ふわふわ、くるくる、ふよふよ、たまにストップ。
水槽を漂うクラゲのような動きでツェッドの周囲を舞う、まさしく“妖精”という表現がぴったりな女性。年齢不詳、住所も同じく。時折“実家”からジェラルミンケースでどっさり仕送りが来る謎のリャナンシー、名前をカレッサ。
水槽に浸かっているのはツェッドの方であり、その筒状の水槽の周囲を彼女が漂っているので、『水槽の中のクラゲ』というのは不適切な表現かもしれない。
「お水の中は気持ちいいんですの?」
「僕にとっては命綱なので……気持ち良いとかそういう概念はあまり抱かないですね。楽といえば楽なんですが」
「なるほどですの」
ぴったりと水槽のガラスに両手を当てて、鼻先までくっつきそうな勢いでカレッサは顔を近づけてくる。子供のようにキラキラとした瞳は水槽越しでもしっかり判って、とても微笑ましい。
まだライブラに来て間もない彼女は、ツェッド同様に此処へ住んでいる。仕事も住居も見つからず、悩んでいる最中らしい。「いっそ愛人稼業で生計立てたらどうだ」なんて彼の兄弟子がひやかして、それを鵜呑みにカレッサが飛び出しかけたのをついうっかり引き留めてしまって以来、こうして水槽の周りに居つかれることが多くなってしまった。
他種族への惜しみない愛を向ける相手を常に探している彼女にとって、自分のように動かない人間は――正しくは人類ではないが――、格好の的なのかもしれない。
ツェッドの心境を察したのか、ふとカレッサは水槽から手を離す。
「まあ、そんなに緊張なさらないで。みだりに愛情のまま行動したりしませんわ、私」
「すみません……。どうも落ち着かないもので」
「初心なんですのね! 思春期の愛らしい男の子のようです」
にこにこ微笑む彼女が、一体何をそんなに楽しんでいるのかは判らない。
――少なくとも自分が懸念していたことは全く的外れな杞憂だと知れただけ良しとしよう。
水槽の中にいると、特にやることが無い。だからと言って外に出てすることも無い。いわば、ツェッドは暇だった。
水の中で僅かばかり難しい顔をしている彼の心境を、どうしたことか向こう側に漂う彼女はやはり敏感に察していた。
「私ね、実は動物のお肉を食べたことがありませんの」
「え?」
ツェッドは目を丸めた。彼女はいったい、何を突然言い出すのだろう。
そんな疑問と戸惑いの眼差しに、カレッサは応じない。
「お野菜が好きですの。もっと言えば、お野菜は抜いたり切ったりしても動いたり悲鳴をあげたりしないから、幾分気持ちが楽なんですの。お肉やお魚はその、どうしても最中に抵抗があるから。でも命を頂くってそういうことですものね、だから大切に頂くんですものね。でも私は、お野菜さんたち沈黙の食材へ甘えてばかりなんです。ツェッドさんは、好き嫌いってありますの?」
小首を傾げながら尋ねられて、おずおずと彼は口を開く。
「生魚は……苦手ですね」
「火を通していたら大丈夫ですの? それともお魚とそうじゃないものが目の前にあったら、やっぱりお魚は避けます?」
「避けている気もします」
「ふむふむ……。お魚さんって癖があるっていいますものね。淡白なものもあるそうですけれど、気になる方はとことん気になるってことですわよね」
「そこに触れると、魚に限らなくなってきませんか」
「確かに……です。好きでも気になるものは気になりますしね」
ああ、これはどうやら、話し相手をしてくれようということらしい。ツェッドもようやく察した。
「カレッサさんは、魚どころか肉も自分で捌くんですか」
「お魚はこのくらいまで、お肉は鶏だけですけれど。もう何年も前のことですから……。今はすっかり捌いたものが売っていますけれど、どうにも食べたいなぁという気持ちがわきませんの。鶏を捌くときに失敗したからでしょうか、ややトラウマなんですの」
「成る程……。ですが野菜だけでは栄養バランスに問題がありませんか?」
「大丈夫ですわ。私の体は、もともと食事によるエネルギー摂取はあくまで補助的なもので、必須ではないから。食べないと弱ることは事実ですけれども」
「それはつまり、やはり必須なのでは……」
「そうともとれますけれど、飢えて死ぬことはない、というのは事実ですわ」
カレッサの話はとても興味深かった。食事を必要としない体。文献によっては“吸血鬼”とも呼ばれるリャナンシーという種族の片鱗を垣間見たような気がした。吸血鬼だったとしたら、今こうしてツェッドの前でのんびりと食の嗜好について語ることなくとっくの昔に“封じ込め”られているのだが。
――本当に彼女にとって必要なものは他の生命体のエネルギーであり、それを得る代償にその者の才能を開花させることなのだろう。しかし、そういう種族とはいえ愛した者の命を脅かすというのは、どんな思いなのだろうか。
胎児のように背中を丸め、膝を抱えて宙に浮くカレッサの視線は、ずっとツェッドを捉えている。
「勘違いのないように、一応断っておきますけれど、私は誰かを愛して生気を奪わなくては死ぬ、という訳ではありません」
「そ、そうなんですか」
「ええ。私は、誰かを愛し想う気持ちとほんのちょっぴりのお食事で十分に命を繋げていけますの」
――結局やっぱり、食事必須じゃないですか。
思考を読まれ、虚を突かれたツェッドの指摘は上手く声にならなかったが、「ですわね、ごめんなさい」とカレッサは判ったふうに悪戯っぽく破顔してみせた。
それからもカレッサの次々話題が移り変わる不思議な語りは続き、応じるツェッドの指摘や質問もあって、気が付けば夜はすっかり更けていた。ふわぁ、とカレッサがあくびをしたのを見て、ツェッドは自分がどれだけ会話に夢中になっていたのかを気付かされた。
「もう疲れたでしょう、そろそろお休みになった方が良いのでは……」
「ツェッドさんこそ。私、お話が苦手で、色々とツェッドさんが疲れてしまうような調子だったんではないかと思って……」
「……じゃあ、お互いそろそろ休みましょうか」
「そうしましょう」
微笑んだ彼女は、水槽の前の空間で体を丸め、瞳を閉じた。何と、ツェッドの目の前で眠るつもりらしい。
室内とはいえ夜は冷え込む。ツェッドは僅かばかり焦った。
「カレッサさん、ちゃんとベッドで眠るか、せめて何か羽織るべきです。眠るうちに冷えて風邪でも引いたら大変ですよ」
「リャナンシーはこれでもそこそこ丈夫ですの。……もしくは…」
ゆるりと瞼を上げたカレッサは、じいっとツェッドの瞳を見つめた。
「……誰かに“おやすみなさい”って言って頂けたら、それが私にとって最高のブランケットかなあ、と思いますの」
幼子のように屈託のない笑みを受け、一度外に出て羽織る物を引っ張り出そうと梯子を掴んでいたツェッドは硬直してしまう。ひんやりとした水の中で自分の体だけが異様な熱を持っていくのを彼は自覚した。
熱さに負け、リャナンシーの眼差しに負け、梯子からゆっくり手を離す。
ツェッドは、内心本当に平気なのだろうかといまだに心配だったが、
「おやすみなさい、カレッサさん」
素直に彼女の我儘へ従ってみることにした。
「おやすみなさいですの、ツェッドさん」
今日一番の幸せそうな笑みと暖かな声音をツェッドへ向けると、すぐにカレッサは瞳を閉じた。
まだまだ熱の引かないツェッドが眠りにつくまで、もう少しかかる。
……そして翌朝、寝不足な彼は、目を開けるなり「おはようごさいます!」と溌溂なカレッサの挨拶を受けてこう思った。
もしかすると彼女は、真冬の吹雪のど真ん中でも誰かに一声掛けてもらうだけで平気かもしれない、と。
そんな極寒の地に声を掛ける人間がいるもんか、というところまでは、休み切れなかった脳みそでは考えつかなかった。