たった6畳のエデン




 主が泣きながら僕の手を取る。手入れ部屋から出てきたばかりの、つい数刻前までぼろぼろだった僕の手を。

「ごめんね、ごめんね小夜。痛かったでしょう。辛かったでしょう。出来の悪い主でごめんね」
「大丈夫だよ、主。もう直ったんだから」

 それでも主が泣き止むことはなかった。ここで泣かれ続けたら皆の目に映る。僕は主の手を引いて、移動することにした。目指したのは主の寝室。六畳あるかないかの狭い部屋。でもそこなら確実に人目を引くことなく泣けると思った。

「主、着いたよ」

 部屋に着くと僕は主に呼び掛けた。主は僕の手を離そうとしない。少し困った。主には部屋で落ち着いてもらって、僕は出ていこうと思っていたから。
 ひとまず座って、僕は主に話しかける。

「主、気にしないで……。僕もあんなところでは諦められない、それだけだったから。無茶を押したのは、僕だから」

 あとひと刺しで敵を仕留められる。そういう状況だった。敵の集中攻撃を受けながらも、僕は、倒すと決めてその通りにした。それだけ。折れなければ怪我なんてどうとでもなる。
「このまま行かせて」と主に頼んだのは僕なのだから、主がこんなに泣く必要は無い。

「止めるべきだった。あと一歩で小夜、死んでしまうところだった」

 主が僕の両手を握り締める。きつく、きつく。
 僕らは死にはしない。ただ、破壊されるだけで。いなくなるだけで。蔵には主が鍛刀の儀で生み出した、他の僕たちがいる。代わりは、いるのだ。
 主は僕らを、命宿した生き物として扱う。僕らは確かに命と呼ばれるものを手にしたのかも知れない。でもこれは、本当にいのちと呼んでもいい? 黒く淀んだ執念に塗れた、この僕は。
 溢れる主の涙がそのまま畳に落ちて染みを作る。ぱたり、ぱたり。いくつも、いくつも、絶え間なく。

「主、泣かないで」
「小夜、小夜」
「分かったよ。僕はここにいるから」

 すすり泣きながら主は、こくりと頷いた。
 何とか少しずつ落ち着いてきてくれた気がする。僕は下手くそな笑顔を浮かべながら、主の手をそっと解いた。解いた手で、俯く主の頭を撫でる。主がいつも、僕にしてくれているように。

「大丈夫、大丈夫だから」
「うん、うん……」

 何が大丈夫なのか分からないけれど、何を以てして大丈夫なのか言えないけれど、そう繰り返すしか僕には無かった。
 ……主はほとんど泣き止んだ。まだ気を抜くとほろりと雫の溢れそうな瞳をしていたけれど、僕を見つめて、くしゃくしゃの笑顔を見せた。

「小夜、戻って来てくれてありがとう」

 もう、誰かが戻って来ないのは嫌だ、とでも言うように。主はそう言った。
 ああ、もしかしたら。僕は「最初」じゃないのかもしれない。出陣を強請った誰かがいたのかもしれない。そして、砕け散った誰かがいたのかもしれない。
 僕は主にとって初めての小夜左文字じゃないのかもしれない。

「ありがとう、ありがとうね」

 僕は申し訳無い気持ちになった。もしそうだとしたら、主にとって今回の事は大層心臓に悪かっただろう。肝を冷やしたことだろう。
 こんな無神経な僕に何度も礼を述べる主を見ていたら、いたたまれなくなってきた。

「主、今回は僕が悪かっただけだから。謝罪も礼も必要はない」

 主の頭を撫でるのを止めて、両手を膝の上で握った。

「僕らがせがめば断れないことを知っていたから。僕が狡かったんだ」

 内に宿る淀みに身を任せることを選んだ僕のせいなのだから。
 ……こう言ったところで主は自分を責めるのを止めないだろう。納得し難い表情をして、主は僕を見つめていた。
 後ろに見える敷きっぱなしの布団は少し崩れていて、今日、主が起きて出てそのままなのだろうと思った。

「主、布団は片付けないの?」
「あ、ああ……。今日は寝坊しちゃってね」
「そうなんだ」

 僕は立ち上がると、布団に近寄った。簡単に布団を直してみる。……うん。よし。ぽかんとする主に向き直って、僕は言った。

「少し寝ると良いよ、主」
「え?」
「気を揉んで疲れただろうから」

 戸惑う主の背中を押して、半ば無理矢理布団に押し込む。あわあわと横になった主に布団を掛けて、僕は密かな達成感を得た。
 これで僕も出ていける……。
 そう思った時。

「それなら小夜も」

 と、手を引かれた。華奢な割に主の力はしっかりしていて、僕はあれよあれよという間に布団の中に巻き込まれる。しっかり僕を抱きかかえた主は、今日一番の落ち着いた笑みを浮かべている。

「おやすみなさい、小夜」

 有無を言わさずに主は瞳を閉じてしまった……。

「主……」

 胸の奥がむずむずする。体がふんわりあたたかい。
 言いようのない感覚に、僕は、助けて欲しいと、誰に向かってでもなく願っていた。

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