妖狐、撫虎と相対す
 迂闊だった。
 この総大将が方向音痴であることをすっかり失念していた。幾らなんでも風の向くまま波の向くまま気の向くまま進路をとらせ過ぎた。
 自分以外の人間が、元親の道行きに口を出すはずがないというのに。
 元親が「行くぜ野郎共ー!」と言えば、「アニキー!」の歓声と共について行き、肝心の内容は動き始めてから聞くような調子なのに。
 何故自分は、初めから元親の側で進路や成り行きを見守らなかったのか。

「ま、そういうのは嫌いじゃないし? 後悔しても始まんないんだけどさ」
「おう……」

 よりにもよって遠江――井伊直虎のとこに来るなんて。
 瑞火はげんなりした。
 あからさまな反応から判るように、瑞火は、井伊直虎という人間が苦手なのである。

「なあにが“何時だって考え抜いてる”だ、姫ちゃんよ! ボクあいつヤダって言ったのに忘れたか!」
「悪かったって言ったろ、俺だってなぁ…」
「判ってますよ、目指してた場所と違うとこに来ちゃって反省してるんだよね!」

 言うや否や瑞火は妖術を放った。突き進む空気の塊が井伊の男衆を悉く撥ね飛ばし、地に叩き付ける。
 井伊谷城には、彼方此方で撫子の花が咲き誇っていた。その花を踏み散らしながら、長曾我部軍と井伊軍は戦っていた。暑苦しい野蛮な海賊として、井伊直虎直々の采配による手荒い歓迎を受けたのである。
 しかしそれを上回る手荒さをもってして突き進む瑞火に、元親は気後れしそうになっていた。
 井伊の男衆で言うところの直虎が、元親にとっては瑞火なのかも知れない。

「瑞火、アンタすげぇ怒ってるよな……?」
「男に逃げられたのを人のせいにして八つ当たりしまくる奴の陣地だと思うと、力の振るい甲斐があっからね」
「その言い方もよぉ。まぁ、話聞く限りじゃ確かに逆恨みって感じだったな……。けどまぁ、そんだけ衝撃だったんだろうよ」

 瑞火の厳しさに、思わず元親は直虎を庇うような言葉で返してしまう。言ってしまってから元親は、失言だったかと焦ったが、瑞火は此方を一瞥しただけだった。
 井伊軍の男たちは、しごきたくなるのも仕方ないほどに及び腰な連中ばかりだった。だがその一因が、執拗にしごかれるからでは無いかとも瑞火は思った。元から芯の無い男が多いにしても、幾らなんでも厳しい。
 悪循環という奴である。
 これでは鍛練に耐えうる精神を養う前に挫けるだろう。
 何せ女たち――なでしこ隊が逞しすぎる。男衆が強くなるより、既に強いなでしこ隊が戦う方が効率的だ。

「事情が何であれ“飯抜き”なんて罰、爾あたりが聞いたら猛反対しそう」

 勇ましいなでしこ隊が男衆に檄を飛ばすのを見ながら、また瑞火は術を放つ。もう何回目かは忘れた。

「男衆! 戦う前から諦めない!」

 つくづく同意してしまう、あの怒声を聞くのも何回目だろう。
 城内には飼い慣らされた虎までいた。一般の兵士にとってこの虎は、さぞ恐ろしい相手であろう。その咆哮は兵の足を地に縫い付け、鋭い爪が並ぶ前足は多重の刃と化していた。
 しかしあくまで一般の兵が相手の場合である。
 瑞火にとって動物は、最も容易い相手であった。
 長曾我部軍の兵士を蹴散らす一匹の虎に、瑞火は無防備に歩み寄っていく。すぐさま虎は瑞火の存在に気付いた。
 しかし――襲い掛かろうとはしなかった。

「賢い子だねえ」

 瑞火は微笑んでいた。しかし微笑みと共に滲むのは、おぞましい妖気であった。妖気は虎の心身に巻き付き、締め上げる。
 そして虎に理解させた。
 自分はこの生き物に敵わない――。
 怯えた猫のように身を縮め、尻尾を足の間に巻き込み、出来うる限り体を小さくする。
 動物は純粋だ。そして彼らは余計なことは喋らず、繕わず、触れれば心地が良い。
 瑞火は笑みを深め、虎の頭を撫でてやった。

「おお、おお。毛並ちょお良いー」

 瑞火の妖気は、獣に対して絶大な効果を持つ。手懐けるというよりは屈伏させる形になるが、無力化出来ることに代わりはない。
 敵を碇槍の一閃であしらいつつ瑞火に合流した元親は、その状況を見て半笑いを浮かべた。

「アンタなぁ、戦場で虎相手に暢気すぎだろ」
「姫ちゃん待ちしてたんだよ」
「お待たせして悪う御座いましたね」

 元親の細やかな皮肉に、ニッと瑞火が笑う。
 城中の陣は既に長曾我部軍の大波がが飲み込んだ。後は最奥で構える総大将・井伊直虎のみ。
 赤い敷布の上――通称“汚れなき乙女の道”を、二人は揃って進んでいった。

「姫ちゃん。井伊直虎は、慶ちゃん程じゃあないが大剣の使い手だ。国を率いるだけある。女だからって抜かるなよ」
「判ってらぁ。だがよ、女相手に俺が張り合って負けるわきゃ無ぇだろ」

 そう言って豪快に笑い声を上げる元親に、瑞火はため息をつく。

「確かに力の差があるやもだけど。女にゃ男にない、しなやかさが有るのよ。真っ向からの力で差がつくなら、忍なんて要らない。それに此処の女はまた別っこだ」
「だから判ってるっての」
「判ってないでしょお!? たとえ格下が相手だろうと何だろうと油断は禁物って言ってんのよ」
「心配し過ぎなんだってアンタはよぉ」

 歩みながら二人は口論を始めていた。
 瑞火は元親の脛を執拗に蹴りながら叫ぶが、具足に守られたそこはびくともしない。対する元親は瑞火の額を押さえて腕を伸ばした。圧倒的な尺の差が現実となる。瑞火が叩こうと手を伸ばしても届かないのだ。

「くっそぉぉおお姫ちゃんのくせにぃぃい!」
「悔しかったら背ぇ伸ばせ!」
「むきー!!」

 そんな二人のやり取りを、じっと見つめる人物がいた。

「海賊共め……。これ以上の狼藉は許さん!」

 大剣を翳しながら、凛々しく眉を吊り上げる黒髪の女武人。この城の主にして総大将、井伊直虎であった。

「この私が、直々に討ち果たしてくれる! よくも私の城と乙女たちを――」
「ちっちゃくて可愛いのがボクなのに! てか伸びたら苦労しないわ!」
「まあ背が高いアンタなんて気持ち悪ぃしな」
「話を聞けぇー!!」

 喧嘩に夢中で見向きもしない二人に向けて、直虎は大剣を降り下ろした。
 強烈な風が瑞火と元親に迫る。
 寸でのところで二人は真剣な面持ちに返ると、手にした武器を盾にし、直虎の攻撃をしのいで見せた。
 空気の圧は散開し、周囲の草花を荒々しく巻き込みながら舞っていく。
 瑞火は札を携えたまま、袴に掛かった土を払いつつ呟いた。

「あっぶないなぁ。野蛮なお人ね」
「私が野蛮だと!? よ、よくも……!」
「アンタ、随分とご立腹じゃねえか。どうした」
「どうしたもこうしたもあるか!」

 元親が訊ねると、直虎は声を荒げたまま答えた。握った拳は怒りに震えている。

「私の乙女たちを悉く踏みにじり、城を花を荒らし、私を女だてらと罵り、挙句……」
「さっきの会話聞こえてたのか……で、挙句?」
「仲睦まじい様を、当て付けかの如く私に見せつけて……! 絶対に許さないからな!」

 瑞火と元親は顔を見合わせた。
 尚も直虎は「人目も憚らず男と女が……」などとごねているが、二人には聞こえていないかのようである。

「どういうこった」
「ボクがあんまり可愛いから女のコと勘違いされてるようだ。そして元親と男女の仲であると思われたらしい。あんな色気のない会話だったのに」
「お、俺とアンタが……!? っ、まぁ、確かに瑞火は黙ってりゃ美人だからな……」

 言葉のわりに元親は動揺しているようだった。頬も赤く染めて、視線のやり場に困ったのか明後日を見ている。
 そんな彼を瑞火はにやにや笑いながら見上げ、不意に、直虎へと視線を移した。
 当て付けです、と言わんばかりの笑みのまま。
 怒りに言葉すら詰まらせる直虎に、瑞火は更に畳み掛ける。

「ボクの知らんうちに、乙女って言葉は“傍若無人で利己的で我が儘な女”ってのを指すようになってたのかねぇ」

 元親はひやっとした。瑞火の言葉はあからさまに喧嘩を売っていた。しかも相手は、武田の連中に負けず劣らずの熱血……あの直虎である。
 直虎がこの喧嘩を買わないはずが無かった。

「……何だと?」
「お前さんの八つ当たりな振る舞いが気に食わないってこった。モテないからって僻むな、見苦しいぞ」

 いくら元親が焦ってもどうにもならなかった。止める間もない瑞火の悪口は、直虎の怒りに油を注ぐ。それが瑞火の狙いであることを元親は判っていたが、幾らなんでもやりすぎでは無いかと思った。
 ――ここまで怒らせて何がしてえんだよアンタは!!
 直虎と会う前と今とで、瑞火と元親の立場は完全に逆転していた。
 焦る元親を他所に、直虎は激昂に任せて叫ぶ。

「野蛮な海賊たちに毒された可哀想な乙女の心を救うのも私の役目だ……! 海賊、貴様の性根を叩き直してやる!」
「はぁ!?」

 そんな直虎が剣で指した相手は――何故か元親の方であった。
 勿論、元親には全く状況が飲み込めない。

「な、何で俺だよ!?」
「いたいけな乙女に罵詈雑言を叩き込み、私に対して使うようにと脅したのだろう? 見るからにか弱い乙女を力で屈伏させ、己の良いようにするなど……私は怒ったぞ!」
「何でそうなった!? コイツの口の悪さは元からだしアンタはとっくに怒ってんだろうが!」

 叫んでから元親ははっとした。
 直虎は恐らく知らないのだ。
 瑞火が“妖狐”と呼ばれていることを――。
 故に瑞火を、海賊に捕らわれた乙女と認識し、怒りの矛先を元親に向けた。
 そして瑞火は、その全てを推測した上で直虎に暴言を吐いたのだ。

「冷静さを欠いた相手は伸しやすい。頑張ろう姫ちゃん」
「アンタやっぱり計算づくか!」

 元親の叫びに、瑞火はただただ笑うだけ。その姿に文句をつける暇は、残念ながら与えられなかった。
 すっかり火のついた直虎が、大剣を掲げ、元親たちに迫ってきていたのである。


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