それでも俺で良いんですか? 中
 スマートフォンを購入すべきか、そろそろ悩み始める。グループトークアプリを導入しようかどうか悩む。でもメールの方が俺は性に合ってる気がした。メールだったらいちいち設定なんてしなくとも最初から互い同士のやり取りなんだし。推敲もしやすい。
 ……という訳で、朱智斗さんからのメールへの返信を考えていた。

『おはよう! 昨日は勢いでああ言いました。
 が、酔いがさめても気持ちは同じです。
 好きだと言って本当に良かった。
 改めてよろしくね、独歩くん』

 こんな短文で破壊力をもたらす朱智斗さんの力たるや。それとも惚れた弱みというのか。これにどう返すべきかかれこれ一時間ベッドの上で悩んでいる。間を空ければ空けるほど求められるクオリティは上昇する気がする。なのに俺が今打てている文がこれだ。

『こちらこそよろしくお願いいたします』

 業務メールか!
 定型文か!
 色気もへったくれもない。ダメダメだ。ずっと気になって気になって好きになって幸せになってほしくて願って願って幸せにならなくちゃいけないんだこの人はってずっとずっと思っていた人から、ありがたくも奇跡的にも好意を向けられたのだから。失礼なくかつ好意的かつ距離感を縮めるように……。
 ……あああ、駄目だ。謝罪文ならいくらでもレパートリーが出てくるけれど、恋人メールのレパートリーなんて皆無。
 だからといって一二三の力を借りたくはない。一二三からはもう既に十分に借りている(主に朱智斗さんが)。それにちょうど寝入った一二三を起こすわけにもいかない。俺たちを祝福してくれたために睡眠時間がずれ込んでしまったし……。
 朱智斗さんに相応しい男にならなくてはならない。でもこんな俺をどうして朱智斗さんは好きになってくれたのか心底不思議だ。幸せを願っていただけで。それだけで? 朱智斗さんの幸せを願わない人なんているのか?
 ……いるのか。
 だから朱智斗さんは嬉しかったんだ、きっと。あの優しくて朗らかで、逞しいようで繊細な朱智斗さんの幸せを願わない人間がそばにいたんだ。職場だろうか、それとも、ああ、なんにせよ許せない。朱智斗さんを不幸にしようとする者がいるならば、朱智斗さんを悲しませるような者がいるならば、そんな奴らは焼いて焼いて潰して消してしまわなくてはいけない。許さない。そんな奴ら生きてちゃいけない。

「って、あああ、メールの返信だよ……!」

 脱線してしまうのは悪い癖だ。暗い考えに落ち込むのも悪い癖だ。明るいことを考えよう。大好きな人にありのまま好意を伝えるための文章を考えよう。
 よろしくお願いしますは悪くないはずだ。これだけだと寂しいだけで……。同意だ、同意を添えよう。『俺も好きです』とか『嬉しいです』とか……うん、悪くない。悪くないぞ多分……。

『おはようございます、朱智斗さん。
 昨日は俺も酔ってましたが本当に嬉しいです。
 好きでしたから。
 こちらこそよろしくお願いします』

 ……どうだ? どうだろう? 悪くはないんじゃないのか? というかこれ以上背伸び出来ないぞ!!
 意を決して送信ボタンを押す。ずいぶんと待たせてしまった。けれど当たり障りなく好意を伝えられたはずだ。頑張った、俺。
 心臓がバクバクいってる。痛い、心臓が痛い。一晩経ったらやっぱり夢でした! なんてことなくて良かったけれど! 本当に持つのか、俺の心臓……。
 朱智斗さんはどんな気持ちで俺にメールしてくれてるんだろう? 俺みたいに無様に心臓が痛いなんてぼやく姿は想像がつかない。朱智斗さんは元気で溌溂としていてその新鮮なぐらいのありのままの状態で送って来てくれているんだと思う。朱智斗さんはすごいから。
 これからは朱智斗さんと恋人同士になったのだし、こんなメールだけじゃなく電話や直接会っての……デートとか、そういうことをしていくんだと思う。そういえば、私服の朱智斗さんってどんなだろう? きっと可愛いんだろうな。いつものスーツ姿も素敵だけど、きっと私服も素敵だ。……俺、ちゃんと横に並べるような男になれるだろうか? いいや、なれなくても並ばなくちゃならない。あの朱智斗さんが選んでくれたんだぞ? 俺を。引く手あまたに違いない朱智斗さんが、わざわざ、俺なんかを。
 だったらいくらでも背伸びして合わせるのが道理ってものだ!
 一二三や寂雷先生に相談するのもいい。なんでもいいから、なんでもやってみなくちゃ。
 朱智斗さんに呆れられないように……。

「っと!!」

 携帯が震えた。朱智斗さんからの返信だ。
 おそるおそるメールを開いてみる。

『メール見てひとりで赤くなってました。
 好きって言ってもらえてとっても嬉しいです。
 本当にありがとう! 返事は気にしないで』

 ――可愛いが過ぎる!!
 朱智斗さんも赤くなってたんだ。好きって言って良かった。あの朱智斗さんを赤面させるなんて、頑張った、俺。
 部屋でひとりで赤くなっている朱智斗さんを想像したら可愛くて死にそうだった。普段の凛とした彼女が携帯の画面を見つめてぼんやり顔を赤くしているのを考えたら……もう、もう。
 俺に対して返事の気遣いとかしてくれてるけれどその前に赤くなっちゃってるんだよな……!
 赤くなった理由が俺なんかのメールなんだよな……!
 なんか元気出てくる。余計なぐらい元気が出てくる……。

「やばい、本当にやばい……朱智斗さん……」

 本当にどうしてこんなに俺は幸せなんだろう。幸せの反動で明日槍が降ってきたりしないだろうか……。槍とまではいかずとも豪雨や雷雨に見舞われたりしないだろうか……。急に訳の分からない理由で始末書を書けとか言われないだろうか、言われるかもしれない。朱智斗さんの見事な手際と話術で俺に有給休暇を許してしまった腹いせにあのハゲ上司が何か仕掛けてこないとも限らない。いや、朱智斗さんのことだからアフターケアもばっちりでそんなことは無いだろう。ということは俺が何かポンコツミスをやらかしてしまうということだ! ああああ、明日の出社がとても憂鬱だ。またサービス残業、暗いオフィスでひとりパソコンと向き合う地道で苦痛な作業……。朱智斗さんとの瑞々しい時間とのギャップでより響きそうだ……。
 いやでも俺にはステータスがある。朱智斗さんの恋人というステータスが。
 あの朱智斗さんを赤面させることができた男だ。(お世辞や社交辞令の可能性もあるけれど朱智斗さんに限ってそれはないはず)
 ちょっと癒しを求めてメールしても許される……かもしれない。
 少し気分転換に電話で声を聞いても許される……かもしれない。
 そんなステータスなのだ。
 元気を出せ、胸を張れ、観音坂独歩。
 朱智斗さんの幸せを願っているうちにいつの間にか朱智斗さんに好かれた男!
 すごいんだぞ、あの朱智斗さんと恋人なんだぞ!?
 ゆくゆくは恋人としてステップを踏んで……踏んで……。

「うっ……何を考えてるんだ俺は……!」

 下手に前向きになろうとした反動から、俺は背中を丸めた。
 ちょっと色々と元気になりすぎてしまった。
 落ち着こう、俺。
 ……元気なのは良いがコレがソレになるのは、ちょっとまだ早い。
 携帯の画面を見つめながら、俺はぼんやりと、朱智斗さんに想いを馳せたのだった。


 朱智斗さんと付き合い始めてから二週間と少し。関係は至って良好だ。
「無理じゃなければお昼一緒にどう?」と誘われてランチを一緒に過ごしたり、朱智斗さんの気概を思い出して理不尽な残業を少しだけ縮めてみたり、一二三が気を利かせて二人分の夜食を用意してくれたから家に招いてみたり。
 たった二週間のわりに好調なスタートだと言える。
 何より一二三のエールが凄かった。

「今度お祝いしたいから朱智斗っちと一緒に店来てよ〜!」

 何度これを言われたか分からない。たった二週間で。朱智斗さんはともかく俺は残業、残業、残業の日々だ……。一二三の厚意と誘いは有難いがいつ叶うか分からない。
 そして告白以来久々にやって来た居酒屋。
 席について飲み始めるなり、朱智斗さんにすごく心配された。

「残業多すぎない? 体壊しちゃうよ。会社のことがラップバトルの強いヴァースに繋がってるのかもしれないけれど、根詰めすぎちゃダメだからね」
「は、はい。すみません、ありがとうございます……」
「お礼なんていいんだよ。だって好きな人のこと心配になるのは当然でしょ」

 なんて優しい微笑み。すさんだ心が解されていく……。
 どう形容すれば良いんだろう。朱智斗さんは一二三と同じ属性だと思った。俺とは正反対の属性。どうして縁が結ばれたのかとんと説明のつかない不思議な関係。ただ一二三と違って、朱智斗さんには振り回されることがない。ちょっと振り回されてみたい気もするけれど、朱智斗さんは優しいからそんなことしないだろう。
 ……会社に乗り込んできたのは、振り回されたうちにカウントしないということで。……だってあれは俺を思っての行動だったわけだし……。
 朱智斗さんに促されるまま、俺は会社での愚痴を呟いた。「どんどん吐き出して」と背中を撫でられて、ちょっと泣きそうになった。今日はいつもよりお酒が進む……。そして酔いも回る。

「私に出来ることがあったらなんでもするから言ってね」

 そう言われたとき、俺は何かを口にして、それから……意識を手放した。


 ――目が覚めた時、まず目の前の光景に驚いた。全く見覚えのない場所だったからだ。
 きちんと片付いていてほんのり甘い香りのする……間違いなく女性の部屋。そしてもっと驚いたのは、横たわった俺の頭が乗っている場所の何とも言えない柔く心地いい感触だ。思わず手を当てて、その感覚にハッとした。
 慌てて頭を退けようとしたら後頭部にこれまた柔い衝撃が走った。「わっ」と朱智斗さんの声。
 なんてことだ。なんてことだ……!!

「お、おおお、俺、どうして膝枕をして頂いてたんでしょうか!? っていうかぶつかってすみません、すみません!」

 朱智斗さんの膝から避けようとして誤ってお胸にぶつかってしまうなんてなんという失態、無礼だ!
 当の朱智斗さんはというと、お酒がまだ抜けきっていない顔でへにゃりと笑っていた。

「どうしてもなにも、居酒屋で独歩くんが言ったんじゃん。“膝枕してください”って」
「お、俺、そんなことを……!」
「うん。だから膝枕。お店で横になったら迷惑かと思って、近いし、家に連れてきちゃった」
「んなっ、な、朱智斗さんのおうち……!」

 深呼吸する。そう言えば朱智斗さんの香りでいっぱいの部屋だ。
 朱智斗さんの部屋で、朱智斗さんのベッドで、膝枕を堪能させていただいてしまった……!
 酒の勢いもあってか、朱智斗さんはいつもより大胆だ。一人暮らしの女性が独身男性を部屋に招くということがどういうことかわかっていない。まるで分かっていない!
 俺だって紳士じゃない。出来る限りそうありたいとは思うけれど、こんな状況だとどうしても心が逸る。
 朱智斗さんは拳を握り締める俺の頭をさわさわと撫でて、「頑張り屋さんだねぇ」とまるで子供を褒めるような声音で話しかけてくる。
 ここはどうするべきか。

「お、俺なんかより、朱智斗さんのほうが頑張り屋さんですよ……」
「そんなことないよ〜」
「そんなことあります。だ、だからその……」

 紳士かつ真摯であれ、俺!

「朱智斗さん、何かしてほしいことはありませんか? 膝枕のお礼に、俺も何かしてあげたいです……」
「ハグして」
「え」

 は、早い。早いよ朱智斗さん。

「ハグしてほしいです」

 ちょっと潤んだ瞳で、恥ずかしそうに見つめられた。くらりとした。
 いつもよりひそひそ声なのがまた、くらりとした。
 自信に満ちて胸を張って歩く印象の朱智斗さんが、しおらしく俯きがちで俺の返答を待っている。
 答える代わりに俺は精一杯両手を広げた。

「ど、どうぞ」

 いつでも来てください、と言い切る前に、朱智斗さんが胸に飛び込んできた。しっかりと抱き留める俺。
 アルコールと朱智斗さんの香りが混ざって、妙に甘ったるく感じる。
 とても熱い。ぴったりとくっついた朱智斗さんがひっしと俺の背中に腕を回していて。俺も朱智斗さんのことを離さないようにしっかり腕の中に収めた。
 ハグしてほしい、という要望だったのに受け手に回ってしまったのは反省している。でもこれが俺の精一杯だった。俺から抱き締めに行ったら何かが決壊しそうでたまらなかった。

「独歩くん、あったかいねぇ」
「朱智斗さんも、あったかいですよ」
「すき……」

 耳元で囁かれて思わず体が跳ねた。熱っぽい声に反応してしまって、俺は酷く焦った。
 これは――つまり――そういう流れ……ですか?
 朱智斗さんがくたりと身を委ねてくる。受け止め続ける俺。きっとこの心音も伝わってしまうような超至近距離。

「あの、朱智斗さ……」
「……くぅ」

 ……くぅ?
 そろそろと朱智斗さんの顔を覗き込む。何と、朱智斗さんは眠っていた……。まさかの寝落ちだった。
 謎のやる気に漲っていた俺の緊張の糸が切れる。力が抜けた。
 朱智斗さんをベッドに寝かせようと苦慮し(朱智斗さんがなかなか離れてくれなかったのだ)、このまま朱智斗さんを置いていくわけにもいかず(だって俺がいなくなったら誰がこの部屋の鍵を閉めるんだ?)、悩んだ挙句一二三にメールしておいた。

『朱智斗さんが酔いつぶれたから泊まっていく』

 後々つつかれそうな内容だけど、今はこれだけ。明日が休みで良かった……。
 俺はブランケットを拝借し、ソファーに横になると、目を閉じた。

「おやすみなさい、朱智斗さん……」

 ――チュンチュン、と鳥のさえずりが聞こえてきて、ああ、朝なんだと気づく。かぐわしい香りが鼻をくすぐって、きゅうと腹が鳴った。慌てて飛び起きる。飛び起きてから、今日は休みだったと改めて思い出す。急いで起きることは無かったのだ。
 しかし朱智斗さんの様子が気になって立ち上がった。キッチンの方で物音がする。香りもそちらからだった。

「あ、おはよう独歩くん!」
「お、おはようございます……」

 キッチンを覗くとすぐに朱智斗さんがこちらを振り返った。髪を束ねて剥き出しのうなじ。エプロン姿。恋人のこんな姿を見て平然としていられる人間がいるはずもない。

「ごめんね昨日は! 今ね、朝ご飯作ってるから。簡単なもので申し訳ないけど」
「い、いえ、お気遣いありがとうございます」
「かたっ苦しいんだから、もう」

 気さくに笑う朱智斗さんに、何とか微笑み返す俺。あまりの神々しさに対応が追い付かなくなっていく……。
 朱智斗さんお手製の味噌汁、卵焼き、焼き鮭をつまみながら、改めて昨晩のことを振り返った。
 アルコールのせいでいつもより儚げだった朱智斗さんの微睡み具合。無防備に俺に身を委ねてきた姿。あれらの感触が全てありありと残っていて、正直、食事の味がよくわからなかったほどだ。美味しい、多分美味しい。

「すごく恥ずかしいけれど昨日のことよく覚えてるからさ、その……迷惑じゃなかった?」
「めめめ、迷惑だなんてとんでもない! すごくドキドキはしましたけど……」
「そっか、そっか」

 安心したような、ちょっと恥ずかしそうな朱智斗さんの笑みに、俺もつられて笑ってしまう。
 なんだ、朱智斗さんも恥ずかしかったんだ。お酒のせいで少したがが外れたんだな……。
 もっと突っ込んだ話をしようかと思った矢先、俺の携帯電話が忙しなく鳴りだした。
「す、すみません!」慌てて画面を確認すると、一二三からだった。何故メールじゃなく電話なのか。失礼してベランダへ出る。

「もしもし?」
『おっはろー! 昨晩はお楽しみでしたねぇ、独歩ちん♪ それでどうどう? 大丈夫だった? 無粋かもって思ったけど我慢できなくてこの時間なら大丈夫だろって電話しちったよ〜! 今日はお赤飯炊けばいい? っていうかいよいよ朱智斗っちとお店来てもらわないと! お祝いのお祝い……』
「ひ、一二三が思ってるような状況になってないから! 普通に過ごしたから!」
『あらら? そなの? 男と女が同じ部屋でまどろんで何も起きないなんて……』
「起きてないんだよ! そりゃちょっとは考えたけども……いやいや! 朱智斗さん普通に寝入っちゃったら邪魔なんて出来ないだろ!?」
『そっか〜。独歩ちんらしいね。まだまだ先かなコレは……。ま、その時は改めてお祝いさせてくれよな! んじゃ、よい休日を♪』

 そうして電話はほぼ一方的に切れた。とぼとぼと室内に戻ると、朱智斗さんは俺を見て苦笑している。

「一二三くんからでしょ? 聞こえはしなかったけど様子でわかった」
「は、はい。アイツ余計な気を回してきて……」
「それだけ幼馴染の独歩くんが大切なんだよ」

 思わず愚痴をこぼしそうになる俺を、優しい朱智斗さんの声が遮った。

「羨ましいなあ、仲良しで。私ももっと独歩くんとお近づきになりたいな」

 頬杖をついてニコニコと俺を見つめるその姿に、胸が高鳴った。
 ――俺もどんどんお近づきになりたいです!
 心の中でそう叫んで、残っていた味噌汁を一気に飲み干した。
 その後俺は一二三の待つ自宅へ戻り、朱智斗さんは元気に出社して行った。

「いってらっしゃい、朱智斗さん」
「いってきます、独歩くん」

 そんな挨拶を交わせたのが、とても嬉しかった……。
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