むなしい願い
アルヴァレスは必死に駆けました。
かつて憎き男に腕をもがれたときよりも? 狼姿での散歩中に毛皮を剥がされそうになったときよりも? 悪魔狩人に勘違いで狩られかけたときよりも?
確かにどれも必死にはなりましたが、今の状況とはベクトルが違います。
今、男は逃げているのです。妖しくて艶めかしい魔女の手から。もっと詳しく言うと、その魔女の引き起こす事象に根をあげ掛けている、人間の知り合いに。
つまり知り合いは道連れを欲していたのでした。それが判っているからこそ彼も必死でありました。
「すまないエンツォ。俺はこれから仕事なんだ幸運を祈る」
「逃げるなよぉ! 乗り掛かった船だろがぁ! お前ならベヨネッタを何とかできるだろぉ!」
「見掛けはしたが乗り掛かったつもりは無いぞ、こんな泥船」
そして俺にもあの子はどうにもできない。
「アルヴァレスの薄情者ぉ〜〜〜!」
何とでも言ってくれ。俺はもう歳なんだ。そっと隠居させてくれ。穏やかに日々を送りたいんだ。この間お前がふっかけてきた銀髪小僧の相手は大変だったんだぞ。泣けたぞ。自分へのご褒美に買ったチョコレートが台無しにされたし。そんな恨み辛みからしたら、このくらい……。
アルヴァレスがぼんやりと思った時のことでした。
「相変わらずつれないな。少しは付き合ってくれてもいいだろう?」
目前に舞い降りたのは、もう一人の魔女。月明かりに似た色合いの艶やかなショートヘアを風が優しく撫でていきます。ルージュをひいた唇がゆっくり弧を描くのを見て、男は静かに瞼を閉ざしました。
「……にげれない」
ジャンヌ、君までいたなんて聞いていないよ――。
年甲斐もなく声を上げて泣きたくなったのは、内緒の話です。