「郡、似合ってますよ。とっても」
「褒められても嬉しくないなぁ。こんなの……」

 無理やりナマエのドレッサーに座らされている自分に嘆息した。鏡に映る自分の姿――正しくは頭に装着された獣耳のカチューシャと、それを見て微笑むナマエを見て更に肩を落とす。がっくり落ちた私の両肩に手を添えて、ナマエは朗らかに微笑み続けている。

「真っ黒の耳、お似合いですよ。ほら、私は白い耳です。どうですか?」
「可愛いんじゃないですか、猫っぽいナマエらしい」
「郡も、まるでシェパードみたいにイケてますよ」
「私は犬か……」
「とてもカッコいいじゃないですか、シェパード。スーツを着て戦う郡の凛とした姿も、そんな感じです」
「褒めているつもりなんだろうけれど、肝心の喩えが犬だと反応に困るんですってば」

 近くのドンキで安売りしていた、と無駄な買い物をしてきたナマエは、いくら私に窘められても笑みを絶やさない。他にも魔法のステッキ、かぼちゃ味クッキーといったいわゆるハロウィン風なアイテムが揃っていた。ハロウィン関係ということ以外全く統一性のない買い物を見て、またもや溜息が出る。

「溜息をつくと幸せが逃げますよ、郡」
「私の逃がした幸せは、じゃあ、君が吸えばいい。そうすれば私も幸せになる」
「さらりと恥ずかしいことを言いますね。そういうところがまた異性としてきゅんとしてしまいます」
「きゅんとしているようには見えませんけどね……ナマエ」

 ずっと笑顔のまま変わらない恋人を鏡越しに見つめて呟く。
 ――有馬さんの無表情とはまた別の意味の無表情だ、この子は。
 この穏やかな笑顔と言動が常であり、それが乱れることは一切ない。彼女の動揺は、恋人同士へと発展した瞬間ですら見られなかった。穏やかな笑顔で、「異性としてお慕いしています」とナマエが口にして、逆に此方が面食らったほどで。此方が赤くなって、それを見てずっとナマエはやはり笑っていて。
 笑顔以外の表情が、無い。
 それが悔しいというか、興味がわいたというべきか、彼女の想いを受け入れていつか笑顔以外の表情を引き出せたらなんて、思ううちに時はどんどん過ぎて行った。もうすぐ一年経つ。時の流れの早さが痛いほど身にしみる。
 カチューシャの黒い耳を指先で弄りながら、悩む。
 ――そういえばキスすらしてないな、私たち。
 手を繋いでみたり、そっと寄り添ってみたり。そのぐらいだった。お互い捜査官として忙しい、というのもあったが、どうにもナマエへの触れ方を決めあぐねていた。越えるべきか否か、その境界をじっと見つめるだけで今まで来てしまった。いい加減見つめすぎて穴でも空きそうな一線へ、未だに無言で視線を落とし続ける自分。それでも構わない、あるいはそれ以上を望まないような、笑顔の無表情のナマエ。
 折角のオフの日、恋人の家に来てこんなにも憂鬱になるなんて思いもしなかった。

「郡? お腹でも痛いんですか?」
「お腹が痛いって顔してましたか? 私」
「いえ、お腹が痛いときの郡の表情は知らないから、憶測です」
「……そう」

 これって恋人と呼べるんだろうか。
 机の上にクインケの試作案や設計図を散らかしたままで、自宅専用のクインケ――よりにもよって何処かの誰かさんみたいに網状に展開して対象を捕縛するタイプだった――をいくつも置いている、笑顔の仮面をつけたこの女の告白は、質の悪い冗談か何かだったんじゃないんだろうか。

「どこも調子が悪いわけではないなら良いんです。安心しました」
「もし私の調子がおかしいと思うなら、原因は間違いなく貴方ですよ。なんで私は耳なんてつけられてるんですか。調子が狂うなんてもんじゃない」
「ハロウィンが近いですから、仮装の一環ですよ。お揃いで。たまには血なまぐさいお仕事を忘れておバカな格好するのもいいでしょう、ね、郡」
「やたら名前を呼んでくるけれど、企み事でもあるんじゃないでしょうね」
「二人きりなんですから、遠慮して宇井特等とお呼びしなくても良いでしょう?」

 にこにこ。笑顔は崩れない。
 まるでヘンゼルとグレーテルを甘くて大きな罠へと誘い込む魔女みたいに張り付いたそれが動かない。
 鉄壁だ。職場でも彼女は「あんまりずっと笑っているから怖い」だなんて囁かれている。少しばかり彼らの気持ちが判らなくもないけれど、私はこれでも彼女を好いているから、「そんなことを言うものじゃない」とそれを窘めた。ナマエをあれこれ語って良いのはただの同僚なんかのあなたたちでは無くて、名指しで好意を告げられた私だけの特権だ。
 ああ、思考が逸れた。……ナマエの仮面を剥がしてやるには、一体全体どうしたら良いものか。今、私が考えるべきは、それじゃないか。

「だったらその堅苦しい喋り方も不要でしょう、ナマエ」

 そういえばずっと崩れない口調について、今更になって言及してみた。
 鏡越しのナマエの笑みが、その時僅かに強張った。

「……特等への敬意のつもりなのですが」
「要らないでしょ、そんなの。此処では二人きり、なんだから」
「ああ、さっきの私の台詞……。なるほど、うっかり一本取られました」

 ナマエは苦笑した。まだ笑みの範疇。無表情の範疇。あともうひと押し、何かないものか。鏡越しに自分へ問いかけて、耳を見て、自分を見て――。

「じゃあ、もう一つ、取られてみるのはどうです。ナマエ」
「え」

 通い慣れたナマエの部屋。すっかり覚えたナマエの呼吸、反応速度、諸々。
 私は素早く立ち上がるとナマエを振り返り、その体を抱え上げた。綺麗に整えられたベッドにナマエを下ろして、その上から覆い被さってみる。……ナマエの顔を見て、私は思わずにやりと笑ってしまった。
 あ、遂に笑わなくなった。
 困惑したナマエの眼差しに、私は答える。

「私が大人しいワンちゃんだと思っていたようだけど、たまにはイタズラの一つでもしたくなる」
「郡……」
「特に、本当に恋人関係にあるのか怪しくなってきて情緒不安定になると尚更ね」

 ――このまま噛みついてみますか、躾のなってない犬みたいに。
 柄にもないことを言って笑んでみれば、ナマエの血色がやたら良くなるのが判った。浮かべる笑みも、どことなくぎこちないものに変わっている。これは成功した、と内心拳を握った。同時に彼女の好意は嘘偽りない真のものであることを知った。
 するりと両手を伸ばしてきた彼女は、私の首へと腕をかけ、唇をくっ付けてきた。僅かな震えが重ねられた唇から伝わってくる。胸の奥から急に熱い感情がこみ上げて来て、頭の中が一瞬真っ白になった。
 気が付いたら私はナマエをきつく抱きしめていて、逃がしはしないと必死で拘束して、今まで耐えて来た分の接触に対する衝動を満たそうと動いていた。ナマエの息が荒くなるのも、ナマエの服が髪が乱れるのも、お構いなしに。
 イタズラじゃあ済みそうにない。
 散々キスをして、あらゆるところから手を滑り込ませて彼女の柔肌を撫でてみて、それでも私はまだ足りなかった。

「……ハロウィンにはちょっと早いけど」

 途切れ途切れの声で、ナマエは溢す。

「イタズラ、されちゃった、ね」

 ――ああ、また鉄壁が崩れた。
 しかしまるで“これで終わり”とでも言いたげなクタクタのナマエに対して私は。

「何を言ってるんだか。このぐらいでイタズラが終わるとでも?」

 ぎゅうっと抱き締めて耳朶を舐めるような、這いずる声を間近で聞かせてやった。
 あからさまに身を強張らせられて少し傷ついたけれど、ここまで来てこれで終わりだなんて綺麗に締まるものか。
 ハードでオーバーなワーク、上から下からの愚痴やら命令やら懇願やら。これはハロウィンに乗っかった私の憂さ晴らしでもあり、同時に、ナマエを瓦解するための決死の作戦でもある。

「此処まで来たのなら、完全に蕩け切った貴女を拝みたいに決まっているでしょ」
「ちょ、待って。せめてお風呂……」
「大丈夫。ナマエは常に良いにおいだから」
「いや、今日汗かいたし、買い物のときに人多かったの、あとまだ片付けとかが」
「そこまで抵抗されるとあの告白とこの関係は全部ちゃちな嘘ってことになるのかぁ、ああ傷つくなぁ」
「嘘だなんて! 私あれでも内心心臓バクバクで死ぬかもというぐらいだったのに……!」
「じゃあやっぱり私は愛されているといことですね、ならもうそろそろ良いでしょう。ちょっと強引なぐらいじゃないとナマエは駄目だっていうのがこの数十分でよーく判った」
「せ、せめて服は自分で脱ぐから……!」

 じたばたもがいて普段とは全く異なる反応を見せるナマエ。間違いなく彼女の素は、元来の姿はこちらだ。
 ナマエの両手を押さえて、動きを封じて、私はナマエに顔を寄せた。自然とナマエが硬直する。真っ赤な顔はとても新鮮で可愛らしい。普段の張り付いた笑みより、ずっとずっと。

「ナマエ。貴女はお菓子を食べる時にいちいち他人に包み紙を剥いでもらってるんですか」
「い、いえ……?」
「私もそうです。だから貴女の服は私が丁寧に剥ぐ」
「郡、私はお菓子じゃないです!!」

 チープで甘ったるくて低俗な感じで。
 もう、半ばヤケクソで。
 私の目は多分据わっていた。
 服は自分で脱ぎたい発言イコール合意と受け取って、私は優しくも強引に彼女に接していった。
 恥ずかしさと動揺と他の何かで、ナマエの抵抗はとても弱々しかった。これも私とこれからのイタズラを許容してくれるという意思表示として受け取る。

「今日の私は“待て”の出来ない悪い犬ですから」

 ちょっとばかり脅かすつもりでそう言ったのだけれど、ナマエは大笑いした。
 呆気に取られる私へ、彼女は優しく微笑んで――初めて見る本当の微笑みで、こう返した。

「惚れ直してしまいました」

 ――それは私も同じです。
 そう返すと同時に私は無意識のうちにナマエを抱き締めて口づけていた。

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