茜色の空を見て、綺麗だなあと思った。きっと届かないからこそ、離れているからこそ、あれは美しい。私の手の届く範囲には、周りには、自分の存在を含めて綺麗なものなんて転がっていなくて、沢山なくしたものの名残が胸の中にあるだけでなにもなくて、寂しい思いだった。ひとりというのはとても寒くて寂しくて、痛くてたまらない。ふらふらとかつて自分の家があった場所を見に行っては、もうそこに私の帰る場所という機能は無いと思い知らされて傷ついた。
 そんな折に、私は、とある少年喰種と巡り会った。
 少年は容赦なくて、ひたすら強かった。彼に“死ぬかもしれない”と思うだけ痛めつけられて傷めつけられて、ぐるぐる忙しなく視界が転がっていて、そのうち私は反撃するというのも諦めて、

「あのクソ“白鳩”を殺しときゃ良かった」

 気付いたらそんなことを呟いていた。今から死ぬというのに、これは随分と遅れてやっと来た後悔だった。
 でも不思議と途端に、私を襲っていた少年の動きがピタリと止まった。

「お前もそっち側かよ」
「何がそっちで、どっちか、痛くて、けんとう、つかない、よ」
「うるせぇ年増」

 どうしてか、少年――アヤトは暴言を吐きつつも私を、根城だという場所まで連れて行ってくれた。
 アオギリの樹だとか喰種集団だとかなんとかどうでも良いけれど、そこは私の新たな寝床で帰る場所となった。
 アヤトの名前を知ったのは、タタラという喰種に、此処へ居座ることを許されたあと。私もナマエだとようやく自己紹介をした。もげかけていたものも傷も、エトという少女が渡してくれた食事のお陰ですっかり良くなり、私は、立派にアヤトの部下となった。あの時、出会い頭に思い切り襲われたのは、私から“生きたい”という欲求を引きずり出してくれるためだったんじゃあないだろうか。
 数年後、ヒナミちゃんという可愛らしい後輩もゲットした私は、組織内の殺伐さとは全く異なる穏やかな心境で日々を過ごしている。
 心を削がんばかりに研ぎ澄ますアヤトとヒナミの為にも、私はいつでもそのままの、二人にとって不変のお姉さんでいなくてはならなかった。義務であり責務である。息苦しさや面倒くささは微塵も無い。二人を想い、過ごすことが私の一番の幸せであった。
 ――ヒナミが“白鳩”に捕まったと聞いたときは、目の前が真っ暗になりました。
 タタラは、組織の面々を、組織と言う機械の部品としか見なしておらず、なくした部品は補充すればいいという、とても非情でシンプルな思考の持ち主だった。タタラの部下の部下である私は彼をじっと睨むことしかできなくて、けれど勿論タタラが私のような三下を相手にするはずもない。尚も食い下がろうとするアヤトを部屋まで引っ張っていくのが私の精一杯だった。その道中でぼろぼろと涙が零れてしまって、いつの間にかアヤトの方が冷静になっている始末。
 無様な私をケタケタとオウルが笑っていたのが妙に悔しかった。あんなイレギュラー、私は認めたくない。何年頑張ってもちょっとも強くなれない私の存在を、真っ向から否定するようなあのいきもの……。

「――私ももっと戦う力があれば、ついていけたかね」

 部屋でコーヒーを二人分入れて、私は愚痴た。
 アヤトは苦虫を噛み潰しじっくり味わっているより酷い顔でコーヒーを啜る。

「お前は完全に裏方向きだ。あの時いたとしても足手まとい以下だろ」
「盾ぐらいにはなれたろうさ。ヒナミの盾に」
「死ぬ気満々な響き出してんじゃねえよ、あいつを泣かす気か。それに今更後悔してもヒナミは救えねぇ」
「ごもっともなんだけど、正論ばかりじゃ尚更救えない気分だよ」

 何かしら吐き出さないと、おかしくなってしまいそうだ。この組織がいかに危ういか、目を逸らし続けた結果がこれじゃあ。私は何のために生き延びたのだろう? せっかくアヤトが背中を押してくれてここまで来て、ヒナミという妹のように愛おしい存在にも恵まれたのに、何もかもが荒んだ心のせいで歪んでいってしまいそうで、息が詰まる。

「ヒナミは“捕まった”んだよね、だったらまだ希望はあるよね。アヤトが訴えてた通りにさ」
「ああ。ヒナミは必ず救う」
「その時はいくら足手まといと言われてもついていくからね」
「面倒増やす気かよ」
「ヒナミちゃんが大事だからに決まってるでしょう。老婆心だよ、老婆心」
「まだ老婆って歳じゃねえだろ」
「出会い頭に人の事を“年増”と言ったのはどこの誰でしたっけねえ」

 アヤトがすっかりむくれた顔で私を睨む。話しているうちにお互い、ちょっとばかり、心のゆとりが出来てきたようだ。
 ふたつのカップが空なのを確かめてから片付けた。先程より落ち着いて、手の震えも抜けたのを実感する。
 ――ヒナミを助けることは難しいかもしれないけれど、タタラの言うように本当に無理なのだろうか?
 アヤトがあれだけ訴えたのは、ヒナミの存在が大切なのは勿論、その気になれば収容所を破ることも可能だという意味なんじゃあないだろうか。あの場では叱られた子供みたいにじっとしているだけだったけど、今更になって私は気になった。

「ねえ、アヤ……」

 振り返り、呼びかける途中で、慌てて口を噤む。
 椅子に凭れたまま、アヤトは目を閉じていた。眠っている……んだと、思う。
 そろりと足音を忍ばせて彼へと近づく。
 私をコテンパンにのした時よりぐっと大人びた顔になった。よく暴言を吐いていたのが嘘みたいに静かになったし、身長も伸びて、間違ってももう少年呼ばわりは出来ない。
 捕まっているヒナミもそうだ。最初はよく泣いて狼狽えて、それが“ヨツメ”とアオギリの構成員から頼られるほどの力を持つまでになった。
 いつまでも変わらないのは私だけ。……歳ばかり無駄にとってしまった。
 私はきっと彼らが羨ましいのだ。憧れているのだ。しかし彼らには、変わらずに自分を迎えてくれる拠り所が必要だ。変わる力の無い私は、せめてその場所になろうとアヤトたちに誓った。
 閉じられた瞼の奥で、今彼はどんな思いを巡らせているのだろう。せめて夢の中でくらい、安らぎを感じられていればいいのだけれど。
 ぼさぼさになっているアヤトの髪を少しばかり撫でつけてあげて、私は小さな声で告げる。

「おやすみ、アヤト」

 親が我が子にするように、私は彼の瞼にそっと口づけた。唇でも頬でも額でもなく、どうしてそこに触れたがったのか、自分でもよく判らない。彼に抱く未熟な想いのせいか、それともたった今過ったとあるアイディアのせいか。
 彼は起きない。それで良い。
 きっと私が思いついたことを見聞きされようものなら、きつく叱られる。
 脳裏にちらつくオウル、それを作り出した人間の医者。
 いささか体が凍えた気がした。気がしただけ、そう。気のせいだ。
 ――アヤトは強い。力も、想いも、何もかも。何年も間近で見つめてきた相手だ、とっくの昔に知っている。
 だからこそ私は、いつまでも変わろうとしない自分に内心苛立っていた。この定位置に甘んじる己を、安全地帯から微動だにしない己を、日々内側で傷つけていた。戒めを刻むために。
 何が拠り所だ、何がお姉さんだ。結局つまり何もしていないだけじゃないか。他の構成員と何ら変わらない、事務的な作業をこなすだけで、ただアヤトの傍にいるからと、何処かで自分を特別視して甘やかしているんじゃないか。
 ……だから私は、アヤトを強く想う。憧憬にも似た念が、彼を見つめるたびに燻るのだ。
 きっとアヤトは、今のままでいいと私を窘める。けれど、私はもう、此度の事件をきっかけに、そう思えなくなってしまった。
 強くなりたい。
 アヤトのように。
 私から“生きる”という力を引きずり出してくれたあなたのように。
 溢れる生の力強さに、それを全身全霊で示す姿に、私は憧れている。

「変わって、いかないとな」

 とりあえず、近くにあったブランケットをアヤトにかけておいた。寒さをしのぐには心もとないが、何もかけないよりはきっと良い。
 ずっと彼の寝顔を見ていても良かったけれど、決心が揺らぎそうで、すぐに視線を逸らした。
 足音を努めて消したまま、部屋を出ようとドアに向かう。このドアを音もなく開けるのは難儀だけれど、細心の注意を払えば出来なくはない……。
 そっとドアノブに手を掛けた時、私の背後から影が覆いかぶさって来た。影は私の手を掴み、ドアノブからゆっくり引き剥がす。私は、いま、この部屋にアヤトと二人きりなのだ。影と手の主は、確かめるまでもなく彼のもの。

「……何処に行くつもりなんだ、ナマエ」

 かなり低い、唸っているかのような声。答えを聞く前から既に不機嫌さを露にしているアヤトを振り返る勇気など、私には無かった。

「ちょっと、用事」
「ろくでもねぇこと考えてんのはわかるんだよ。俺がお前を年増呼ばわりした頃、そういう空っぽな目をしてた」

 彼の腕が私の肩にだらりと掛けられて、少し急いた吐息と鼓動が伝わってくる。
「怖い夢でも見ちゃったの?」なんてふざけて返してみたけれど、アヤトは無視した。

「今は此処にいろ。どうしても行くなら、俺もついていく」
「トイレとかかもしれないのに?」
「それでもついてってやる」
「トイレとお風呂ぐらいはひとりでいさせてよー」

 その気になればこの腕を振り解くことなんて容易いのに。初対面で胸倉掴んで殴りかかってくるような奴の腕なのに。どうして私は初めて会った時からアヤトというひとを、憎んだりしなかったんだろう。あれだけズタボロにされたのに、コロッといっちゃった。『ナマエは、マゾヒストだね』クスクス笑いながらエトが私を見ていたことがある。ぐちゃぐちゃ音を立てて肉をむさぼっていた私が意味を理解したのはすっかりお腹が落ち着いた頃だった。マゾヒスト、うん、痛いイコール私が生きる意味を見つけた瞬間だから、間にアヤトがいなくては成り立たないけれど、まあ、間違ってはいない。『純愛だね、儚いね』エトの声ってどうしてこんなにも頭の中でぐるぐるするんだろう。どうしてこんなときに……いや、こんな時だからこそ思い出してしまうんだろうか。
 両肩の重みと温度がどうしようもなく名残惜しくて、このままただ抜け出すなんて勿体なくて。

「大丈夫だよ、アヤト」

 彼の腕を退かして踵を返す。
 ようやくその顔を認めた。ものすごく不機嫌、というよりは、泣き出す一歩手前、という雰囲気。
 ああ、あなたは強いものね。優しいものね。寂しがりだものね。
 両手で頬を包んであげた。じんわりと温度が通い合って、視線が交差して、砂糖菓子の甘さってきっとこんな感じなんだろうなあと想像した。
 一生懸命背伸びして、「目、閉じて」もう一回、今度は起きているアヤトの瞼へ唇をくっつける。さっきとは反対側。なんとなくそうしたい気分だった。すんなり私の言う通りにしたアヤトも、私の行動を予感していたのか、然程驚いた様子は無い。

「言えば屈んだ」
「屈まなくていいようにこっちが伸びたの」

 ついでに頭をひと撫でさせてもらって、アヤトから離れた。
 彼との思い出が浮かんでは消え、募る懐かしさがこの足を鈍らせないうちに行こうと決める。
 改めてそのドアノブに手を掛けて、

「じゃあ、またあとで!」

 そうして私は、憧れて止まなかった彼に近づこうとしていたはずが、真逆の光へ向かって行った。



 ――今、アヤトはどうしているんだろう?
 力欲しさにあの医者の研究に自分の身を差し出した私は、案の定、体中をいじくりまわされた挙句に、自我を半分ほど落としてしまった。好きなコーヒーのブレント、可愛い妹のような子。どれもが朧げになっていた。
 そのなかに残る最後の光。“アヤト”。たったの三文字。その文字が、あなたの名前が、思い出すたび淡い憧憬を滲ませて、この頭を割って楽になりたくなる。
 とても彼に見せられる姿では無くて、私はあの根城を捨てた。人にも“喰種”にも追われる身になって、どうしようもない後悔の溜息をついた。全部自分が選んだことなのに。それが全くもって見当違いだっただけなのに。
 また何時だったかのようにこの頭蓋を割らんばかりに彼が揺さぶって、本当の場所に引きずり戻してくれやしないかと他力本願な思いを馳せる。ぐに、ぐに、とまるでヒトの仕組みを無視して腕が蠢いているのは、私が憧れていた強さの代償。力任せの、本当にそれしかない強さが宿った印。
 今更叶わないと知ってから私は、強さではなくアヤトの“強くあろうとする強さ”に憧れていたのだなあと思い知った。
 すん、と鼻をひくつかせて、私は空気を嗅ぐ。昼夜関係なく、周囲への警戒を怠らないための癖になっていた。いつだって、何をしていても私はそうしていなくては落ち着かない。
 ……なんだか、懐かしいニオイがする。
 するはずのないニオイなんだけれど、と首を傾げていると、今度はニオイだけで済まなかった。

「おい、年増。こんなトコにいたのかよ」

 あれ、また、今日は調子がいいな。ハッキリと聞こえる。あの声が聞こえる。
 今しがた食事を終えて、お腹を休めようと本を開いていたところだったから――数年も経つと警戒しつつ読書という矛盾した行動にも慣れた――、慌てて顔を上げて目を凝らす。
 辺りを必死に探してみる。まさかそんなはずはないと思いながら。

「バァーカ。こっちだよ、こっち」

 目の前にアヤトが降りて来た。真後ろにいたらしい。あ、う、と言葉を知らない赤子みたいに拙い音しか出てこない口が憎らしい。逃げようにも足は根が生えたかのように動きやしない。
 アヤトは私のフードをはいで、苦笑いを浮かべた。

「随分フケちまったなぁ。お姉ちゃん、だろ?」
「……アヤ、ト」
「後から文句つけられねぇようにわざわざ来たってのに、ひでえ顔だ」

 あの頃から更に頼もしさを増した姿に、私は声をあげようにも、できず。
 手から滑り落ちていくエトの新作である本が、ばたりと地面にぶつかって閉じられた。折角くすねてきたのに、ああ、汚してしまっただろうか。

「お前の“またあとで”はアテにならねえって、この数年で判ったよ」

 私が落とした本を拾い上げて、汚れをはたいて、アヤトは、私にそれを返してくれた。

「ヒナミを救う。……足手まといでも行くんだろ? ナマエ」

 久方ぶりに自分の名前を誰かが、あろうことかアヤトが呼んでくれたことが嬉しくて、私は大いに泣いた。
 こんな私のことを認識してくれている。
 こんな私のことを覚えてくれている。
 背中を丸めて汚らしい嗚咽を溢す私の体を擦りながら、アヤトはずっと傍にいてくれた。
 何度か瞼に涙とは別の優しい温もりが触れた気がするけれど、その正体を追えるほど、今の私と言うのは賢くなかった。
 それでいいのだと、思う。
 憧れていた光は更に輝きを増して、暗がりに転げ落ちた私を救い出してくれた。
 愛らしい“いもうと”の名前も、「そう、ヒナミを助けるんだ、わたし」一瞬で思い出させてくれた。
 次はその憧憬の光に、私もなりたい。

「……うん、一緒に行かせて。アヤト」

 今度こそ、正しい方法で。


お題:接吻 瞼(憧憬)
::企画「造花」さまに提出


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