「カレッサさん」と、テントに呼びかける。
「どうかなさいましたの?」彼女は小首を傾げながら出てくる。
「お昼でも一緒にどうですか」素直に用件を告げた。
「嬉しいです、ぜひご一緒したいですの!」諸手をあげて彼女が笑う。
そこから、僕が越えられない一線が始まるのだ。
「今日は何にしましょうか」とりあえず希望を訊いてみる。
「さくっとささっと軽くいけるものが良いです、生もの以外で」けれど大抵、カレッサさんの希望は抽象的で参考にならない。
「そうですね、じゃあ……」だから僕は、毎回密かに悩む羽目になる。
生もの以外、というのはいつも通りのカレッサさんの希望。常に変わらない、口癖のような主張。
この街に来て、肉も魚も調理されていれば食べられるようになったばかりというカレッサさんの興味や好奇心にはなかなか歯止めが利かない。同じものを食べても毎回感想が変わったり、逆に違うものを食べても同じことを言ったり、何だかちぐはぐで危なっかしくて、どうにも目が離せないひとだ。
僕が言えた義理では無いけれど、この街には確かに誘惑も不安も興奮も様々に満ち満ちている。今まで“引きこもり”だった彼女にHLはあまりに刺激が強すぎるのではないだろうか。
「……で、どうですか」色々考えつつも店の名前をひとつ挙げて、彼女の返答を待つ。
「はい! 決定ですの!」いつも通りの即答だ。
「じゃあ行きましょう。離れずついて来てくださいね」いい加減言い聞かせなくても判っているだろうけれど、念には念を入れて。
「判りました!」カレッサさんの笑みは崩れない。
まるでステップを踏んでいるような覚束ない足取りが僕の不安を煽るけれど、彼女は一向に構わない様子だ。いざという時は浮けばいい、ぐらいに思っているんだろう。彼女のことだから。
こういう時、どうしようもなく落ち込む。
――この細い手を掴むという、ただそれだけが出来ない自分の情けなさに。
ちらりと横目でカレッサさんの姿を確認してから、何とも言えない靄を胸の奥に抱えながら、歩く。歩く。
……昼食は滞りなく済み、カレッサさんは大層満足げな笑みを浮かべていた。
「今日も御飯が美味しかったですの」るんるんと鼻歌まじりで呟く彼女。
「いつも思うんですが、カレッサさんて少食ですね」話を広げられないかと、少し話題を振ってみる。
「そうでしょうか? 私の重さ的には多いくらいですの」そう言えばそうかもしれない。
カレッサさんの体重はとても軽い。重さがあるのか怪しいぐらいだ。チェインさんにあっさり抱き留められたり、レオ君に数時間背負われていたり。二人に辛くはないのかを勿論僕は確かめたが「全然」という共通の返答が来ただけ。浮遊していても風に煽られたりしないのは、彼女が術士だから……? 女性に体重を訊ねるのは失礼だし、そこまで気にしなくてはならない問題でも無いが。
「私のお腹たちが、今まであまり使われていなかったから少しのご飯でいっぱいになるのかも」ああ、なるほど。
「だったら無理に食べて体調を崩したりしないよう、気を付けないと」安易にその光景が予想出来て、つい注意してしまう。口うるさい奴だ、だとか思われていなければいいけれど。
「ええ、有難うございます。少しずつ慣れさせますの」……やっぱり余計だったろうか。
可憐な彼女の声はこの街の喧騒に掻き消されてしまいそうなものなのに、どうしてかしっかりと耳に届く。反対に僕の声の方が聞こえにくいのではないかと心配なほどだ。でもしっかりカレッサさんは答えてくれているし、何度も隣の僕をこっそり見上げては嬉しそうに微笑む。前を向いていないと危ないですよ、と早く注意してあげないと。そう思いながらも、まるで見ていることを知られるのを避けるようないじらしい姿に、僕の声は喉奥へと引っ込んでしまう。
――手でも引いて歩けたら良いんでしょうが。
レオ君が当然のようにカレッサさんの手を掴んで歩いている姿をいつも目にしている。その行為はとてもありきたりで、一般的で、別段特筆すべき現象などでもなくて。しかし、僕にはそのレオ君の“当然”に踏み込む心構えが未だにない。
僕を見て「綺麗」だと言ってくれたこのひと。とても自分ではそう思えない。けれど彼女の目は屈託ない輝きを僕に向けていた。初対面だというのに、飛びついてきて。
改めて自分の手を見つめた。人界異界どちらにも属さないカタチ。握って、開いて、またぎりっと握る。
きっとカレッサさんは拒まないだろう。彼女にとっては日常的な行為だ。手を繋ぐ、だなんて。
でも僕は違う。
どうしてここまでそれに固執して、悩んで、困惑して、落ち込んでしまうのか。
複雑なこの感情を僕は、
「ツェッドさん」
――あたたかい。
……あたたかい?
「カレッサさん……?」
いつの間にか僕の歩みは止まっていた。
カレッサさんは僕の隣から、真正面へと移動していた。
僕がきつく握り締めた手を、カレッサさんの両手が、緩く包んでくれていた。
温もりの正体は、カレッサさんだった。
「そんなにギューッと握っていたら、痛くなってしまいますの」
優しく撫でるようにして、カレッサさんは僕に手を開くように促してくる。くすぐったくて、すぐにその通りにした。
僕が広げた右手を、改めてカレッサさんが両手で握ってくる。
「わぁ。気持ちいい。手を触らせて頂いたのは初めてですの」
「そう、ですね」
「……ご迷惑でした?」
「いいえ。大丈夫です。……カレッサさんが平気なら」
ちぐはくな僕の返答に、カレッサさんはしばし小首を傾げていた。けれど、勝手に「はい!」と何か納得したというか決断したように頷いて、僕の隣へと戻ると、手を掴んだまま歩き出す。僕も思い出して慌てて歩く。
じわじわとずっと伝わってくる手のひらの温度で、蒸発してしまいそうな思いがした。
一回りは小さな白い両手に、僕の右手はずっと掴まれている。
――繋いでしまった。
此方がうだうだと悩んでいるうちに、恐らく特に考えなど無い彼女の方から実行してくれた。
情けなさより、嬉しさというか安堵が勝る。
――僕でも繋げる。
こうして触れてしまうと、どうして今までこんな小さなことで悩んでいたのかと馬鹿馬鹿しくなる。第一、他種族愛を公言し実行しているカレッサさんが断るはずないじゃないか。初対面の相手に飛びついてくるひとだ。いや妖精だ。寧ろ構われたがりなぐらいなんだから「危ないから手繋ぎますか」とレオ君のようにさらっと言ってすっと掴んでしまえば良かっただけじゃないか。
僕は何て無駄な思考に労力を割いていたんだろうか。感情にあれやこれやと理由や言い訳をつけて、一人で勝手に袋小路に入ってしまっていた。この気持ちの答えなんて、簡単じゃないか。
「カレッサさんは綺麗です」
それだけ。今、言えるのは、それだけだ。
真っ赤になってじたばたして、でも僕の手は握ったままという不思議な彼女のリアクションを眺めながら、僕は笑った。新鮮な気分だ。どちらかと言うと、僕はいつも彼女に振り回されることの方が多いからだと思う。
「も、もー! ツェッドさんったらいきなり何を言いますの! リャナンシーなんて大抵他人をたぶらかすような外見で生まれるよう決まってるんですから、あ、ある程度見てくれはそれはマシになります! それに郷にはもっともっと綺麗で要領のいい子たちがですね……」
「そういう意味で言ったんじゃありません。リャナンシーという種族の話じゃなく、カレッサさん個人についてです」
「くあああっ……!! 帰ったらはぐはぐっとされるご覚悟はよろしいでしょうね、ツェッドさん……!?」
「どんと来いって感じですね」
「何でいきなり強気になってますのー!!」
喜んでいるのか困っているのかよくわからないカレッサさんのよくわからないテンションについて行くのは少し骨が折れるけれど、小さな第一線をようやく踏み越えられたこと(僕自身がというより彼女から踏み込まれたのだけれど)を思えば、どうということは無かった。
そっと彼女の手を握り返す。
ふわふわ浮遊している姿ばかり見ているせいか、こうやって実体があることを確認できると、酷く安堵した。