尽き始めていたりしやしないだろうか。
家に帰ればもふすけの世話があり、職場に行けば彼女を慕う部下がいて。
俺なんて、いなくても良いんじゃないだろうか?
俺なんてしがないサラリーマン。キラキラと輝く彼女と釣り合うはずがまずない。
最初から釣り合わない釣り合わないとは思っていた。
俺は朱智斗さんが好きだ、幸せになってほしい。けれど彼女を幸せにするのは俺じゃないのかもしれない。
このままずるずると付き合っていても良いんだろうか。
俺に縛られて幸せを逃してしまうんじゃないんだろうか。
だとしたら、だとしたら。
『朱智斗さん、お話があります。会えますか』
勢いだと言えば勢いだったかもしれない。
いつものように居酒屋で仕事終わりに落ち合い、酒を酌み交わす。
「それで独歩くん、話って?」
「あ、はい、その……」
酒が進まないうちに、話しておこうと思った。
「俺、朱智斗さんが好きです。大事です。幸せになってほしいです。でも、でもそれって俺と一緒だとできないんじゃないかって思ったんです。だって俺ただのサラリーマンだし、朱智斗さんみたいにお仕事が上手でもないし、キラキラしてもいない。朱智斗さんを大事にしたいのに忙しさやもどかしさでイライラして自分がますます嫌になる。このままじゃ朱智斗さんのことまでいつ傷つけてしまうかわからないです。朱智斗さんの輝きを俺が濁してしまうんじゃないかって。だからその、今、不安で不安で仕方なくて」
勢いで、言い切った。
「俺、朱智斗さんと一度距離を置かせてほしいです……」
朱智斗さんの動きが止まる。
「……別れて欲しいってこと?」
「そう、なり、ます……」
「……そっか」
居酒屋の喧騒から、俺と朱智斗さんだけ置き去りにされたみたいに静かだ。
朱智斗さんは梅酒をあおってから、そっか、とまた呟いた。
「私の何がいけなかったか、教えてもらってもいいかな」
「朱智斗さんにいけなかったことなんてないです、俺が不甲斐ないだけです」
朱智斗さんは苦笑した。その瞳に涙があふれんばかりに満ちていて、俺はつい視線を逸らしてしまう。ああ、こういうところも俺の駄目なところだ。こんな時ですら向き合うことができないなんて。やっぱりこんななよなよな俺に朱智斗さんはもったいない。力不足もいいところだ。朱智斗さんの幸せを願っていたのに、俺が朱智斗さんの幸せを妨害していた。本当に情けない。
そのあとぽつぽつと飲み進めて、そこそこのところで会計になった。
お互い飲んだわりには全然酔っていなかった。
「ごめんね、何か」
「い、いえ、俺こそすみません」
「ううん。本当にごめんね、独歩くん」
俺に気を遣わせまいとしていたんだろう。朱智斗さんは笑顔だった。俺もなけなしの元気を振り絞って笑顔を見せる。
お互い笑顔で別れた。これで良いはずだ。気が付くと俺はどばどばと涙を零していて、拭っても拭っても涙は止まらなかった。こんなはずじゃなかったのに、と何処かでまだ名残惜しむ声がする。良いんだ、これで良いんだ。
ふらふらと家に帰る。一二三が用意してくれた食事に手を付けられるはずもなく、ベッドに沈んだ。
「朱智斗さん……」
――眠って、しまった。
起きると、携帯に一二三からの着信が数件あった。どうしたんだろう。
リビングに行くと、ちょうど一二三がいた。
「どうした、一二三」
「……独歩ちん」
名前を呼ばれてぎょっとする。一二三の目が据わっている。表情は虚無に等しい。その虚無のまま一二三は、俺に拳を振りぬいてきた。
突然のことに対処できず、俺は一二三の拳を思いきり左頬で受けた。踏ん張り切れずに床に倒れ込む。
「なななん、何だよいきなり!」
「それはこっちの台詞だよ……独歩ちん」
ゆらりと一二三が近づいてくる。スマートフォンを握り締めたまま。
「朱智斗っちからメッセージ来てたんだよ。『独歩くんにフラれちゃった』ってさ。どういうことだよ。何なんだよ独歩ちん。あんなに朱智斗っちのこと好きだったのにどうして別れ話なんてしたんだよ」
「ひ、一二三には関係ないだろ……」
「関係あるよ!」
スマートフォンを投げ出して、一二三は俺の胸倉を掴んできた。
「ずっとずっと応援してたふたりがくっついて、幸せいっぱいそうだったのに、どうして別れちゃうんだよ!? 独歩ちん、誰よりも朱智斗っちのこと好きじゃん! 幸せになってほしいって幸せにするって! どうせ自分だけで考え込み過ぎて勝手に自分なんかって思って引き下がったんだろ! 何年幼馴染やってると思ってるんだよ!!」
図星過ぎて何も言えない。そうだ、俺は自分の中で考え込んで自分の中で結論を出した。でもそれは限りなく正解に近いと思ってる。でもまさか朱智斗さん、一二三に連絡してたなんて。どうして。ずっと相談していたから? ずっと? もしかして付き合い始めてからもずっと? そうだ、そんなに一二三と仲が良いなら、一二三と一緒になった方が良い。女性恐怖症だけれど、一二三ならきっと朱智斗さんを幸せにしてくれる。
でもそんなことを口にすればまた殴られるのは目に見えていた。分かっていた。
「じゃあどうしろって言うんだよ……。朱智斗さんだって頷いたんだよ」
「どうしろって、考え込むクセがあるなら分かるだろ!? 少なくともこれは正解じゃないからな!」
「うるせえなあ……!」
気が付いたら俺たちは殴り合いになっていた。もみくちゃになって、子供のようなケンカをしていた。
口の中が切れたし、鼻血も出た。
だから、来訪者に気づくのが遅れた。
何度も鳴っているインターホン。モニター画面に映っているのは、私服姿の朱智斗さんだった……。
「独歩くん、一二三くん!?」
俺が招きいれると、彼女は目を丸めた。当然だろう。俺も一二三も顔から血を流している。部屋も少しグチャグチャになってしまっていたし。スーツを着ていない一二三は、朱智斗さんに怯えながらもおそるおそる近づいていた。
「ごごご、ごめん朱智斗っち……。俺、独歩が朱智斗っちをフッたって聞いて頭に血が上って……」
「一二三くん……ごめんね、私がメッセしたから……」
朱智斗さんも一二三の恐怖症を知っているから、接触しようとはしない。けれど、「怪我の手当てしないと、ふたりとも」と困ったように呟いた。
すると一二三がすぐに救急箱を持ってきた。
「お、俺っちは大したことないから。独歩の手当てしたげて」
「わかった」
一二三が自分の、朱智斗さんが俺の手当てを始める。結構派手に殴り合ったから痛かったけれど、朱智斗さんの手当てを受けていると、妙に安心するというか、昨夜別れたばかりなのに、落ち着いてしまった。
「ごめんね、独歩くん」
「は、はい?」
手当てが終わると、朱智斗さんがぽつりと呟いた。何に対して彼女が謝っているのか分からず、思わず聞き返してしまう。
「私、わかったって言って別れたけれど……本当は全然分かってないんだ。独歩くんじゃないと嫌なんだよ」
朱智斗さんは困ったように笑って、泣き出した。
どうしようと慌てていると、一二三につつかれる。「こういう時恋人ならぎゅーってするだろ!」本当にお節介な奴だ。
おそるおそる朱智斗さんを抱き締めると、朱智斗さんもまた俺にしがみついてきた。
「いやだよー! やっぱり別れたくないよ、独歩くんのこと大好きなんだよぉ……!」
「あ、あの、俺も……言い出しておきながら、昨日、ぼろ泣きして帰ってて……朱智斗さんと別れるの嫌なんだなって……」
「なら別れるの止めようー!!」
朱智斗さんがそう叫ぶものだから、はい、と思わず俺も頷いて、ぼろぼろ泣き出していた。
それを見ていた一二三も泣き出して、「殴ってごめん独歩っちー!」と叫び出す。
もうカオスだ。
だけれど、それでも、俺は、親友と恋人と一緒にいられることがすごく嬉しかった。
「朱智斗さん、こんな俺ですけど、本当に良いんですか」
「いい!」
「また変に落ち込んだり悩んだりして迷惑かけるかもしれないけれど、それでも俺で良いんですか?」
朱智斗さんは俺から離れずに言った。
「独歩くんが良い!」
――俺は、改めて誓った。
幸せになってほしいと心から願ったこの人を、力の限り幸せにするんだ、と。
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