絵画の妖精
 リャナンシー一族からの贈り物の中に、一冊のスケッチブックが収められていた。スティーブンは何となしにそのページを開く。描かれていたのは沢山の花々。そしてカレッサの姿。ラフなものからカラーに至るまで様々だったが、共通しているのは美しき妖精と花の組み合わせであること。まるで宗教画のような厳かささえ感じさせるそれらが、息抜きのために描かれた作品であることがラストページに書き添えられていた。
『我が愛しの妖精。愛しのひととき。ほんの休息の一ページたち』
 画家の名は掠れていた。わざとそこだけ擦ったように。
 ――画家は休憩するときも絵を描くんだな。
 ぼんやりとスケッチブックを見返しながらスティーブンがデスクに腰掛けていると、ふわりと空気が動くのが伝わってきた。
 カレッサの浮遊である。

「まあスティーブンさん。何をご覧になってらっしゃるの? 新しいお仕事ですの? 私にお手伝いできるかしら?」
「いや、息抜きがてら君の一族の贈り物をチェックしていたところさ」

 見覚えあるかい、とスケッチブックをひらりとさせる。カレッサの大きな瞳がより一層見開かれ、「ああ、それは……」と懐かしそうな声が漏れた。

「私の遠い昔の恋人の描いたものです。まだ残っていたなんて。きっとレシュノルティアが……姪が保存してくれてたんだわ。あの子の保存魔術はとびっきりだから」

 一族では冷遇されていたという話だが、全員がそうではなかったらしい。カレッサは同胞の名を紡いだ。ふわりとスティーブンのそばで浮きながら、スケッチブックを見つめている。

「時々こういうものが贈られてくるんだが、どれも作者の名前が不鮮明なのはどうしてだい」

 スケッチブックをカレッサに渡しながら、スティーブンは常々気になっていたことを聞いてみた。リャナンシー一族から贈られてくるのは資金だけではない。こうしてカレッサをモチーフにしたらしい芸術家たちの作品も挟まれているのだ。どれも芸術の才をもたらす妖精の寵愛を受けただけあり、審美眼とは縁遠いタイプ――誰とは言わないが――の面子も、ほろりと涙を溢したりするようなものだらけだった。
 そして常に、作品にはメモが添えらえている。
『忘れたことを忘れようとしたことを忘れないように』
 カレッサに向けてのものであろうと察したスティーブンによって、作品たちはすぐに彼女へ渡される。今日はたまたま覗いてしまったが、彼女はそれを咎めるようなタイプではない。自身がモチーフやモデルになっていることを恥ずかしがりはするものの、作者たちの想いと手間暇が込められた作品が他者の目に触れることを、彼女は大いに喜んでいた。
 スケッチブックの最後のページの例の場所に触れながら、カレッサは呟く。

「私に関わったひとたちの作品を、私の一族が全て消去しようとしたときの影響ですの」

 実にあっさりとした口調だった。あえて感情を乗せるのを控えたような、辛さを無理やり笑みに変えたような態度だ。

「私に罪はあっても、私の愛したひとたちとその作品に罪はありません。だから、作品を残す代わりに、忘れん坊の私への罰として、彼らの名前は全てわからないようにしてあるんです」

 子供の悪戯に苦笑する母親のような声音にも似ていた。スティーブンは自分が今どんな顔をしているのかわからなかったが、カレッサが大袈裟に肩を竦めて、抑揚を取り戻した声を発したことで何となく察する。彼女が好むような表情ではなかったのだろう、と。

「この擦ったような跡は、当然ただ擦っただけじゃありません。忘却魔術の一種です。特に私には、その影響が顕著に出ますの。一族の中でも強力な術師のものですけれど、誰の仕業かは未だにわかりませんの」
「その忘却は、少なからず君の記憶にも作用している」
「さすがスティーブンさんですの。仰る通り。でも、仕方ありません」

 抱きしめたスケッチブックを切なげに見つめながら、カレッサは笑った――のだと思う。

「本当だったら、どんな魔法をかけられても忘れてはならないことなんですから」

 しかしそのうつくしい顔が、悲しみに引き裂かれ、悲鳴をあげているようにしか、スティーブンには見えなかった。
 あまり他者の心に踏み込むのはらしくないと思いながら、彼は口を開かずにはいられなかった。

「どうしてそこまでして、君は君を愛した人々を遠ざけなくてはならないんだ」
「それはやっぱり、私への罰だからです」

 彼女が度々口にする“私への罰”とは一体何なのだろうか。随分とカレッサに懐かれているレオや、親しみを覚えられているツェッド、もしくは同性のチェインたちならば、何か知っているのだろうか。
 極力ライブラやリーダーに関わること以外は重く考えず追求もしない性質であるスティーブン。個人的に好奇心や探求心を露わにすることはない。それでも気になることは気になる。カレッサは既にライブラの仲間なのだから。
 仲間の重荷を軽くしたい、などと。
 まるでお人好しのレオやクラウスのような気紛れを、番頭は発揮した。

「この先も君は、ともすれば、一族の一存で愛しい存在を忘れなくてはならないのか?」

 カレッサがスケッチブックをデスクに置いた。代わりにその両手は、スティーブンの頬を包む。細く、優しく、柔く、あたたかい指だった。心の芯が解かれてしまうような、まるで魔法のゆびさき。その感覚に軽く痺れながら、スティーブンは、“妖精の恋人”の美貌を心身に浴びていた。

「そうならないように、今、私は一生懸命ですの」

 その美貌に悲しいほど美しい笑みを帯びなくてはならなかったのは、こんなにも悲しい顔をさせてしまったのは、自分の発言の為だと気づいてスティーブンは息を呑んだ。あまりにも自分らしくない。こんな時に限って他の誰かはいない。誰かがいたら、きっとこんな迂闊な言動も距離感もとることをなかっただろうに。
 これもリャナンシーの生来の魔力ゆえなのか。それともカレッサ自身の人柄がそうさせるのか。

「スティーブンさん、悲しい顔をしないで」

 彼女はそっと顔を寄せてきた。音もなく額と額が触れる。

「私の愛しいあなたが悲しむと、私の愛しい誰かが悲しむの。だから、どうか気にしないでお休みくださいな」

 ふわりと花の香りに包まれた。苦しくはない。寧ろ優しく香しいそれは、連日の激務で疲弊したスティーブンの瞼を閉じるには十分な威力を発揮した。仕事は一段落した。しかし、こんなところで寝てしまう訳にはいかない。ぐらりと傾ぐ視界に抗うスティーブンを、カレッサはその胸と広げた両腕で受け止めた。

「仮眠室にお運びいたしますわ。どうぞ目を瞑って、身を任せて」

 こちらの質問をはぐらかされた末、眠らされるとは。
 ――一杯食わされた気分だな……。
 意識と共に体も浮かんでいく。カレッサが宣言通り運び始めたようだ。
 抗いがたい眠気は増し、疲労の大きさを痛感する。
 普段クラウスからも心配されているのだ。たまにはこういうことがあっても良いのかもしれない。

「すまない、ありがとう。カレッサ……」

 聖母の笑みを浮かべた妖精がに優しく頭を撫でられる。

「ええ、おやすみなさい、スティーブンさん」

 おやすみ、と口を動かすのが精一杯で、そのあとは声にならない。
 スティーブンは自身でも驚くほど穏やかに眠りの世界へと誘われていった。
 彼を運び終えた妖精は、いつまでも嬉しそうに、しかしどこか寂し気に微笑んでいた。
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