メロディ・フォー・アクア
 細やかな装飾のあしらわれたアンティーク調のオルゴール。実にカレッサらしいセレクトの品だと思った。ただ不思議なのは、どうしてそれを自室に飾るのではなく大事に両手で抱えてやってきたのか。
 ツェッドは悩んだ。
 カレッサの太陽のように眩いいつもの笑顔。いつもの美貌。可憐なオルゴールを抱えて自分のところへやってきた理由は何なのか。大いにツェッドは悩んだ。まるで彼が答えを出すのを待ちわびているのかの如く笑顔のまま一切語ろうとしない妖精。更にツェッドは悩む。
 笑顔のままカレッサはふわふわっと宙に浮く。オルゴールもふわふわと浮かぶ。そのオルゴールの螺子をカレッサが巻くと、何とも繊細かつ控えめなメロディが流れ始めた。オルゴールの周りをくるくると回って、カレッサは身振り手振りを繰り返す。全くよく判らない動きだった。

「い、一体どうしたんですか」
「むぐ、このジェスチャーではお伝えできませんでしたか……」

 少しばかり落胆したカレッサが、がばりと顔を上げ、改めて笑んで言った。

「お水の中でも楽しめるオルゴール、ですの!」

 さあどうぞ受け取ってください、と、ずいっと差し出された箱を、戸惑いながらツェッドは受け取る。
 とても繊細なオルゴールは見た目より丈夫そうで、しかし『水の中でも楽しめる』ようにはとても見えない。先に鳴っていた音は随分と頼りなかったし、これが本当に水中でも使えるのかどうか。
 そもそもどうして自分はオルゴールをプレゼントされたのか。
 疑問を口にするより先に、カレッサがご機嫌な様子で説明を始める。

「私たちリャナンシーもただ人様の才能を代償付きで伸ばしているだけじゃあありませんのよ。これは遠い昔の恋人から培った技術を応用して私なりに組み上げた一点ものです! メロディや装飾は勿論のこと、水中でいかにオルゴールの音色を心地よく響かせることができるか、ちょっくら湖に沈んだりして試しながら丁寧にていねいに術でコーティングしてみました。問題はこの音楽がツェッドさんのご趣味に沿っているかどうかなんですけれど、最悪音楽は込め直しができますわ。お好みのジャンルを教えていただければすぐさま修正をかけます。何はともあれ、試していただかなくてはわかりません! もうそろそろ水槽へお戻りになる時間でございましょう? ささ、どうぞお試しになって。そして明日、ご感想をお聞かせくださいな!」

 言い募られ、ツェッドははいと頷くしかなかった。
 カレッサがふわりと舞い、胎児のように丸くなって眠る体勢になる。朝一番にオルゴールの感想を聞くため、今夜は此処に泊まるのだという。言っても聞かないだろうし、たまには水槽越しとはいえ誰かと一緒に眠るのも良いんじゃないと思ったツェッドは、「おやすみなさい、カレッサさん」と声をかけ、「おやすみなさいですの」と嬉しそうに返す妖精の声を背に、水槽へと落ちた。
 水に触れた途端、オルゴールの表面に淡い術式の輝きが一瞬見えた。浸水防止のひと手間というやつなのだろう、おそるおそる螺子を巻き始める。ゆっくりとゼンマイが巻かれ、ゆっくりとメロディが流れ始める。外で鳴らした時よりも大きく、心地よく、丁度いい音量で聞こえてきた。オルゴールの音色は、聴いたことのない曲すらも何処か懐かしいものへと変えてしまう。ツェッドに聞き覚えの無いそれも同じく、ツェッドにとっては無いに等しい望郷の念を沸き起こさせるようなものだった。
 ――望郷。
 微睡ながら、ツェッドは思った。
 自分は何処を故郷として懐かしめばいいのだろう?
 戻る場所はある。すべきことも。幸いなことに、今、自分が必要なものは揃っている。ただ故郷が無いぐらいで……何故こんな思いを抱いてしまったのかと落ち込んだぐらいで……大した問題ではない、ないのだ。どうしてか、そう言い聞かせなくてはならないほど、彼の行き場を無くした『望郷』という感情は揺らぎを持っていた。

「……ツェッドさん?」

 硝子越しに、カレッサと目が合う。「起きていたんですか?」ツェッドの質問には答えず、カレッサは、硝子へぴたりと手を当て、顔を寄せてきた。

「どうしてそんなに寂しそうにしていらっしゃるの?」
「そう、見えるんですか」
「ええ、ええ。リャナンシーは人の心へ触れる。触れることは感じること。伝わるんですの。大好きな方々のことはとびっきり。どんなに暗くたって眩くたって、そこにあって触れることが叶うのならば、確実に」

 苦笑する妖精が、小首を傾げながらツェッドの顔を見つめる。

「貴方を想って作ったオルゴールでしたけれど、音色がよろしくなかったかしら?」
「……ありもしない故郷を想って、苦しくなりました。可笑しいですよね」

 ツェッドは一緒に笑ってほしくてそう零したのだが、カレッサは、悲しそうに柳眉を下げてしまう。伏せた瞳が潤んで揺れている。不意に彼女はぐんっと上昇すると、ツェッドの水槽の真上にやって来た。「カレッサさん?」ツェッドがそう尋ねるや否や、彼女は水槽の中へと飛び込んでしまう。飛び込んだ勢いのままツェッドへと手を伸ばし、カレッサは彼にひっしと抱き着いた。寂しがる子をその胸であやすように。優しい抱擁を彼に与えた。

「カレッサさん……!?」
「私も故郷を知りません」

 水の中でも彼女は濡れていなかった。しかしツェッドへと触れるその体からは確かな温もりが伝わってきた。
 ツェッドを抱きかかえたまま、カレッサは微笑む。

「忘れてしまったのかもしれない。もしかしたら本当に無いのかもしれない。かつて幽閉されていた地が私の種族に対して強く絡みつくものを持っているのは確かだけれど、故郷ではない。……だとしたら、私が時々“帰りたい”と思うこの気持ちは何なんだろうと、考えたことがありました」
「……考えて、どうしたんですか」
「諦めました。そして気付きました。私は“帰りたい”というより、誰かの“帰りたい”場所になる方が幸せなのだと思ったんです」

 だから、とツェッドの背中をさすりながら、

「もしよろしかったらですけれど、ツェッドさんの故郷がわりに、ツェッドさんの“帰りたい”と思う場所に、私を加えてくださいな。ライブラの皆様と一緒に」

 カレッサの唐突な申し出に、ツェッドは瞬きした。暫く答えに戸惑って、ええと、と、言葉を濁すような声ばかりが漏れる。落ち着かない様子のツェッドに、はっとしたようにカレッサは口を開いた。

「私、勢いで飛び込みましたけれど、しっかり術でベールを作りましたから、お水に触れていません! 汚すことはないですわ! オルゴールにかけているものと同じですっ! それとも、ああ、もしかしてきつく抱き過ぎましたかしら? 苦しかったですか? でもこんな寂しそうなお顔のままだと離すに離せませんし……ねえ、私、どうしたらいいでしょうか?」
「恥ずかしいぐらいカレッサさんが気を遣ってくださったのは身をもって知りました」

 細くともしっかり自分を包み込んでくれる妖精の温もりにツェッドは感謝した。

「有難うございます、カレッサさん」

 安心したようにカレッサも笑みを零す。すると、ふわふわ水槽を舞っていたオルゴールがちょうどツェッドとカレッサの間へと漂ってきた。ツェッドはオルゴールを掴まえると、再び螺子を巻いた。
 懐かしさに満ちた柔らかな旋律が水の中を満たす。

「……不思議ですね」
「なにがです?」
「さっきは寂しくなり通しでしたが、カレッサさんの話のお陰で今はひたすらに心地良いです」
「まあ、良かった!」

 ぎゅっと最後にもう一度ツェッドを抱き締めたカレッサは、たまらずその額へと口付ける。慌てふためくツェッドの赤い顔を見て、妖精は悪戯っぽくこう言った。

「良い夢を。ツェッドさん」

 一瞬で妖精は水槽の外へと飛び出していく。ツェッドは何故か彼女を引き留めかけて、しかし、引き留める理由が思い至らず中途半端に口を開いたのみ。
 気が付けばカレッサは、ツェッドが片手でオルゴールを、片手で自分の額を押さえているのを、硝子の向こうで笑いを堪えながら見守っていた。
 ――誰のせいでこんなことになったと思ってるんですか!
 ツェッドが硝子越しに訴えると、カレッサは途端に妖しく笑み、

「もしかして、足りなかったでしょうか?」

 その妖艶さで彼の鼓動に拍車をかけ、沈黙させてしまった。
 それでもこのまま此処にいては寝づらいだろうと妖精は気遣い、部屋を出て行った。
 水槽の中でオルゴールと共に浮かぶツェッドは、ようやく寝不足覚悟で瞳を閉じる。……鳴らしたばかりのオルゴールのお陰か、寝不足は杞憂に終わる。オルゴールの音色が止む頃には、妖精に散々翻弄されたとは思えないほど穏やかな睡眠へと落ちていた。
 ……だが僅かに、ツェッドは夢を見た。
 初めて“屋敷”の外に出た時、目の前を羽ばたいていった沢山の蝶。自然の緑。空。それから辛く長く険しい修行を経て、殆ど置き去りにされる形でライブラへと入ったこと。それらが映画のフィルムのようにワンシーンずつ流れていった。その短い夢の最後に微笑んでいたのは、仲間、友人、そして――……。
 ――望郷の念は決して無駄ではない。
 その故郷は心にあるのだと、ツェッドは、酷く安堵していた。
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