妖狐、撫虎と和解する
 巻き起こる風によって千切れた草花が、土埃と一緒に飛んでくる。きゅっと目をつぶり、一瞬息を止めてそれをやり過ごす。
 瑞火は、十数回目のこの作業に飽き始めていた。

「そろそろ散る花も無いぞ……」

 元親と直虎が刃を交える様を、瑞火はまるで他人事のような距離を保ちながら見守っていた。傍目には、「散々悪口言った割には戦となると役に立てず隅に逃げた小娘」程度に映っているはずだ。
 ここに至るまでの瑞火の暴れぶりを、誰も直虎に伝えていなかったようである。幸いなことであった。

(まあ伝令は野郎共の波に紛れながら粗方潰したしな)

 伝令がいたところで、紙切れひとつで敵を吹き飛ばしたり失神させる瑞火の妖術を、上手く伝えることは出来なかっただろう。
 直虎が両手で振るう大剣の猛々しい衝撃を、元親は、片腕で構えた碇槍で見事に防ぎきる。威力は確かにあれども、激昂で技術を欠いた虎牙は鬼神に及ばない。
 制御出来ぬ怒りが齎す力が如何に脆いものか。彼は、この打ち合いを通して実感してくれているはずだ。
 瑞火は笑った。
 元親も情にもろく、怒りに流されやすい節がある。その危うさを知ってほしいのだ。この炎は程々にこなさなければ、自らを、大切なものを呑み込み兼ねない。彼が一国の主として生きるためには、欠かせぬ心得なのである。

「だからといって直虎ちゃん疲れさすだけじゃあ大変可哀想よね」

 直虎は、恋と共に我をも失い続けているように瑞火は感じていた。
 実に勿体無いことだった。立ち直ったならば、彼女は真に“虎”としての脅威を発揮できるであろうに。
 恐らくそういう類いの経験が浅いのであろう。そこにあの熱い性格だ。初恋とまでは行かずとも、生涯に有るか無いかの情を抱いたに違いない。故に許嫁の失踪は相当に堪えた。その衝撃に対し、彼女の直向きさは仇となった。
 今の直虎では、真正面から諭そうにも、聞きはしないはず。
 ならば角度を変えるしかない。

「それ以上は止めて! うちの殿様をもう苛めないでよ!」

 さながら、主を庇うかのように瑞火は飛び出していった。あまりにもらしくないか弱さを演じたために、笑いが漏れそうになる。その為に震えた声が、更に弱々しげに瑞火を引き立てていた。
 急な瑞火の介入に、直虎も慌てて剣を止めた。それでも僅かな剣圧が風を生み、瑞火にかかる。

「急に飛び出すな! あ、当たったら痛いんだぞ!?」
「だからってこのまま見てたら、元親が傷付けられちゃうかもしれないんだもの。そうなったらボクはもっと痛い!」
「お前……!」

 潤んだ瑞火の眼差しに、直虎は息を呑んだ。瑞火と元親に「見せつけるな」と怒鳴ったことが嘘のようである。彼女の乙女心は、瑞火の陳腐な演技に引っ掛かってしまったのだ。
 仕方ないかもしれない。瑞火は見た目、美しくあどけない少女である。その実、強烈な毒舌とそれに見合う残念な性格の持ち主だと、初見で見抜くには無理があった。一度や二度暴言を吐かれたぐらいでは“幻聴だろう”と思える程に。
 術に長けた妖狐の化けの皮を剥げるのは、同じく術に長けた化物しかいないだろう。
 しかし、それを差し引いても、直虎は純粋に騙され過ぎていた。
 二人のやり取りを見せつけられている元親は、笑いを噛み殺すのに必死であった。
 かつて自分も瑞火の容姿に騙されたことがあった故に――と言っても初めから瑞火が本性を隠すことなく表したために、元親が騙されたのは初対面のほんの一瞬である――今、元親は、直虎に心底同情してもいた。
 僅かに震えながら、そっと俯き、瑞火たちから視線を外す。万が一表情に出た際、知られぬようにと考えてのことだ。妖狐に考えがあることを、元親はしっかり悟っていたのである。

「瑞火……。あんまり無茶すんじゃねぇ……」
「無茶じゃないよ、チビなりに体張ってるんだい!」

 彼が指した“無茶”とは、無論、弱いもの演技のことである。
 だが元親の精一杯な皮肉は、瑞火の演技を更に迫真なものへと変える手助けとなった。
 純粋な直虎は、元親のその様がまさか笑いを堪えるためだとは知る由もない。己を庇い飛び出した瑞火の健気さに感極まり、涙を堪えているのだと思っていた。瑞火が男であることすら、まだ彼女は気付いていないのだ。
 瑞火が元親に服従することを強いらている訳ではないと、さすがの直虎も勘づき始めたようだ。先ほどまでの勢いが見る見るうちに削げていく。

「このまま私が戦い続けては、まるで私が苛めているようじゃないか……」

 撫虎が妖狐の術にまんまと掛かった。
 頑なだった直虎が口にした弱気な言葉を、勿論瑞火が聞き逃す筈が無い。

「え、えっと、でも、直虎はボクの事を心配してくれたから躍起になったんでしょ?」
「そ、そうだが……」
「それで、元親が悪いことをしてるんだって思って、正そうってしてくれて……。それってつまり、直虎が人を思いやる優しい心に満ちた素敵な乙女と言うことだよね」
「わ、私が……!?」

 瑞火は内心噴き出したくて堪らなかった。瑞火の愛らしい外見は、普段己を厳しく律する女性によく効いた。たとえば、上杉の忍・かすがなども、瑞火を気に入っている。ただ彼女は些か特殊で、瑞火のどす黒い本性を知っても尚「かわいらしい」と愛でるが……。
 直虎とかすががよく似ている。術にはめやすいのも、二人の性質が似通っていて、自分にとっては相手取りやすいからなのかも知れない。
 瑞火はそう感じながら、傍目かわいらしい演技を続けることにした。

「女ってだけで、なめて見られてさ。世の中ひどいよね。女も男も関係なしに、直虎は当主として国やその民を守ろうって、そこらの当主よりずっと頑張って自分を律してきて……。だからなんだろうね、ここの人たち、とっても直虎を慕ってる。綺麗な国だよ」

 決しておべんちゃらを並べて立てているのではない。瑞火は、思っていることをやや誇張して発言してるだけである。直虎の頑張りは、井伊が井伊として存在していることが明確に表しているし、彼女が言うように「男以上の根性と努力を重ねた姿」は素晴らしいものだ。
 付き合うのは御免だが、この戦乱の世に名を連ねるにふさわしい“武将”として、瑞火は瑞火なりに、彼女を認めているのだ。
 そうでなければ、大事な主君と打ち合いなどさせはしない。

「お、おだてたところで私はほだされないぞ」
「嘘は言ってないよ。ボクの言葉を嘘と言うならば、直虎は、直虎の大事な国の人達をも否定することになるよ?」
「私の、大事な者たちを……」

 直向きな虎の牙と爪はなりを潜め、今やそこに在るのは年頃の乙女のみである。
 女らしく振舞うことを厳しく律して生きてきたであろう彼女に、狐の話術と屈託ない外見は抜群の効果を発揮し続けた。
 瑞火が何か言うたびに直虎は返そうとしてはしかね、そこに瑞火が畳みかける。彼女を否定するのではなく、なるべく彼女の頑張りを認め、包み込み、諭すように。
 成り行きを見守る元親の笑いもいつの間にか引っこんでいた。
 そうして、やりとりを重ねていくうちに――瑞火がとどめと言わんばかりに頭を下げた。

「必死だったからって、手ひどく暴れてごめんなさい!」
「気にするな、それが戦だ。勘違いで迎撃した私にも非がある」

 何と直虎も、頭を下げ返しているではないか。般若のごとき険しさは何処へやら、別人のように凛とし、大和撫子そのものだ。
 おお、と元親は小さく声を上げた。
 すっかり狐と虎は意気投合してしまったようである。

「すまなかった、長曾我部。この子からお前が野蛮なだけでは無いことは確かに伝わったぞ」
「そうか、そいつぁ良かった」
「瑞火がお前を“海原のようにでっかい男”だと言っていたが、過言ではなさそうだ」
「瑞火がか……? 珍しく人の事買い被ってくれてんな」

 元親が上の空のうちに、瑞火はそんなことを抜かしていたらしい。気恥ずかしさに元親が頬をかくと、直虎はフッと笑ってみせた。
 血眼になって武田信玄への恨み節を炸裂させていた彼女の面影は全く無い。静けさが逆に恐ろしいくらいである。これが本来の井伊直虎という人物の姿なのかもしれない。
 一先ず瑞火の活躍により、この戦は終いとなったようだ。お互いにすっかり戦意は無い。直虎は伝令を呼び、瑞火は呼ばれた井伊の伝令と共に、互いの軍に終戦を報せに行った。
 自分を置き去りりした形でとんとん進む状況に、元親は文句をつけもしない。瑞火が長曾我部軍の不利益になる行動をしないと信頼しているからだ。狐の破天荒さで思いもよらぬ行動をとったりもするが、自分の尻は自分で拭う実力も伴っている。
 不安は何一つ無かった。
 何一つ。
 あえて言うならば、不安が無いことが不安だろうか?
 瑞火の異能は、元親の欲するところを容易く補う。同時に他軍にとっては脅威である。瑞火を欠こうと作戦を練り、向かってくるが、今までに成功した者は一人とていない。きっとこれからも。
 そう、信じたい。だが。
 ――万が一、瑞火に何か有ったら。
 そんな想像をした時、元親が考えたのは軍の損失ではなかった。
 元親の脳裏に過ったのは――。

「ひめちゃあん!」
「うわっ!」

 不意に下方から響いた大声に元親はのけぞった。体勢を立て直し、見下ろした先には不貞腐れた瑞火の顔がある。

「引き上げようって何回呼びかけたと思ってんの! ばかちか! これ以上ご迷惑かけないうちに行きましょ」
「お、おお。悪い悪い」
「まったくもう」

 小さな瑞火に怒られ、元親は素直に謝った。瑞火も言葉の割に本気で怒っている訳では無かったので、すぐにうっすら微笑みを浮かべて見せる。

「ささっ、直虎に挨拶」
「おう。なんだ、その、邪魔したな」
「お互い様と言う事にしておこう。瑞火に免じてな」
「そりゃあ助かるぜ」

 直虎の口ぶりからして、瑞火の猫被りがばれている様子は無い。
 このまま去るのが得策だろう。瑞火がいなくなってから冷静になった直虎が、瑞火の言動を振り返り、その本性に気付いてしまう前に海へ出よう。
 当たり障りのないように、元親は直虎と言葉を交わした。

「じゃーねぇー!」

 直虎と、井伊の皆に見送られながら、長曾我部軍は海原へと漕ぎ出して行った。
 見送る面子が遠ざかり、認識できなくなるまで、瑞火は律義に手を振り返していた。
 徹底している。何が、とはあえて言わないが。
 思わず元親は笑った。

「アンタ、よく騙し通したな」
「可愛さに誑かされた直虎ちゃんが未熟なのであるよ」

 瑞火は悪びれた様子も無く答える。

「ボクの言動の良いとこだけ気にかけたもんだから、親切に本性の欠片ばらまいといたの気付かないんだもん」
「ばらすつもりだったのかよ」
「普通あんだけやりゃ気付くだろ。元親に脅された訳じゃなく自ら暴言吐いたって教えてやったのに。可愛いって罪だわーホント。自分で言うわ、ボクはまるでトリカブトのように罪深いわ」
「とか言っておきながら、その暴言も良いように後から理由つけて誤魔化したんだろ……?」
「そりゃあ勿論ですよぉ」

 抜け目がないとは正しくだ。悪どい笑顔を見ると、味方でよかったと心から思う。
 しかし万が一、この誤魔化しがばれた時の直虎の怒りは相当なものに違いない。
 妖狐の術に、撫虎が騙され続けてくれることを元親は祈った。 

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