忘れたことを忘れないで
 活気衰えぬ街の喧騒と、飢えて「くぅ」と鳴く私のおなか。
 命あるものとして当然の実感たちが、私には与えられるべきではないような思いがした。その理由はとうの昔に忘れてしまったけれど、この思いは能天気な私からあらゆる活力を奪い命すら塞ぎそうになることがあった。この程度で明日を捨てられたら天国も地獄もたまったものではないだろうから、勿論私にはいつものように明日が来て今朝から仕事に励んだ。
 自ら命を投げ出すことすら私には許されないのだと、やはり理由は忘れてしまった結論だけがこびりついていて、その靄を抱えながら過ごすこともすっかり慣れていた。たとえ、理由が判ったところで、頑なに定めたそれらが覆ることはない。
 緩やかに渦巻く靄が晴れる気配もない。
 私はただ、惰性で生きている。
 目的もなく、持とうと思って持った訳ではないふんわりした特異性のみで、何とか細い糸のような日々を紡ぎ、繋ぎとめる作業を繰り返している。

 ――満面の笑みと喜びの裏で、カレッサは、ぼんやりとそう思って過ごしていた。


「私を庇うなんて、いけません」
「あ? 庇ってねーよ」
「結果として庇っていただいたことに変わりありませんの」

 ザップさんにとっては病院のベッドなんて慣れた場所ですから、とレオが励ましてくれたのだが、カレッサはとてもそう思い直して元気になれそうもなかった。
 彼の額の傷をぐるぐる覆っている包帯。同じように左腕もギプスでぐるぐるとしっかり固定されていて、それらが視界に映るたびに彼女の口からは「ごめんなさい」が飛び出す。
 その落ち込みように、ザップは嘆息した。

「ったく辛気臭ぇーな。このぐらいでそんなヘコヘコやられてちゃ幸先不安過ぎて先輩困っちゃうぞって言ってんだろ」
「だって……」
「それにちょっと怪我をしておくと女が優しくなる」
「そんな……先日も入院していた時に何故か更に重症化したザップさんが言っても説得力皆無ですの……」
「しなしなの割に痛いとこ的確についてきやがったな」

 ――どうして、そんな風にザップさんは楽しそうに笑えるんでしょう。
 ますますカレッサは落ち込んでしまった。

「私には守らねばならぬような価値がありません」

 それは思わず零れた本音だった。彼女が普段は押し殺している弱いところ。
 すると、ザップの顔から途端に笑みが消えた。
 椅子に座って、膝の上でぎゅうっと手を握りしめるしかないカレッサ。
 彼女が顔を上げるきっかけになったのは、ザップが起き上がる音と気配を感じてからだった。

「駄目ですの、ザップさん! 安静にしていなくちゃ――……」
「カレッサ」

 ザップをベッドへ戻そうとカレッサが伸ばした手は空を切る羽目になった。
 無事な右腕をぐいっと伸ばしたザップは、その手でカレッサの体をいともあっさり捕獲したのである。

「ひ弱な新人ならぬ新フェアリーさんよぉ、俺様の行動を無意味だってのか? 否定すんのか? お前が俺の行動に指図できると思ってらっしゃるのか」
「そ、そんなつもりは……」

 ザップと密着したまま、カレッサはもごもごと呻く。とても負傷しているとは思えないほど彼の力は強く、非力な彼女にとっては到底抵抗できるものではなかった。
 ――ここまで私は非力ですの?
 カレッサが自分の情けなさに半泣きになったのも束の間、ザップが続ける。

「ないっつってもなぁ、実際そういう意味になるだろ発言諸々が。俺のタフネス舐めてんのか。紙装甲のオマエにとやかく言われる筋合いねえんだわ。ちょっと豪勢な羽虫的な存在に武芸期待してる奴ァいねー。適材適所でその道理に従ったまでよ」
「豪勢な羽虫……」
「気に障ったか」
「私には羽がないですの」
「……比喩だよ比喩。こう、お前のヘナチョコさについての。そのぐらいやばいだろ。電動ハブラシの振動に負けて全身小刻みに震えてた奴に肉弾戦が出来ると誰が思うってんだ?」
「確かに、そうですけど」
「んでもってだ」

 普段より強情で卑屈な彼女に、ザップの言葉はますます真剣味を帯びていく。カレッサを捉える腕は尚も力強く、その感覚に妖精はいよいよ恥じらいつつあった。

「肉弾戦はからっきしな分、お前は眷属にも対抗できるっちゃできる術使いだろ。そういった方面だとお前は激強い。だから今後俺様が楽をするためにもお前にちょっとした流れ弾で昇天されちゃ敵わねぇってこった」
「ザップさん……」

 ようやっとカレッサが少し笑った。それを見て、ザップもニヤリと口元を歪める。今さっきまでの真剣さとは別物でありながら、その感情の入りようは殊更強めの声音で、カレッサの耳のそばで囁く。

「もしそれでも昇天したけりゃ俺が幾らでもベッドん中でイカせてやる」

 途端に火が付いたように真っ赤になったカレッサは、肩をびくっと跳ねさせた。耳元をくすぐった低音も台詞も何もかもが彼女に響いた。

「んなっ!? な、なんてことを……!!」
「恋愛妖精の癖に初心なのなオマエ」
「恋が多いイコール慣れてるってわけじゃないですのー!!」
「病院で騒ぐなよ」
「そうさせてるのはザップさんですレンフロさんですっ!」

 カレッサが必死に全身で恥ずかしさを主張しても、それら全てがザップの片腕に押さえ込まれている。「にしても非力だな……」じたばたされても、その手やら髪やらが当たってもただただくすぐったいだけで、押さえ込んでいる当人ザップは笑いのツボを過ぎて心配し始めていた。

「お前……耐えられんのか……?」
「な、なににです?」
「いやこんなに貧弱だとヤるにももたねぇんじゃねえかと」
「何で致す前提に!?」
「怪我してるところに“私の為に死なないで”とかやられちゃそりゃもうイケるってこったろ〜」
「ち、近いっ、近っ!! ひぇええぃ……!!」

 ザップの先の注意を真に受けたカレッサの声量はかなり抑えられていたが、そのせいで変な高音ポイスと化している。
 このままいっそちょっくら、なんてザップが思ったのは束の間であった。
 ――こちんっ。
 包帯を巻かれた彼の額に何かがぶつかる。そして、辛うじて塞がっていた傷からだらぁっと血が流れ始める。血が目に入り、傷の痛みがぶり返し、

「あいっててててててて!?」

 ザップは反射的にカレッサを離し、両手で頭を押さえた。
 何が起きたか判らずふわりと離れたカレッサは、ザップの出血を見て急速に青ざめる。
 ――ま、まさか私が暴れたから!?
 慌てて再びザップに駆け寄ろうとした彼女の体は、くいっと後方へ引っ張られた。
「はれっ!?」何事かと振り返った彼女の目には、黒曜の美しさをその身に宿した美女が映る。チェインだ。カレッサを引き止めるようにチェインは妖精の服の首根っこを掴んでいた。隣には先刻カレッサを励ましてくれたレオの姿もある。

「チェインさんっ? レオくんも……!」
「全くもう、カレッサ。あんたはもっと警戒心を持ちなさい」
「ひぃ……すみません」

 開口一番チェインの口から飛び出したのはお叱りであり、カレッサは年甲斐もなく項垂れた。ついでに浮きっぱなしだったため、着地した。
 レオも「本当にもう……」と困ったようにカレッサを見つめている。

「カレッサさん、意思表示ハッキリしてもザップさんはアレですから、何とか頑張ってください。危ないですから、色々と」
「正直パニックで頭がアレってましてごめんなさい……。筋トレ頑張ります……」
「筋トレじゃなくても良いですけど、とりあえず射程外から会話したらいいと思います」

 そこで、ようやっと痛みが引いたザップが吠える勢いで顔を上げ、口を開く。

「俺ァ何かのモンスターかぁ!?」
「あっそうですわナースコール!!」
「このぐらいでコールしてちゃボタン幾つあっても足りねぇ! あーちくしょーもう少しで絶対イケたわー今のはー!!」

 疲れただとか傷が痛むだとかいうより、しくじって拗ねたといった意味合いの台詞と共にベッドへ逆戻りするザップ。その姿を見ておろおろするカレッサに「あのぐらいで慌ててちゃもたないから」とチェインが励ます。励まし方がザップのそれに少し被っていて、カレッサは幾分落ち着くことができた。
 ――それでも。
 カレッサは庇われた事実を、どこかでまだ引きずっていた。
 長生き過ぎて、自分が根暗になるタイミングや理由を忘れてしまった。庇われたことに礼を述べるより、「そんなことはしないでほしい」と乞うことを優先してしまった原因を。飛び飛びになっている記憶が、仲間の負傷で少しばかりの繋がりを蘇らせたのかもしれない。

「キキッ」
「……あら」

 リンゴを抱えたソニックがやってきたのを見て、妖精は薄暗い思案から浮上する。
 のんびりとカレッサの肩に落ち着いたソニックは、リンゴをカレッサへ差し出す。

「まあ、元気づけてくれてますの? ありがとう」

 優しい小猿の気遣いを、有難く受け取ったカレッサははたと目を丸めた。
 リンゴに若干、血がついている。……ザップの額を先程小突いたのは、どうやらコレらしい。
 カレッサが固まっていると、そっとレオが近寄ってきた。ささやかに汚れたリンゴを抱えていた袋へ入れ、代わりに綺麗なリンゴを彼女の手へと収める。

「カレッサさん、ザップさんに付きっきりで何も食べてないでしょ? 果物だったら食べられるかなって持ってきました」
「あ、ありがとう……ですの」
「オイ普通はそういうの入院してる俺へのお見舞いじゃねーのか」
「まあ、ザップさんの分もありますけど」
「ついでみたいに言うな」

 レオたちの言い合いを、カレッサは微笑みながら見つめていた。
 ――楽しくない考え事は、止めましょう。皆さんといるときぐらいは。
 幸か不幸か、自分の中にある暗い過去の内容を忘れてしまっているお陰でそう切り替えることができた。暗い過去があったことを忘れたわけではないが、肝心要の中身が年月を経て遠くとおくへ追いやられている不思議な感覚と共に、カレッサはリンゴに噛り付いた。

「っ、いだ!」
「カレッサ?」
「口の中まで……かんじゃいまひは……」
「……どうやったらそこまでドジを突き詰められるの?」

 チェインの何とも言えない眼差しに、「私が一番知りたいです」と心の中で返すカレッサ。
 しばらく頬をさすり半泣きになる彼女を、チェインは見守り続け、レオとザップはしばらく恒例の口喧嘩をしていたのだった。
 淀みを抱えながら微笑むことが偽りの喜びなのではないかと恐れていた妖精。それでも誰かへ寄り添い共に歩むことを欲していた妖精。
 相反する幾つもの自分の存在を、ちょっと風変わりな結社の仲間たちはあたたかな眼差しで受け入れてくれている。
 その実感を、カレッサはリンゴの味と共に噛み締めた。自分の血の味はすぐに消えていく。いつの間にか笑顔になっていたカレッサに、チェインは何かを察したように目を細め、しかし敢えて言及することなく問いかける。

「リンゴ、美味しい?」
「はい、とっても」
「それは良かった」
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